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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[1] 失踪

 今にも降りだしそうな薄墨色の雲が、空に重くたれこめている。
 空気はむっとするような湿気を含み、生暖かい水の中を歩いているように身体に絡みついてくる。 信号の赤に立ち止まり、鳴海(なるみ)は空を見上げた。
 降るのかもしれない。
 ぼんやりと思う。そして、別に雨が降ろうと何が変わるわけじゃないが、とも思う。
 なげやりな心境はいつもと変わらない。
 鳴海が空の色と同じグレーのスーツを着ているのが、他人にはどうでもいいことであるように、自分が周囲に抱く心情は非常に素っ気なく、どうでもいいことに感じられる。生来そうした性質なのか、それとも後天的要素が性格に何か影響したものか。
 考えているうちに、信号が変わった。
 別に、それもどうでもいいことだな。
 鳴海は歩きだした。
 場所は東京、とあるオフィス街。辺りには、通勤途中のサラリーマンやOLの姿がほとんどだった。その人込みに紛れて、鳴海は信号を渡り、歩いていく。
 しばらくして鳴海は、一際巨大なビルの前で足を止めた。
 空を射抜くようにして建つビルは、今にも鳴海の上に倒れてくるような錯覚を覚えさせる。そんなビルは、さながらガラスの要塞といった趣だ。
 正面ゲート脇の垣根に据えられた金属プレートには、クライン・エンタープライズ日本支社、とある。
 クラインは、アメリカに本社を置く世界屈指の巨大企業だ。日本にも支社を置き、その支社数は全世界に及ぶ。
 クラインの関連企業は数知れず、さらには政財界に強力なパイプラインを持ち、その影響力が及ばない場所を探す方が逆を探すより遥かにたやすいだろう。
 一方では、不況といわれる現代にあっても、磐石のごとき安定した地位を保ち続けているために暗い噂が絶えない。
 でかすぎると、あることないこと囁かれるものなんだろうな。
 他人事のように呟いてから、他の社員が歩いていく後に続いて、鳴海は正面入口から中に入っていった。
 吹き抜けのロビーには、社員が忙しげに動き回っている。それらを尻目に、鳴海はエレベーターに足を向けた。
 その時、受付カウンターから女子社員が駆け寄ってきた。
「鳴海さん、専務が呼んでましたよ」
 鳴海の傍らに立つと、声をひそめて彼女は言った。
「藤村(ふじむら)専務が?」
 鳴海が思わず訊き返す。
「何回も呼び出しかけてましたから、すぐに七階・第三会議室に行ってください」
 それだけ言うと、女子社員はさっさと自分の持ち場に戻ってしまった。
 鳴海は言われた通り、第三会議室に向かうことにした。
 しかし、鳴海には専務直々に呼び出される理由がわからなかった。
 自分は社員だ。社内で特別目立つ存在ではない。
 与えられた仕事を無難にこなす。必要とあらば残業もする。そうすれば給料が、手当てが貰えるからだ。
 鳴海はそれ以外考えたことがなかった。昇進は確かに魅力だが、そこに至るのは無理だろうと自分では思っている。
 それだけだ。
 要するに、どこもかしこも平凡な社員なのが今の自分だと鳴海は思う。
 その平凡な社員に、専務から直々にお呼びがかかるのはどういうわけだろう?
 エレベーターから降り、目指す第三会議室の前に立った時も、その疑問を引きずったままだった。
 ためらいがちにノックする。
「失礼します」
 言って中へ入ると、円卓の向こうに藤村の背中が見えた。
 白髪混じりの頭にブルーグレーのスーツ姿の藤村は、背が低くずんぐりとして見える。
 会議室には、その藤村以外は誰もいない。
「遅れて申し訳ありません」
 鳴海の言葉に、藤村が振り向く。
 その無表情さと威圧的な眼差しに、一瞬鳴海はこの場から逃げ出そうかと思った。
 待されたことに腹を立て、今にもお前はクビだと言われるのではなかろうか。
「遅かったな、まあいい。かけたまえ」
 鳴海の思惑とは違い、意外なことに藤村の声に怒りや苛立ちはなかった。
 円卓をぐるりと囲む椅子のひとつに、鳴海は言われた通り腰かけた。
 藤村は、鳴海の向かいに腰を下ろす。
「仕事は楽しいかね」
 藤村は穏やかに訊いた。
 鳴海は一瞬、藤村が何を言ったのかわからなかった。
 これは何かの冗談だろうか。社員を個人的に呼び出して、仕事は楽しいかと訊く。
 少しの沈黙の後、鳴海はおずおずと口を開いた。
「は、はぁ」
「無理をしなくてもいい。仕事とは、あまり楽しいものではないことはよくわかっている」
 藤村は穏やかに言った。
 鳴海には、その意図がまったくわからない。
「鳴海継人(なるみつぐと)、二十八歳。東都大学卒業後、クライン東京支社に入社。勤務態度は至って真面目。遅刻はなく、皆勤賞は毎年貰い続け現在に至る。残業も喜んでやる…しかし、特にこれといって目立った所はなく無難で平凡だ。それだけだね」
 鳴海は藤村の口から、先刻自分が考えていたことがそのまま出てくるとは思ってもみなかった。改めて言われてみると…まったくその通りだった。それに対して悔しいという気持ちが少しも湧かないのも、何とも情けない気がする。
 どう答えていいかわからず、鳴海はしばらく呆然と藤村の顔を見つめていた。藤村は相変わらず無表情だ。
「本題に入ろう」
 不意に、藤村が口元に笑みを浮かべた。当惑しきっている鳴海の様子を、愉しんでいるようにも見える。
「別の仕事をしてみる気はないかね」
 藤村は、笑みを消して真顔で言った。
「それは、この会社を辞めて転職しろと…」
「違う。そういう意味ではない」
 藤村は蝿を払うように片手を振って、鳴海の言葉を遮った。
「私の下で、別の仕事をしてもらいたいのだよ」
 藤村の顔は、冗談を言っているようには見えない。
「どんな仕事でしょうか」
 今更、別の分野の仕事を任されても困るという気持ちと、一方で藤村の言う別の仕事にわずかばかりの好奇心が湧く。
 藤村は手にしたファイルを差し出した。
 資料やコピーなどを挟んでおく、何の変哲もないクリアファイルだ。手を出さずに受け取るべきか否か迷っているうちに、藤村はそれを鳴海の目の前に置いてしまった。
「それに詳しい資料が収められている。やってくれるかね?」
 鳴海は一旦目の前に置かれたクリアファイルに目を落とし、顔を上げた。
 しかし、答えられない。
 一体どんな仕事だと言うのだろう?
