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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[12] ロック・ポイント 2

 波のうねりが、耳元で鳴っているようだ。
 目を沖合いに向けると、まだ微かに白い波頭が立っているのが見える。波の高さは四、五メートルといったところか。この波の高さでは、明日は地元の漁船も出漁を見合わせるだろう。
 鼻孔に届く風は、潮の香とともに湿り気を感じさせた。つい先刻まで降っていた雨のせいだ。今は晴れているが、この分ではいつ再び雨が降りだしてもおかしくはない。
「柴(しば)さん、どうです?」
 背後から呼ばれて、柴は振り返った。
 桜木(さくらぎ)がこちらにライトを向けている。眩しさに顔をしかめ、柴は手を上下に振った。
「眩しいだろ、照らすなら下だ、下」
 桜木は、慌ててライトを下に向けた。
 この時間まで事務所に残り、通報で夜の港にかり出されるのは不満かと思えば、桜木本人は妙に嬉しそうだ。
 大きな目に、茶髪のロングヘア。妙に色っぽい顔立ちと体つきをした二十一歳の桜木睦(さくらぎむつみ)は、港湾警備に入社して五カ月目の新米警備員だ。そんな桜木は、現場で先輩刑事に従う新米刑事のように柴にくっついてきたのだ。
 一方の柴敦生(しばあつお)は三十一歳。港湾警備に勤めて十年のベテランだ。潮焼けした浅黒い肌に、切れ長の一重。短く硬い髪の毛は、ツンツンと逆立っている。格好こそ地味な港湾警備の制服と合羽姿だが、がっしりした体つきには黒レザーの鋲打ちジャケットが似合いそうな雰囲気がある。そんな柴は、見た目はかなり強面だ。
「どうですかね?何かわかります?」
 桜木は何がそんなに面白いのか、子犬のように好奇心に満ちた目でライトに照らされたコンクリートを見つめている。
 柴もコンクリートに視線を走らせ、桜木の手からライトを取った。ゆっくりと桜木が照らした位置からライトの光を移動させる。桜木は柴の後ろについて移動しつつ、その様子を眺めていた。
「これを見ろ」
 柴の声に、桜木は柴にぴったり身体をくっつけて身を乗り出した。桜木の胸の柔らかな弾力が、柴の脇にモロに当たる。
 そのでかい胸を俺に押しつけるなというのに。
 柴は咳払いをしながら、桜木から身体を離す。しかし、当の桜木はそんな柴の様子にまるで気づかず「何です?」と呑気に柴の顔を見返した。
 コンクリートには、微かなタイヤ痕が見られた。水を吸って黒くなったコンクリートの表面に、細かい泥がタイヤの溝を忠実に描き出している。少し崩れた痕は、先刻まで降っていた雨のせいだろう。
 ため息をつきつつ身を屈め、柴は指で示した。
「ここのコンクリートは川砂の粗いのを使っている。だから跡が残りやすい。よく見てみろ」
 桜木も屈み込むと、下に視線を向けた。一心にライトの光の中を見つめているうちに、ぽんと手を打った。
「わかった!タイヤの痕がありますよ、柴さん」
 こちらに向けた桜木の満面の笑顔。
 だから、何がそんなに嬉しいんだ、おめーは。
 何やらわからないが、柴はそんな桜木に軽い脱力感を覚える。
「でも、川の砂?海の砂じゃないんですか?」
「ああ」
 柴はざっと説明した。
 建設に用いたコンクリートの材質によって、タイヤ痕は微妙に変化する。
 荒めの川砂が混ぜられたこの区画のコンクリートは、別の区画に比べて摩擦が大きいため、タイヤ痕は色濃く残りやすい。
 川砂はコンクリートによく混ぜられる材質だ。これは、海砂では代用がきかない。海砂には塩分が含まれているため、長く使用するうちにコンクリートの中で水分と混ざり合い、それが乾燥した後にコンクリート内に無数の空洞を生じさせる。細かな空洞によってもろくなったコンクリートは長くはもたない。
 現在では少なくなったものの、昔は建築用の砂に海砂がかなり用いられていた時期があった。いわゆる建築ラッシュ時だが、その頃に海砂を混ぜて作られた建造物は例外なく耐久年数が低い。そうした建造物をめぐり、中には深刻な事故が発生し、訴訟問題にまで発展したケースもある。
「つまり、海の砂をコンクリートに混ぜちゃうと長持ちしないんですね」
「特に、こういう水に常に接するような護岸にはな…とにかく、問題はこのタイヤ痕だ」
 柴が、ゆっくりとその微かなタイヤ痕をたどっていく。細かな砂粒と泥…どちらもこの港湾内のものだろう…からなるタイヤの痕は、その所々でタイヤが横に二つ並んでいるのがわかる。
「大型車輌…十一トントラック…」
 それを聞いて、桜木が目を丸くする。
「そんなことまでわかっちゃうんですか?すごーい」
 と、目に星でも浮かんでいそうなほど、桜木は尊敬の眼差しで柴を見た。
「何が凄いんだ、馬鹿。んなものは、よく見ればわかる。見ろ、タイヤ痕を」
 馬鹿と言われて、桜木は気分を害したらしい。途端に子供のようにぶーっと頬を膨らませつつ、言われた通りタイヤ痕に視線を戻した。
「あ、このタイヤ大きいですね。それ横に二つ並んでる…」
「十一トントラック…ダンプカーでもいい。大型車輌は、前二本、真ん中と後ろ側に各二本ずつで八本、全部で計十本タイヤがくっついている。タイヤが二つ並んでいるのは大型車輌だな。それに、このタイヤから見た車幅…普通車輌よりも広い。だから大型車輌」
「ふうん」
 何だよ、その『ふうん』は。
 気のない桜木の返事に柴はムッとしつつも、タイヤ痕を見つめた。
 この区画には、車はそれほど入ってこない。よっぽど物好きなドライブ途中の若者か、カップルの車が気紛れに来たとしても十一トンクラスの大型車輌は使うまい。
 そう考えると、この近くの倉庫に荷物を運んできた運送会社か、もしくは工事現場に資材を運ぶ車のいずれかが、迷い込んで戻っていった…そう考えるのが妥当なセンだろうと柴は思う。その一方で、不吉な考えも頭の隅にあった。
 たかが車が迷ったぐらいで、真庭港湾管理センターの由井から無線が入るわけがないのだ。
 一時間ほど前、港湾警備事務所に無線が入った。
 夜勤の柴と桜木、そして別室で仮眠している同僚数人が事務所に残っていた。
「こちら、真庭港湾管理センター。港湾警備聞こえるか」
 由井の口調は、相変わらず切って型にはめたように堅苦しかった。
 それに柴が応えると、
「至急、真庭港西区域周辺を調査してくれ。何か異常があれば、こちらに報告してほしい。以上」
 と言って、一方的に無線が切れた。
 『以上』って何だよ。それだけかよ。
 とりあえず、柴は心の中でツッコミを入れてみた。
 柴は事務所で退屈はしていたが、理由もなくかり出されるのはご免だった。しかし、柴の隣でコーヒーを入れていた桜木は喜んだ。
「事件ですかね?」
 んなワケないと柴は思ったが、気にもなった。
 『何か異常があれば』と由井は言った。それはつまり、その『異常』が何なのか由井は知らないということだ。一方で、それを見つけて報告してほしいと言う以上、港湾西区域に何かがあると確信しているに違いない。
 事務所の日程を書き込むホワイトボード、その上の壁にかけられた時計を見ると、十時十分を少し過ぎていた。かちかちと耳障りな音とともに時間を切り刻む秒針を眺めているうちに、柴の心は決まっていた。
 その後、仮眠中の同僚を叩き起こし、説明もそこそこに柴は事務所を出た。ところが、柴一人で調査に向かう予定が、桜木が無理矢理同行すると言ってついてきたのだった。