 専務が平社員を個人的に呼び出して、別の仕事をしないかと誘う。それが普通の仕事とは、鳴海には思えない。
「勿論、働いてもらうにあたってそれなりの用意はこちらでさせてもらうよ。まず、君の給料は今の二倍になる」
「二倍…」
 鳴海が思わず呟く。
「君には妹さんがいたね」
 突然、藤村は話題を変えた。
 それが何の関係があるのだろうと、鳴海の心の中にますます疑問が湧き上がる。
「もし、君が今回の仕事を引き受け、それがうまくいったならば…君の妹さんの手術費用を全額負担しよう」
 鳴海は一瞬、これは夢に違いないと思った。
 手術費用の全額負担だって?一体いくらかかると思っているんだ。
 鳴海は心の中で吐き捨てた。
 しかし、藤村の目は真剣そのものだ。
 そう、夢じゃない。座り心地があまりいいとは言えない布張りの椅子も、木目のテープルの冷たい感触も現実以外にありえない。
「どうかね。損な話ではないと思うが?」
 探るような目で、藤村は囁くように言った。
「は、はい。ぜひ…やらせていただきます」
 震える声で、鳴海は答えた。
 途端に藤村の顔が歪んだ。目を細め、笑みを浮かべると満足そうに頷く。
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
 そして、言い終える頃には笑みが消えていた。
「それでは仕事の話をしよう」
 藤村がそう言った瞬間、窓の外に稲妻が走った。
 カメラのフラッシュを浴びたように、一瞬部屋が白く染まる。遅れて、地響きのような雷鳴の轟き。 窓ガラスを、大粒の雨が叩き始めた。その音を聞きながら、鳴海はまっすぐ藤村を見つめていた。その目には、先刻の戸惑いは微塵もない。何かを決意した強い光が揺れていた。
「今すぐ、鬼哭島(きこくとう)に行ってもらいたい」
「鬼哭島…ですか」
 鳴海の記憶では、北海道の南東数キロの位置にその島はあるはずだった。しかし、それは単にそこにあるという地図上での知識でしかない。実際には、島どころか北海道にすら行ったことはなかった。
 藤村は続ける。
「無論、これはただの出張ではない。いいかね。以後、私の下で仕事をする時は、君のいかなる行動も社内の人間はおろか、家族にも漏らすことは許されない。これは極秘の仕事だ」
 鳴海は頷いた。
「我が社で出資している鬼哭島の研究所、そこの所長が今月の九日、研究所で目撃されたのを最後に行方不明になった。君の仕事は彼の捜索と、彼が研究所から持ち出した物を回収することだ」
 九日といえば三日前になる。
 藤村は、胸ポケットから二枚の写真を取り出した。それを鳴海に手渡す。
 写真の一枚目には、白衣を着た男が写っていた。研究者というよりは、体育の教師の方が似合いそうだ。肩幅の広い、がっしりとした体格をしている。優しい眼差しが、人の良さそうな風貌によく合っていた。
「それが研究所の所長、水野慎一郎(みずのしんいちろう)博士だ。二枚目は娘の冴(さえ)」
 鳴海は二枚目を見た。
 大きな目の色白の少女が、まっすぐこちらを見つめている。無表情さが少し気になったが、ショートヘアのなかなかの美少女だ。華著な身体をセーラー服で包んでいる。
「それに水野についての詳しい資料、その他の事項がまとめてある。やってくれるね」
 ファイルを指差し、もう一度念を押すように藤村が言った。
「これは、警察の仕事では…」
 当然のように頭に浮かんだ疑問を口にする。
 この場合、警察が捜索するのが一番なのではなかろうか。
「警察は今は駄目だ。とにかくまずは君に捜索してほしい。それで駄目なら、その時は警察に頼む」
 今は?何故、今は駄目なんだ。
 しかし、鳴海は黙った。
 引き受けると言った以上は、やるしかない。何故なら給料云々よりも…。
「やってくれるね?」
「はい」
 鳴海の返事に頷くと、藤村は立ち上がった。
「では、今すぐ行ってくれたまえ。急いでもらいたい」
「わかりました」
 鳴海も、ファイルと写真を手に立ち上がる。
 壁に、藤村の顔に、波が踊っている。ガラスの表面を流れる雨が、部屋中に奇妙な影を這わせていた。
 鳴海はくねくねと踊る水の影に背を向け、ドアへ向かった。
 ドアノブに手をかけたところで、鳴海は藤村を振り返った。
「ひとつだけ質問してもよろしいですか、専務」
「何だね」
 海の底のようだと、鳴海は思った。
 部屋中を這う影は、海の波間を漂う泡が描く模様に似ていた。その海の底に、藤村が立っている。
「何故、僕なんですか?」
 それこそ、鳴海が最も疑問に思うことだった。大勢の社員の中で、何故自分がこの秘密の仕事に選ばれたのか。
「適任だったからだよ」
 藤村はさらりと言った。
 何がどう適任なのかは言わない。けれど、鳴海は納得することにした。
 何かに選ばれる時はこんなものなのかもしれない、と。
 鳴海は一礼して、海の底に別れを告げた。

 

 鳴海を乗せたボーイングは、昼過ぎに新千歳空港に着陸した。
 空港の建物から出ると、東京の陰気な雨模様とは違い、北海道の空は陽気に晴れ渡っていた。
 日差しは強いが、湿気のないからりとした空気は驚くほど澄んでいる。鳴海はバスの乗り場まで歩きながら、その空気を存分に味わった。
 鬼哭島は、北海道の南東・太平洋上六十キロの沖合いに浮かぶ島だ。
 元は無人島で、野生馬が駆け回っていたこの島をクラインが買い取り、戦後から現在に至る数十年の間に研究所を中心とした学校・病院・金融機関、各主要施設、それら都市機能を充分に有する島に発展させた。島の人口の七割がクラインの研究所や関連企業に何らかの関わりを持ち、今や島全体がクラインの恩恵を受けたある種の占有地と化している。