 そして、真庭西区域を徒歩で見て回った。結果、由井が言うところの異常にあたりそうなのは、ごく最近ついたと思われるタイヤ痕だった。


 桜木は柴からライトを奪い返すと、再びタイヤ痕をたどり始めた。
 護岸の端まで来たところで、桜木は顔を上げた。
 その先は海だ。暗い波間にライトの光が反射して、真っ黒い油が光っているようにも見える。
「柴さん?」
「何だ」
 柴の言葉に、桜木がライトで海面を照らして見せた。
「落ちちゃったみたい。その車」
「おお」
 言いながら、柴は立ち上がった。
 不吉な考えが的中したらしい。
 タイヤ痕はまっすぐにコンクリートを横切り、海中へと消えた通りに軌跡を描いて残っている。
「どうします?」
「…何か見えるか」
「無理ですよう。こーんなに暗いんだから。港湾西区域が大型船舶専用で、他の所より深いって教えてくれたの、柴さんじゃないですかぁ」
「わ、悪かったな。じゃあ連絡だ」
 柴は携帯電話を取り出すと、ボタンを素早く押した。
 相手はすぐに出た。
「えーと、ああ、真部?元気か?そーかそーか。由井いる?え?怒ってるって?いいから出せよ、直接文句聞くから」
 電話の向こうで渋っていた真部に、由井が代わった。
「由井だ。何故無線を使わない。ルール違反だぞ、柴」
「うるさい。車まで戻るのが面倒なんだよ。それより、お前が言っていた異常ってのは車が落ちたことか?」
「何?車が落ちたぁ?それと関係しているのか…うーん、何とも言えないな」
 柴はため息をついた。
「こっちに調査しろと言ったのはお前だぞ。何かないのか、異常とやらの根拠は」
 今度は由井がため息をつく番だった。
「…わかった。実は、出港を明日に予定していた船がそこに停泊してたんだが、今夜になって急に雨の中を出港したんだ。それがついさっき…十時頃だ。止めようとしたが、とっとと湾外に出やがった。慌てている様子だったんでな、何かおかしいと…まあ、そういうわけだ」
 なるほど、と柴は納得した。それならそれで、先に言えばいいものを…という言葉はとりあえず飲み込んだ。
「それで、ここに異常があると踏んだんだな。大型車輌…十一トンクラスの車輌が一台、港湾内に沈んでいると見て間違いなさそうだぞ。この辺りには車はめったに入らないし、タイヤ痕はまっすぐ海に向かっている」
「うーん。車か…」
 携帯を手に辺りを見回していると、桜木がこちらに向けてひらひらと手を前後に振っているのが目にとまった。どうやら手招きのつもりらしい。
 柴が近づいて身を屈めると、桜木はライトで足元を照らしながら、指先でタイヤ痕を指した。その白い指を、タイヤ痕に沿って軽くすうっと前後させた。
「おお」
 柴が唸った。
「何だ、どうした」
 電話の向こうで、由井が身を乗り出しそうな声で訊いた。
「タイヤ痕だが、ブレーキをかけた形跡がまったくない」
 そこで、柴は立ち上がった。歩き周りながら、考えをまとめてみる。
 コンクリートに残された砂粒と泥の痕は、比較的鮮明だった。それも、タイヤに刻まれた溝の痕が確認できるほどに。通常、ブレーキをかければそれまでの走行中に熱をもっていたタイヤにさらに摩擦熱が加わることで、焼きつけるようにタイヤの通った痕がコンクリート…あるいはアスファルトに刻まれるはずだ。この区画には特に荒い川砂が用いられているのは、先刻桜木に説明した通りだった。
 そこに黒いひきつれた痕がないということは、その車はブレーキをかけなかったということになる。タイヤに付着した細かな砂と泥をコンクリートに擦りつけただけで、焼けた黒い引きずったような痕をコンクリートの表面に残していないのはそのためだ。
 柴は足を止め、たった今思いついたそれらについて由井に話して聞かせた。由井は黙り込み、何かを考えているようだった。