 島へはフェリーが就航しているが、日に数本と限られている。鳴海は時刻表で確認しながら、フェリー乗り場へと向かう直行バスに乗り込んだ。
 席につくと、鳴海は飛行機の中で目を通した資料の内容を思い出した。
 水野慎一郎、四十二歳。高校生の娘、冴と二人暮らし。妻とは二年前死別。元北斗大学獣医学部教授。五年前よりクライン出資の下、北海道研究所にて研究開発に励む。五月九日、研究所で目撃されたのを最後に失踪。自宅は鬼哭島真庭(まにわ)第三区…。
 とりあえず、鳴海は自宅からあたることにした。娘がいるなら話も聞けるだろう。そこから、何か手掛かりが掴めるかもしれない。
 しかし、わからないことも多かった。
 博士の失踪した理由、そして持ち出した物。それが、何らかの形でクラインに打撃を与えるものだとすれば、警察に頼まず極秘にと念を押した藤村の言葉にも納得がいく。
 一体、博士は何故失踪したのか。そして、持ち出した物は何なのか。
 どちらも鳴海には見当もつかなかったが、やる気は充分だった。
 遥(はるか)が治るなら、何だってやってやる。
 鳴海は遠く離れた妹・遥を思った。
 遥は今も病院のベッドに横たわり、窓の外を眺めているのかもしれない。
 たった十四歳の妹は学校にも通えず、友達も作れずにベッドで一日の大半を過ごしている。毎晩、悪夢にうなされて泣いていることも看護婦から聞かされていた。痛々しいのは、兄を心配させまいと、鳴海の前では決してそんな素振りを見せず、努めて明るく振る舞うことだ。
 両親は、八年前ともにこの世を去っていた。鳴海にとっては唯一の肉親である遥が、何より大切な存在だった。
 しかし、その遥は重い心臓障害を抱えていた。それがわかったのは両親の死後すぐだった。遥が突然の発作に見舞われ、救急車で運ばれたのだ。折しも、鳴海が大学を卒業する直前のことだった。
「一刻も早く心移植を受けることをお薦めします」
 医者の言葉に鳴海は愕然となった。
 遥の移植手術には、多額の費用が必要だった。まず渡米しなくてはならないし、手術は適合するドナーと順番待ちだ。登録してもすぐに手術というわけにはいかない。渡米するための費用、待つ間の入院費、加えて数千万円という高額の手術費…。
 鳴海が大学卒業後の就職先にクラインを選んだのは、ひとえに遥の手術費用を蓄えるためだった。大手クラインは初任給が他社より高かったし、残業を喜んでやったのは手当が貰えるからだ。それでも鳴海の貯えでは、何年先に手術を受けさせることができるのか到底わからなかった。
 それが一瞬で可能になったのだ。
 俺がうまくやれば、遥は健康になれる。いつ起こるかわからない発作に、毎日ビクビクせずに生きていけるのだ。
 鳴海は窓の外に目を向けた。
 やってやる。何としても。
 フェンスの向こうに、遠ざかる飛行機が見える。空の青に銀の機
体が目に鮮やかだった。

 

「これが…」
 フェリーの甲板、手摺に手をかけたまま鳴海は言いかけた言葉を飲み込んだ。
 青い海に浮かび上がった緑豊かな島。しかし、迫り来る港とその向こうに広がるビル群、近代的な高層建築物のそれらは、充分に発展した都市の一部をそっくりそこに移植したかのような眺めだった。
 見る限りは立派な都市だ。ただ、緑豊かな木々に囲まれたそれら近代的なビル群が、まるで宿主に寄生する異生物のように思えた。
 鬼哭島…クラインが発展させた島。
 鳴海は間近に迫った島に、ごくりと唾を飲み込んだ。
 立派な門扉の前で、鳴海はタクシーから降り立った。
 ここは閑静な住宅街の一角だ。似たような造りの住宅が目立つこの辺りでは、鳴海の目の前に建つ住宅は一際目を引くと思われた。
 輸入住宅であるらしい。レンガタイルの外壁、落ち着いたコロニアル様式の外観。左手に別棟風のガレージ。門から玄関に至るまでの車寄せの両脇には、青々とした芝生。
 鳴海はその洋風の外観に、洋画に出てくるアメリカの住宅を思い出した。
 鳴海は鬼哭島に着くと、その足でタクシーを拾った。
 普段ならタクシーなどもってのほか、駅一区間ぐらいの距離なら断固として歩く主義の鳴海だったが、慣れない土地で地図片手に右往左往するよりはずっと早く効率が良いだろうと、タクシーにしたのだった。
 タクシーは島で一番大きな真庭(まにわ)市の、碁盤の目のように区画整備された幾つもの通りを走り抜け、料金が高くつくのではと不安になってくる頃に目的地に着いた。
 鳴海は、その目的地を改めて確認した。
 表札には、水野慎一郎とある。
 鳴海はインターホンを押した。
 しばらく待ったが、応答はない。
 黒塗りの門扉は開いていた。
 鳴海は少し考えて、門を抜けると住宅に向かって歩きだした。
 玄関のドアノブに手をかける。鍵はかかっていないようだ。鳴海はドアを開けると、素早く中に身体を滑り込ませた。
 家の中はしん、と静まり返っている。
 鳴海は玄関で靴を脱ごうとして、廊下の先に乾いた泥を見つけた。土足で上がった人間がいるようだ。奥へ伸びる廊下に、乾いた泥の足跡が点々とついている。鳴海も土足のまま失礼することにした。
 何か面倒があれば、靴のままの方が逃げるのにも都合がいい。
 廊下から歩いてすぐのリビングに通じると思われるドアは、半開きになっていた。
 博士はともかく、娘はどこに行ったのだろう?
 学校に行っているにしても、鍵がかかっていない上に土足で上がった形跡があるのは明らかに不審だ。犯罪の匂いがする。
 そう考える鳴海自身、土足で人の家に上がり込んでいるのだから、まっとうな訪問者とは言えないが。 鳴海は半開きのドアを靴先で押した。
 ゆっくり、音もなく開いていくドア。
 首だけ、ドアの空間へ突っ込んで中を見る。
 鳴海は、目にした光景に呆然となった。
 何だ、これは。
 四つの一人掛けのソファーは部屋の四方に転がり、布地が裂け、変形していた。白い壁には無数のヒビが入っている。部屋の中央には、電源が入ったままのテレビが横倒しなり、パチパチと落ち着きなく画面を音もなく点滅させていた。音声が出ていないだけに、その明滅は謎めいた信号を発してるようで不気味だ。
 窓にかかったカーテンはズタズタに引き裂かれ、ソファーに置いてあったらしいクッションもボロボロになり、カーテンの布地とクッションの綿が部屋中いたる所に散乱している。
 鳴海は中をぐるりと見回し、部屋に足を踏み入れた。 
 足元のクッションの残骸を拾い上げる。布地はずたずただ。ちぎれた糸屑が、綿とともに鳴海の手から落ちた。
 一体、ここで何が行われたのだろう?
 ただの泥棒ではないのは確かだ。泥棒の仕業にしては、破壊の度が過ぎている。
 まるで、怒り狂った台風でも通り過ぎたような有様だ。
 鳴海はリビングを出て、他の部屋も見て回った。
 一階の和室、バスルーム、キッチン、いずれの場所も物が散乱し、破壊の限りを尽くされていた。使えそうな家具は、ひとつも残っていなかった。
 何だ?一体何が起こったんだ? 鳴海は階段の前に立ったまま、考えを巡らせる。
 こんな風に部屋を破壊するのには、どんな理由が必要だろうか。
 恨み?
 しかし、とそこで疑問が湧く。
 どんな恨みで部屋中を…こんな風に破壊するだろうか。そもそも例えば恨みだとしても、あれほどの破壊をする意味がまるで解せない。何しろ、目につく物をことごとく破壊したと言っていいくらいなのだ。
 キッチンには食器の破片が散乱し、戸棚の中に収まっていた物全てが床に投げ出され、ご丁寧にその戸棚のガラスまで粉々に割られていた。
 バスルームはどんなもので殴りつけたものか、バスタブや壁のタイルに無数のヒビが入り、トイレに至っては便座の蓋が本体から引きちぎられて廊下に転がっていた。
 人間がやったのだろうが、正気の沙汰とは思えない。これほどの破壊にもかかわらず、窓ガラスが一枚も割られていないのが不思議なくらいだった。
 ふと、階段に目を向ける。そこにも乾いた泥の足跡がついていた。
 泥の足跡の主が、家中を狂ったように破壊した上で博士を連れ去ったのだろうか?