 少しして、由井が口を開いた。
「柴、その辺りに何か落ちてないか。白い塗装片か、ガラスか」
「何だ、その白い塗装片って」
 そこで柴は、再び桜木が手を振っているのに気がついた。
 近づくと、桜木は再び足元を指差した。
 そこに、ライトの光にきらきらときらめく小さな粒があった。柴が手に取ってみると、それは青みがかったガラスの欠片だった。 
 そのガラスは、住宅の窓などに使用されるフロートガラスに比べ厚みがある。ガラスは表面にカキ殻状の細かな波紋を波状に描き、全体に角が丸い。断面を見ると、薄い層が見える。
 間違いない。特殊コーティングを施された車の窓ガラスだ。
「あったぞ。ガラスの破片だ」
 桜木は少し離れた所にも、別の破片を見つけていた。ぐるりとめぐらせたライトの光に、それらのガラスの破片が宝石のようにきらめいて消えた。タイヤ痕に気を取られ、先刻は意識すらしなかったが、かなり広範囲にわたってガラスが飛び散っている。
 しかし。
 そこで柴は考える。
 ただ単に、海に突っ込んだのではないのだとすれば、このガラスはどうして割れたのか。これほど広範囲にガラスが飛び散っているとすれば、それは猛スピードで何かに衝突…。
「おい、まさかこの車は、急に出港したとかいうその船にぶつかったのか?」
「…だと思う」
「で、その船は船体が白」
「ああ」
 だから、白い塗装片か、ガラス…か。まったく、先に言えっての。
 柴が再び桜木に目を向けると、桜木は眉を寄せた困った顔のまま首を振った。それまでの会話から、柴の視線が何を意味するか察したのだろう。
 桜木の目は、そんなものはないと言っている。無理もない。船体と車体が激突したとしても、細かな塗装片をライトの光だけで探しだすのは無理だ。
「残念だが塗装片は…ダメだな。夜だしな。見た範囲じゃ、それらしいものはない」
「…そうか…他にはないか」
 柴は、辺りをぐるりと見回した。
 ん?
 柴は目を凝らした。
 先ほどまで気づかなかったが、少し離れた場所に倉庫がある。その倉庫の影になった漆黒の暗がりに、柴はどこか違和感を感じた。
 何かある。
「由井、もう少し辺りを調べてみる。何か見つかったら連絡する」
「わかった。よろしく頼む」
 そこで切ろうとした柴だったが、由井がまだ何かを言っているのに気がついて慌てて携帯を耳に当てた。
「何だ?何か言ったか」
「気をつけろ、と言ったのさ。じゃあな」
 ため息とともに、柴は携帯を閉じてポケットに収めた。
「縁起でもないぜ、まったく」
 由井がこれまでそうした言葉を相手に…特に柴にかけるのは初めて聞いた。
 まるで、これから何かが起こるみたいじゃないか。
 まったくもって縁起でもないと思う一方で、それも無理もないようにも思えた。
 真庭港に勤務して以来、車に衝突されて逃げる船などというのは初めてだった。
 無性にタバコが吸いたくなったが、柴はポケットに手を入れて持ってきていないことに気がついた。
「柴さん?」
 呼ばれて振り向くと、桜木が不安そうな顔で立っている。その顔色が、具合でも悪くなったのかやけに青白い。
「何だ、どうした?また何か見つけたのか」
 応える代わりに、桜木は海面を照らした。
 そこに。
 うつ伏せに浮かんだ人間…おそらく男の背中が見えた。


 そっと布地を持ち上げると、ナツは辺りの様子を窺った。
 人の気配はない。
 ナツは腹這いのまま、音を立てないように注意しながらベッドの下から這い出た。
 立ち上がると、微かに甘いアルコールの匂いが鼻孔に届いた。
 甘い香りに誘われるように、ナツは静かに歩き始めた。
 隣の部屋に入ると、テーブルの上に先刻まで男が飲んでいたらしいワインがそのまま残されている。