 家の中は静まり返っていたが、鳴海は落ち着かない気分になった。
 ここでは何か良くないことが起こったのだ。それは間違いない。
 だが。
 何の手掛かりも得られないまま、逃げ出すわけにもいかない。
 鳴海は、しばらくそのまま聞き耳をたてた。
 何も聞こえない。
 意を決して、階段をゆっくりと一段ずつ上る。
 二階に、部屋中を破壊した犯人がいるかもしれないという考えが脳裏をかすめる。
 階段を上りきった所に、SAEと刻まれた木製の札が留められたドアがあった。それから察するに、娘・冴の部屋らしい。
 その前に立ち、鳴海は中の様子を窺ったが何の気配も伝わってこなかった。
 ドアノブを掴もうとして、急に直に触れるのは危険ではないかという考えが浮かんだ。犯罪が行われたかもしれない家の中、いたるところに自分の指紋が残っていたのでは、万が一警察に見つかった場合に言い訳のしようがない。
 上着のポケットを慌てて探る。ハンカチを取り出すと、その上からドアノブをつかんだ。
 後で、他の部屋のドアノブも拭いて回らねばならない。
 鳴海はそう思いながら、ドアを押し開けた。
 正面の窓際にパイプベッド。壁には造り付けのクローゼット。そして勉強机に本棚。
 この部屋は破壊されてはいない。しかし、極端に色彩に乏しい部屋だった。
 白いベッドカバーが、遥の病室を思い出させた。フローリングの床とクローゼットと勉強机の木目。白い壁と白いカーテン。その色彩の乏しさは、質素を通り越して人間の生活空間が持つ温かみがまるで感じられない。
 鳴海は少々罪悪感を感じつつ、まず机の引き出しを調べた。
 ペンシル、ボールペン、消しゴム。それらが雑然と入れられたプラスチックケース。白いメモ用紙。日記でもあればと思ったが、特別目につくような物は何もない。
 本棚には教科書と参考書が並んでいる。辞書と百科事典以外、コミックや小説、雑誌の類がひとつもないのが鳴海には不思議だった。
 水島慎一郎の娘は、高校生だと資料にあった。
 高校生といえば遥とそう年頃は変らない。コミックや小説が大好きな遥を知っているだけに、この部屋の主の冴という少女が、それらの類を部屋にまったく置いていないのが気にかかった。
 机には何もないと判断して、鳴海は大いに罪悪感を感じつつ、部屋を横切るとクローゼットを開けた。 何着かの地味な色の服に混じって、セーラー服がかかっていた。写真で見たものと同じ、水野冴が通う高校のものだ。 制服の胸ポケットを探ると、生徒手帳が出てきた。
 鳴海は手帳を開いた。
 ぱらばらとめくると、住所録を書く欄に流麗な文字で住所が二つ記されていた。
 ひとつは鳴海も知っている研究所のものだ。もうひとつは、別荘と書かれている。こちらの方は、資料にはなかった。
 胸ポケットから自分の手帳とペンシルを取り出すと、鳴海は素早く別荘の住所を書き写した。そして、元通り制服に生徒手帳を戻す。
 そこで鳴海は考える。
 制服がかけてあるということは、水野冴は学校に出ていないことになる。
 荒らされた鍵のかかっていない家を見る限り、娘も父親とともに失踪した可能性が高い。
 鳴海はクローゼットを元通り閉じた。
 その時、ガタン、と壁の向こうから音が聞こえた。
 隣の部屋だ。
 鳴海は耳を澄ませ、様子を窺った。
 全身が一気に緊張した。手の平がうっすらと汗ばむ。物音を立てまいとするあまり、呼吸が浅く早くなる。
 クローゼットに手を掛けたそのまま、鳴海はしばらくじっとしていた。
 何も聞こえない。
 隣の部屋に、家中を荒らしまくった犯人が…いるのだろうか?
 それとも、博士か娘が隠れていた?
 どちらにしても、このままここにじっとしているわけにはいかない。
 もし、家中を破壊した恐ろしげな犯人なら…迷わず逃げよう。
 そう思いながら、鳴海は冴の部屋を出た。
 そっと足音をしのばせて、音がした隣の部屋へ向かう。
 その部屋のドアは、またしても半開きだった。中から、ガタガタと何かがぶつかり合う音がする。
 誰かがいる…。
 そっと押し開けようとしたその時、ドアは内側にすっと開いた。
 そこには女が立っていた。一瞬、鳴海は博士の娘かと思ったが、すぐに違うことに気がついた。
 年齢は二十四、五歳。長い黒髪に陶器のような滑らかな白い肌、切れ長の目が印象的な美人だ。身体にぴったりとした淡いブルーの長袖Tシャツとジーパンは、見事な胸の膨らみと引き締まったウエスト、そして滑らかな腰のラインを際立たせている。
 女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻したらしい。鳴海を上から下までじろじろと遠慮なく眺め回した。
「あなた誰?ここで何してるの?」
 不法侵入を咎めるような強い口調ではない。道端で会った知り合いに『何してるの』と訊いているようなのんびりとした口調だ。
「あんたこそ、ここで何しているんだ?」
 鳴海は訊き返した。
 女は、神妙な面持ちで鳴海を見つめている。鳴海が怪しい人物かどうか考えているようだ。
 ふと、女の足元に視線を落とした鳴海の目に、白いローファーが映った。女も土足である以上、怪しいのはお互い様だ。
 かまわず、鳴海は続けた。
「この家の住人はどこに行ったんだ?それに、ここで何があったんだ?」
 女は眉をひそめた。
「こっちが聞きたいわ」