 ナツは、この部屋の男のことを思い出していた。
 逃げる途中で二人組の男達に見つけられ、慌てて目についた部屋に入った。
 一見して無人だったが、ナツは隠れる場所を探して奥のベッドルームに駆け込んだ。
 そこに、男が一人いた。
 その男は、ちょうどシャワーを浴びたばかりのようだった。
 まだ湯気の立つ身体をバスローブで包んだ男は、ベッドに腰を下ろし、俯きながら髪をタオルで拭っていた。タオルから見え隠れする髪は、鮮やかな金色だった。
 ナツはとっさに、男に背を向けた。しかし、その瞬間ドアが乱暴にノックされた。
 逃げ場がない。
 振り返ると、男はアクアマリンのような明るい水色の瞳でナツを見つめていた。
 端整な顔立ちの男だった。
 男の表情には、不思議と驚きや敵意のようなものはなかった。むしろ、暖かく優しい表情が浮かんでいた。
 不意に、男はナツに向けて手を差し出すと、人差し指を下に向けてベッドを示した。
 ベッドの下に入れ。
 ナツはそう解釈した。
 ベットカバーを捲り上げ、ナツが狭い隙間に潜り込むのと同時に、ドアが乱暴に開け放たれる音がした。
 少しして、男達が英語で何やら話しているのが聞こえた。
 ドアを開けて入ってきたのは、先刻のナツを追いかけていた二人組だろう。
 しかし、彼らはこちらの部屋にまでは入ってこないようだ。どうやら、ベッドに座ったままのバスローブ姿の男に遠慮しているらしい。
 やがて会話は途切れ、ドアが閉じる音がした。
 じっと息を潜めていると、男がベッドカバーを持ち上げてナツを見た。
 ナツが礼を言おうと口を開きかけると、男が立てた指先を自分の口元に当てた。
 喋るな。
 そう言っているように思えた。
 男がそのまま指をナツの後ろに向ける。その先に目を向けると、ベッドの足に小さく黒いものがへばりついているのが見えた。
 一瞬、ナツは虫かと思ったが、どうやら違うらしい。そこで、先刻から男がナツに言葉をかけない理由に気がついた。
 盗聴器だ。
 ナツはごくりと唾を飲み込んだ。テレビや雑誌でその存在を取り沙汰されるのは目にしても、実際に見るのは初めてだ。その上、盗聴される側にいることも。
 男は手の平を下に向け、手を上下させた。
 ここにいろ、と言っているように思える。
 ナツは頷いた。それを見て、男は満足そうな笑みを浮かべると、べッドカバーを元に戻した。
 あの後、何度か二人組の男達は男の部屋にやってきた。
 その都度、男は二人を追い返していたようだ。
 盗聴器が仕掛けられた部屋で監視されているにしては、男は二人組の男達に対して強気だった。英語で交わされる会話の内容はわからないが、雰囲気から男が二人組の男達よりも上位の立場の人間であることが窺えた。
 ユージン・Kの部下だろうか?
 それにしては、盗聴器つきの豪華な部屋にいて、密かに監視されているというのは腑に落ちない。
 ならば、客だろうか。
 ナツはそこで首を振った。
 色々想像をめぐらせたところで、ナツにはわかるはずもなかった。
 唯一わかったのは、男がナツを助けてくれたことだけだ。
 どうして助けてくれたのだろう?
 ナツは男の笑みを思い浮かべて、複雑な思いにとらわれた。
 『蓋を開けてみるまでは、何が入っているかわからない』と祖母が言っていた言葉を思い出す。それと同じく、この船にいる人間もすべてが悪い人間ばかりではないのかもしれない。無論、そう思いたいというナツの希望が、そんな甘い考えを抱かせるのかもしれないが。
 やがて気を取り直すと、ワインと薔薇の香りがする部屋から、ナツはそっと廊下に出た。
 少しの間、ナツは右左どちらに進むべきか迷った。そこで、ナツは沢村を思い浮かべてみる。
 彼なら、こんな時どうするだろう?