 鳴海はじっと女を見つめた。嘘を言っているようには見えない。
「あんたは、何者だ?」
 女は、無言で鳴海を見つめ返すだけで答えない。
「家の中の様子を見れば、警察に通報する方が自然だよな。けど、それをしないからには何かわけがある…あんたは何か知っているんじゃないのか」
 鳴海の言葉に、意外にも女は笑みを浮かべた。黒い瞳が、誘うような光をたたえている。
「あなたこそ何か知っているんじゃない?眼鏡でごまかしたって私にはわかる。危険な眼をしてる」
 鳴海は、動揺が顔に現れないことを祈った。
 女の言葉は図星だった。
 鳴海は自分の眼が、どこか危険な印象を人に与えることを知っていた。
 早い話が目つきが鋭いのだが、ほとんど度が入っていない眼鏡でも、かけることによって雰囲気が和らぐことに気づいてからは、ずっと眼鏡をかけて生活している。
 鳴海は女から目をそらすと、片手で眼鏡を押し上げた。
「あんたも水野博士を捜しているのか」
「そうよ」
 女はさらりと言った。
「あなたも同じみたいね。残念ながら、博士も娘もここにはいないわよ」
 それはある程度予想していたことだ。だが、目の前の女が何故博士を捜すのかはわからない。
「あんたもクラインの人間か」
 言ってから、鳴海はしまったと思ったが遅かった。これでは自分がクラインの人間だと言っているようなものだ。
 女は嬉しそうに微笑んだ。
「なるほど、あなたはクラインの人間ね。それなら私の敵じゃないわ。ねぇ、手を組まない?私は、あなたに私の知っている情報をあげる。あなたは、あなたの知っていることを私に教える。どう、悪くないでしょう?」
 鳴海はため息をついた。
 女が敵なのか味方なのか、鳴海には判断のしようがない。そもそも博士を探すということに、敵も味方もあるのだろうか。
「あんたと俺の目的が一緒だとしても、俺にはあんたを信用するだけの材料がない」
「信用なんてする必要ないわ」
 女はきっぱりと言った。
「情報を交換するだけよ。博士を捜すなら、一人でやるより二人の方がいいわ」
 鳴海は考えあぐねていた。手掛かりになる情報は多いに越したことはない。とはいえ、正体不明の女を連れ歩くのも考えものだ。
 しかし、今の鳴海にはまったくと言っていいほど博士を捜す手掛かりがない。せいぜいこの後研究所に行き、博士の行き先に心当たりがありそうな人間に尋ねて回るか、もしくは冴の手帳にあった別荘に足を運ぶかだ。
「わかった。情報交換といこう」
 鳴海の言葉に、女はほっと息を吐いた。
「ちょっと待っててくれる?」
 右手で鳴海を制して、女は半開きのドアから部屋の中に入っていった。
 鳴海も入口から中を覗く。
 女が物音を立てた部屋は書斎であるらしい。壁側に設置された天井に届くほどの本棚にはびっしりと厚い書物が並び、窓際の机にもぶ厚い本が重ねられ、その脇にペン立てとメモ用紙が置かれていた。下ろされたブラインドから差し込む光が、それらの上にストライプを描いている。
 女は、机の上に置かれた白いトートバックを手に取った。
「私が調べた限り、ここには何も手掛かりはないわ。あるのは狂ったように荒らされた下の惨状だけ。さ、行きましょう」
 きっぱりと言うと、女は部屋を出て行った。
 鳴海の脇をすり抜ける時、女から微かに花のような香りがした。
 一瞬迷って、鳴海は机の上を見た。
 ぶ厚い本は表紙に難しい専門用語が並んでいる。メモ用紙は白紙のままだ。しかし、鳴海はメモ用紙を手に取ると、女の後を追って急いで部屋を出た。
 歩きかけた時、ふと廊下の奥にもうひとつのドアがあるのが見えた。
「ちょっと待ってくれ」
 鳴海の声に、階段へ向かいかけていた女が振り向く。
「何?」
 女が小首を傾げて鳴海を見た。「こっちは調べたのか?」
 鳴海が手で示した先を見て、女は首を振った。
「そういえば…そこは見てないわ」
 何気なく視線を落とすと、泥の足跡が廊下についている。よく見ると、それらは冴の部屋や書斎を無視してまっすぐ奥の部屋に伸びていた。
 つまり、階段を上ってきたこの泥の足跡の主は、冴の部屋や書斎には見向きもせず奥の部屋に直行したということだ。
 これが階下を徹底的に破壊した犯人の足跡だとすれば、この先の部屋も…。
 鳴海は、足跡をたどりながらその部屋のドアの前に立った。
 この部屋に、博士と冴が隠れていたとしたら?階下の部屋中を荒らした犯人によって惨殺され、冷たい死体となって部屋に横たわっていたら…?
 俺は、何をビクついているんだ。
 鳴海は、不吉な想像を振り払うように、勢いよくドアを押し開けた。
 部屋の中は薄暗かった。
 博士の寝室であるらしい。ダブルベッドが窓際にあるだけの質素な部屋だ。
 しかし、鳴海の目に飛び込んできたのは、ベッドでもぴったりと閉められたカーテンでもなかった。
 ベッドの上の壁に、鳴海の目は釘付けになった。
「何なの、これ」
 鳴海の横で、女が言った。
 左手で書かれたような、奇妙に歪んだ巨大な文字が壁一面に刻まれている。

 パンドゥーラ

 文字はそう読めた。
「どういう意味だ…?」
 鳴海は思わず呟いた。
 壁に刻まれた文字は、下の破壊し尽くすされた惨状よりもさらに不気味に思える。
 これを博士や冴が残したとは到底思えない。だとすれば、家中を破壊した犯人…泥の足跡の主が残したメッセージだろうか?