 答はすぐに出た。
 操舵室、制御室、あるいはコントロール・ルーム、セキュリティ・ルーム…呼び名はともかく、船内の様子が把握できる場所を目指す。
 ナツはそう心に決めた。
 再び辺りを見回す。
 廊下には誰もいなかった。ナツはこの部屋に入る前に自分が走ってきた方向とは逆に進むことにして、ゆっくりと歩きだした。
 等間隔にドアの並ぶ直線の廊下を注意深く進んでいくと、やがて十字路に出た。そこで立ち止まり、床、壁、天井と視線を上げていく。
 ふと、天井付近の壁に設置されたカメラが見えた。
 鈍い金属の光沢を放つ四角いボックスの中央に、丸いレンズが見える。固定金具で天井にしっかりと止められたボックスは、よく見るとそれ自体がゆっくりと動いていた。十字路全体を少しずつ視点移動しながら監視しているのだ。
 今まで、考えもしなかった。
 ナツは、沢村とともに捕えられていた部屋を思い出していた。あの部屋にも、盗聴器が仕掛けられていた可能性がある。そして、各廊下に設置されている監視カメラ。無我夢中で走り回っていたなら、ナツは遠からず確実に捕まっていただろう。そして、何故自分が捕まったのか、監視カメラと盗聴器の存在を知らなかったせいだということにすら、意識が及ばなかったに違いない。
 あの金髪の男はナツを助けてくれただけではなく、それらの知らなかった事実に気づくきっかけまで与えてくれたのだ。無論、それでも圧倒的に不利な状況に変わりはないが、知らないよりは遥かにマシと言えるだろう。
 監視カメラをかわし、どこか別の場所にも大勢いるはずのユージン・Kの部下に見つからないよう気をつければ、何とか目的の場所にたどりつけるかもしれない。
 自分を逃がしてくれた沢村とあの金髪の男のためにも、簡単に捕まるわけにはいかなかった。
 僕でも、役に立てるはずだ…。
 ナツはそう自分を奮い立たせ、カメラの動きをじっと見つめた。カメラはゆっくりと舐めるように、廊下にその無機質な視線をめぐらせていく。
 今だ。
 ナツは、カメラが向いている方向とは反対側の通路に素早く駆け込んだ。そのまま、一気に走り抜ける。
 少しして、突き当たりに窓の並ぶ廊下に出た。
 そこでナツは足を止めた。曲がり角の天井付近にカメラはない。壁にも目を凝らしたが、のっぺりとしたクリーム色の壁には、怪しいものは特に見当たらなかった。
 窓の外は、漆黒の闇だ。時折、藍色の暗い空が上に、白い波と思えるものが下に見え隠れしたが、いくら目を凝らしても遠近感のない絵が窓に張りついているようにはっきりとは見えなかった。
 ナツは廊下の左右を見比べた。
 窓があることから察するに、この廊下は船の側面に位置しているのだろう。とすれば、左右どちらかが前、どちらかが後ろということになる。
 船にとって重要な部分…船内の状況も把握できるような施設は、前と後ろ、どちらにあるのが普通なんだろう?
 ナツは以前乗ったことのある、北海道本土と鬼哭島を結ぶフェリーの船体を思い出してみた。 
 その記憶から考えるに、答は後ろだ。しかし、左右のどちらが後ろなのか。
 しばらく考えて、ナツは自分の勘に従うことにした。
 右だ。
 ナツは再び歩き始めた。


 ミストラルは、ディスプレイをじっと見つめた。
 船の前方の様子を捉えるためにマストに固定されたカメラは、照明に照らされたデッキとヘリポート、その向こうの海を映し出し、ミストラルの目の前のディスプレイにその映像を送り続けている。
 他にも三百台近いカメラが、船内の廊下の各ポイントとキャビンの一部、船体前後左右等、船内のいたるところに設置されていた。それらの映像をリアルタイムに監視しているのは、セキュリティ・ルームに設置された監視モニターだ。常時三人がそれらの映像をチェックしている。不審な動きがあれば、各ポイントに配置された二人組の作業員がそのカメラに映し出されたポイントに急行することになっていた。
 だが、今回は後手に回っている。
 ミストラルは、唇を軽く噛みしめた。
 監視モニターに不審なものが映し出されたのは、ユージン・Kが例の日本人三人を第三階層の船倉に閉じ込めた後だった。
 カメラには、ありえない白衣が映し出されていた。この船内に白衣のドクターはいない。医療スタッフだろうと船内で作業する者は、全員ミストラル同様モスグリーンの作業着を身につけている。
 その白衣をクローズアップしていき、ミストラルはそれが化物であることに気がついた。
 黒い顔…頭部の前側に白い頭蓋骨らしきものが覗き、そのうつろな黒い眼窩には眼球が浮いているように見えた。白衣の袖から、鞭のような触手。ドレスの裾を波打たせるように、ずるずると直立したまま滑るように廊下を移動していく。
 とっさに思いついたのは、ブギーマンだ。