 そんな鳴海の考えを裏付けるように、泥の足跡はベッドの上まで続いていた。どんなもので削ったのか、ベッドカバーには切り裂かれた壁紙や木屑が散っている。
 しばらく呆然と文字を見つめていたが、やがて鳴海は恐る恐る中に足を踏み入れた。ベッドの脇にあるクローゼットの前に立つ。
 一瞬、そこに何かが潜んでいるのではと緊張に身を硬くしたが、中から何かが飛び出すようなことはなかった。
 中にはスーツが何着かかけられ、その下に積み重ねられたボール箱には靴が入っているだけだった。
「何もないわ」
 一通り調べると、ため息とともに女が呟いた。
 鳴海も同感だった。
 ここには、何も手掛かりがない。あるのは、徹底的に破壊し尽くされた階下の室内の惨状と、壁に刻まれた不気味なメッセージだけだ。
 二人はそろって部屋を出た。
 鳴海が女に続いて階段を降りきった時、家の外にタイヤの軋む音が聞こえた。
 鳴海と女は、同時に足を止めた。
 バン、と乱暴に玄関ドアが開かれる音とともに、乱雑な足音が廊下に響いた。複数の人間が、慌ただしく家の中に乱入してきたらしい。
 鳴海は女と顔を見合わせた。
 女は首を振る。
 違う、私は知らない。
 緊張した女の目はそう言っていた。
 鳴海は階段の影から目だけ覗かせ、玄関の様子を窺った。
 その瞬間、ビール瓶の栓を開けたような音がした。とっさに、首を引っ込めた鳴海は目を疑った。
 一瞬覗き見た廊下には、金髪の大男が銃を構えて立っていた。
 まさか。
 振り向くと背後の壁に、小さな穴が二つ開いている。
「こっちよ」
 女が鋭く言った。
 金髪の男は、聞き取れないほどの早口で何か叫びながら、どたどたとやかましい足音とともに、階段に向かって駆け寄ってくる。
 鳴海は女について走りだした。
 女の向かう先には、何もなかったはずだと鳴海は記憶していた。細いドアがあったが、裏口に続くものと思っていたのだ。
 女は突き当たりのドアを開けた。女に続いて鳴海も駆け込む。
 二人は薄暗いガレージの中に立っていた。住宅の左側に見えた、別棟風のガレージだ。
 女はドアを閉め、即座にドアから離れた。
 弾丸が、ドアを貫通して女と鳴海をかすめていった。
 ガレージには、黒塗りの車が一台停まっている。
 鳴海の心臓は、痛いほどに激しく脈打っていた。全身が緊張のあまり震えてくる。
 女は素早く車に駆け寄り、ドアを開けた。
「乗って、早く!」
 言われた時、鳴海はすでにシートに身体を滑り込ませていた。
 二人が車に乗り込むと同時に、金髪の巨漢がドアを蹴破ってガレージにまろび出てきた。
 女がハンドルを握り、エンジンをかける。
「歯を食いしばってて」
 言うなり、女は思いきりアクセルを踏み込んだ。
 鳴海の背中がシートに押しつけられる。
 車はタイヤを軋ませながら急発進した。
 凄まじい衝撃とともに、シャッターを突き破る。
 急に視界が明るくなり、鳴海の耳に先刻の音とは比べものにならない派手な銃声が追いかけてきた。
 シートに身を沈めたまま、鳴海がルームミラーで背後を見ると、三人の外国人らしい男達が銃をこちらに向けて発砲している。何発かが車体にめり込む音がした。
 女は急ハンドルを切り、車は門から通りに走り出た。
 車体が斜めに滑るのを微妙なハンドルさばきで制御しながら、女は一気に車を加速させた。
 通りを猛スピードで走り抜ける。
 鳴海はシート越しに後ろを見た。
 外人は門の外までは追ってこなかったようだ。
 ひとまず、鳴海はほっと胸を撫で下ろした。
 みるみるうちに、博士の住宅は遠くなる。完全に見えなくなるまで、鳴海は後ろを見つめていた。
 なんてこった。
 鳴海は心の中で吐き捨てた。
 やっぱり、まともな仕事じゃないじゃないか。
 鳴海は、一瞬にして別世界に放り出された気分だった。まさか映画やテレビで目にするような銃撃に自分が遭うとは。
 しばらくして車は大通りの道にさしかかり、女はそこでスピードを落とした。そこそこ混んだ四車線に乗り、他の車に速度を合わせる。
「もう普通に座っても大丈夫よ」
 女が落ち着いた声で言った。
 気がつくと、鳴海はシートに深く身体を沈み込ませていた。
 言われて、身体を持ち上げる。スーツはくしゃくしゃになっていた。緊張のために青白くなった顔は、まるで酔っ払いが飲み過ぎて吐く寸前のようだ。もっとも酔っ払いはスーツをくしゃくしゃにしても、銃で撃たれたりはしないが。
「さっきの連中は?」
 ずれた眼鏡をかけ直しながら、鳴海は訊いた。心臓の鼓動はだいぶ落ち着いていた。
 女は一瞬鳴海を見て、前を向く。
「米軍よ」
「何だって?」
 鳴海は思わず訊き返していた。
「米軍?何だってそんな連中が、日本の個人住宅で銃を乱射しているんだ?」
「何も知らないみたいね」
 女は鳴海の動揺を察して、落ち着いた声で言った。
「彼らの目的も、私達と同じ。博士の行方を捜しているのよ」
「わけがわからないな」
 鳴海は、今すぐにでも東京に帰りたくなった。
 こんな危険な仕事だとは聞いていない。
 まともな仕事ではないにしても、銃弾から逃げねばならないほど危険な仕事だとは、思ってもみなかった。
「そうね。まず自己紹介しましょう。あなたの名前は?」
 女がのんびりと言った。女は意識的にそうしているように思える。声には母親が幼い子供に優しく語りかける、落ち着いた柔らかな響きがあった。
 まったく、たいした女だ。
 鳴海は、女の落ち着き払った様子に素直に感嘆した。見た限りでは先刻の銃弾の中、車を走らせた人物とは思えない。
 鳴海はひとつ深呼吸して答えた。
「鳴海継人。あんたの言う通り、クラインの社員だ」