 ぼろぼろの白衣を引っ掛け、つややかに波打つ漆黒のドレスを引きずるように黒い化物がゆっくりと前進していく様は、おぞましさとともに目が離せない強烈な存在感に彩られていた。
 目にしたことのない異形のものに対する、好奇とおぞましさとが混ざり合った感情。その先にあるのは、純粋な嫌悪か恐怖か…その両方かもしれない。
 ブギーマンめ。
 ミストラルは軽い寒気を覚えながら、ユージン・Kに指示を仰いだ。
 ユージン・Kは、いつもと変わらぬ自信に満ちた声でこう言った。
「隔壁で第二階層まで誘導、そこで一旦一区画を閉鎖して捕獲…冷却剤を忘れるな」
 いつもは何も感じないが、ミストラルはその声に少し安心感を覚えた。
 後は、化物を映し出したモニターの前からなかなか離れようとしない部下達に、ミストラルが捕獲を命じた。
 移動中のパンドゥーラを廊下の隔壁を操作して閉じ込め、その上で冷却剤を閉鎖空間に噴霧するだけで捕獲は事足りた。
 そして、被害状況を調べさせると、ジョシュ・フィリップをはじめ、船内退去の放送を聞いてなかったと思われる作業員、ベンジャミン・ケイルとニック・フーパー両名の死亡と遺体が確認された。
 その報告をユージン・Kに入れると、『三十分だけ待て。その間、私への通信は誰だろうと一切つなぐな』と言われた。
 ミストラルはぴんと来た。
 あの二人の日本人…カメラで見る限り、どちらも美形の少年と青年に尋問するつもりなのだろう。
 他に捕らえた日本人とは違い、彼ら二人だけは今回の件に関わる理由が見当たらない…ユージン・Kはそう話していた。そして、そうした場合は大抵ユージン・Kが直接尋問する。
 ユージン・Kが尋問に予定外に時間を割くはいつものことだった。普段は、その尋問にかかる時間が長引くと、予定・計画の進捗状況を気にして苛々していたミストラルだったが、今日は好きなだけ長引かせてもらいたいと思っていた。
 あの化物。
 思い出すだけで背筋が寒くなった。少しでも長い間、あの姿を見ないでいられるなら、尋問がずっと続けばいい…ミストラルは本気でそう思った。
 ミストラルは不気味な黒い影を振り払うように、外の様子を映し出したディスプレイに意識を戻した。
 深い藍の闇空に、真っ黒な雲が流れていく。海は黒く、時折白い波頭がはぜるのが見えた。その向こうに、漆黒の黒い断崖が長々と横たわっているのが見える。
「ロック・ポイント」
 ミストラルは呟いた。
「ほほう」
 ミストラルは、声につられてそちらを見た。
 メインフロア。
 天井のまばゆい光を放つ巨大なシャンデリア、その光を受けてつやつやと輝く暗赤色と白の大理石で造られた床。五百人もの人間が一度に食事ができる広大なスペースには、白いクロスのかけられた四人がけの丸テーブルが幾つも並んでいる。
 それらテーブルに囲まれた中央のスペースに、巨大なモニターが設置されていた。そのモニター前のテーブルに、観客がゆったりとした布張りの椅子に座っている。
 椅子には、ユージン・Kとその横にルパート・ミストラル、その隣にスーツ姿の大柄な灰金髪の男がゆったりと座っていた。その後方には、これもまた大柄で屈強そうなスーツ姿の男が四人、直立不動で控えている。男達は軍人らしい短い髪にスーツ姿がどこか不似合いだが、その姿勢は彫像と化したかのように見事なまでに動かなかった。
 先刻声を出したのは、灰金髪の男だった。見た目は六十代に手が届くぐらいの年齢に思えるが、ともすれば灰色に近い薄い水色の目には少年のような明るい輝きが宿っている。
 彼らが眺めているのは、ミストラルの前に置かれた端末のディスプレイでも確認できた。一度に複数の画面を展開させながら、ミストラルはある映像を捉えたカメラをメインフレームに固定した。
 ミストラルだけが、少し離れた場所にあるテーブルで端末を操作している。この『ショー』を、事実上コントロールしているのはミストラルだった。
 ミストラルが船内のカメラの情報をセキュリティ・ルームを経由して把握、操作することで自在にカメラはそのアングル、向きを変え、大画面にリアルタイムでショーの映像を送っているのだ。
 今は白衣を着た化物から、女が一人と男が四人、逃げている様子がモニターに映し出されていた。
 彼らの背後に、白衣の化物が迫りつつあった。
 不意に黒い鞭のような触手が画面を横切り、最後尾に残った男の肩を切り裂いた。その瞬間を見て、灰金髪の男は「ほほう」と感嘆にも似た声を漏らしたらしい。
「素早い動きだ」
 灰金髪の男は、さらに感心したようにつけ加えた。
 見ると、大柄なコート姿の男が、負傷したスーツ姿の男を担ぐようにして走りだしたのだ。その男の動きのことを言ったのだと、ミストラルもすぐにわかった。残った若い男と女は、協力してもう一人を支えるようにして小走りにその場を離れていく。
 ん?