「私は月ノ瀬瑞希(つきのせみずき)。新聞記者よ」
「新聞記者?何故、新聞記者が博士を捜しているんだ?」
 しかも、その新聞記者が、銃を乱射した外国人らしき男達を米軍だと言いきれるのは何故なのか。
「その前にひとつ聞きたいんだけど、会社はあなた一人を派遣したの?」
「そうだ」
 瑞希はふっと息を漏らした。意味ありげなため息だった。
「水野博士が失踪したのは奴らのせいか」
「わからない。でも、博士は彼らと個人的に接触していたの」
「何のために」
「生物兵器を売ろうとしたのよ」
 鳴海は眩暈がした。
 失踪した博士の写真の顔。極秘に博士が持ち出した物を回収しろと言った藤村の顔。そして、一瞬目にした、銃口をこちらに向けた金髪の大男。それらが脳裏にめまぐるしく明滅した。
 その上、生物兵器だと? 鳴海は思わず笑いだしそうになった。
 なんてこった。やっぱり俺は、とんでもないことに首を突っ込んでしまったらしい。
「大丈夫?顔が真っ青よ」
 瑞希が訊いてきた。声には、本当に心配そうな響きがあった。
「あ、ああ。続けてくれ」
 言いながら、窓の外に目を向ける。
 風景はいつの間にか、住宅街からより建物が密集した大通りに変わっている。行き交う車も幾分増えていた。
「米軍との取引は半ば成立していた。ところが、博士は失踪してしまったわ。持ち出したのは、その生物兵器だと見て間違いない。だから、奴らは博士を血眼になって捜しているのよ」
 鳴海は疲れたように首を振った。
「何も知らない一社員には…荷が重すぎる」
 本音だった。
 鳴海は博士の自宅に行くまで、会社に関係する研究所の所長一人捜し出すくらい、案外簡単なのではないかと思っていたのだから。
 移り行く景色をぼんやりと眺めながら、鳴海はため息をついた。
 目を閉じて考える。
 水野博士、米軍、新聞社の女。極秘に捜せと言った藤村。さらに…生物兵器。
 そして、最後に脳裏に浮かんだのは遥の笑顔だった。
 長い病院暮らしのせいで青白い肌。あどけなさの残る幼い顔立ちに大きな鳶色の瞳。伸ばしかけのおさげが肩の辺りで揺れている。
 ほっそりした、おそらく同年代の娘に比べて小さな身体をパジャマに包み、面会時間にはベッドに座って鳴海を待っている。鳴海が買って行く雑誌やマンガ、時には小説を心から楽しみにしている。
 後戻りはできない。
 鳴海は決めたのだ。遥の身体が治るためなら…幸せになるためなら何だってすると。だが、博士を見つけだし、生物兵器を回収するというのは当初に比べ、遥かに困難なのは今や疑いようがなかった。
「それで、これからどうするんだ?」
「ピーピング・トムに会うわ」
「誰だって?」
 鳴海は思わず訊き返した。
「ピーピング・トムよ」
 落ち着いた声で、瑞希は繰り返した。


 ゆっくりと瞼を開け、彼は自分が闇の中にいることを知った。
 一点の光も感じられない漆黒の闇。しかし、不思議と恐怖心は湧いてこない。むしろ、闇は心地良く感じられた。
 暖かくも、寒くもない。
 そこで彼は考える。
 ここはどこなのだろう?
 辺りには、物音は聞こえない。そして、まるで全身の神経が麻痺してしまったかのように、彼は何も感じないことに気がついた。
 鼻をひくつかせてみる。
 匂いはない。
 腕を動かそうにも、自分の腕が命令に従って動いている感覚がまるでない。足は…同様に何も感じない。
 彼が認識する唯一の感覚は、視覚だけだった。
 一面の闇。目を閉じているのではないかと、彼は何度か瞬きを繰り返したが、相変わらず辺りは闇だけ。
 これでは、ここがどこなのかわからない。
 彼は記憶を辿った。
 車を走らせている自分の姿が、闇のスクリーンに浮かぶ。助手席には、うら若い青年が座っている。
 『例の物』を持って、あてもなく車を走らせたのだ。やがて、車を停めたのは何もない浜辺だった。
 記憶はそこまでだった。
 そこで何があっただろう?
 まったく思い出せなかった。
 そもそも、『例の物』 とは何だ?
 彼の記憶は混濁していた。深く立ち込めた霧の中に取り残されてしまったようだ。
 そして、彼は突然気がついた。
 私の名は? わからない。
 どこで何をしていた? それもわからない。
 確かなのは、今の自分が漆黒の闇に包まれていることと、何ひとつ明白な記憶を持ち合わせていないことだ。
 そもそも、自分にはそんな記憶があったのかすら、はっきりとしない。
 何もわからない。
 もどかしさに、彼は思わず呻き声を発した。
 しかし、自分の耳には何も届いてこなかった。
 闇はまったくの無音だ。
 彼は叫んでみた。
 自分が予想したような、獣の咆哮に似た叫びは聞こえてはこない。
 叫び声を上げている感覚はあるのに、ざらついた喉の乾きも震えもはっきりと感じているのに、何も聞こえない。
 彼は不意に、闇が恐ろしいものに思えてきた。
 まるで闇が鼓膜を破って身体の中に入り込んできて、それが彼のすべての感覚を奪ってしまったような気がしたのだ。
『闇が、鼓膜を破って入り込む』
 その言葉が、生々しい響きを持って彼を震わせた。
『あれは、マウスの耳から侵入した』
 何の前触れもなく、そんな言葉が彼の脳裏をよぎった。しかし、
『あれ』についてもマウスについても覚えがない。
 一体何なんだ?私は、闇は、マウスは、そして…『あれ』とは?
 彼は闇に恐れを抱きながら、同時に内なる闇に恐怖した。
 助けてくれ!
 そう叫んだつもりだったが、やはり何も聞こえなかった。

 

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