 ミストラルはカメラを操作した。すると、長い触手をだらりとぶら下げたまま、白衣を着た漆黒の化物がじっと立ち尽くしている様子が映し出された。
 音声を操作すると、ぼそぼそとノイズのような音が聞こえる。
「ミストラル」
 ユージン・Kがミストラルを振り返った。その意図は言葉に出さずともわかる。音量を上げろと言いたいのだ。
「今やっています」
 言いながら、端末を操作する。
 別のカメラが、化物の姿を捉えた。
「うむ」と唸ったのはルパートだ。
 大画面いっぱいに、所々白い骨の覗く黒いものの顔…頭部が映し出された。それとともに、ぼそぼそというノイズも激しくなる。
 突然、キーンとう耳障りな音とともにスピーカーがハウリングを起こした。
 次の瞬間、不気味な声が室内に響き渡った。
「…飢えを満たし、雌を捜す。飢えを満たし、雌を捜す…」
 スピーカーから漏れたその声に、フロアの空気が凍りついた。
 ミストラルも、端末にかけた指が凍りついたように動かせなくなった。
 誰も動けない。
「飢えを満たし、雌を捜す…雌を捜す…雌を捜す…」
 不気味な機械の合成音に似た声が、同じ言葉を繰り返した。
 日本語だ。
 化物は日本語を話している。
 先刻まで英語で話し、言葉の意味がわからないはずの灰金髪の男とルパートも、無言のまま画面に釘づけになっている。
 その言葉に込められた不気味なまでの執念を感じ、ミストラルは背筋に微かな寒気を覚えた。
「何だ?何と言っているんだ」
 灰金髪の男が、緊張に耐えかねてかユージン・Kに訊いた。その急いた口調に、男の動揺が窺える。
「…飢えを満たし、雌を捜す、と…落ち着いてください、マクスウェル大佐」
「何のことだ。ヤツは何故あんなことを言っている?」
 マクスウェルは、落ち着きなく辺りに視線をさまよわせた。
 しかし、視線の先の誰もが、その問いに答えない。いや、誰一人として答えることができないのだ。
 依然、声は同じ言葉を繰り返していた。
「飢えを満たし、雌を捜す」
 ユージン・Kが静かに席を立った。ゆらりと辺りの空気が揺れるような威圧感。しかし、ミストラルはその目に見えないユージン・Kのオーラに微妙な変化を感じ取っていた。
 いつもの彼ではない。
 画面いっぱいに映し出された化物が、不意にこちらを向いた。正確には、この映像を捉えているカメラの方を向いたのだが、一瞬画面の向こうの化物と目が合ったような気がして、ミストラルは戦慄した。
 慌てて視線をそらし、再びユージン・Kに目を向ける。
 ユージン・Kの顔色が、心なしか悪くなったように思えた。先刻までの楽しげな表情が、今では氷のような無表情に変わってしまっていた。
 再び画面に目を戻すと、化物の顔…口の辺りに亀裂が走った。
 赤い血の色が広がり、漆黒の闇に横たわる真紅の三日月が刻まれた。その意味は、その場の誰もが説明しなくても理解しただろう。
 漆黒の化物は笑っていた。

「飢えを満たし、雌を捜す」 

 その一言とともに、突然画面がプツンと切れた。
 画面から視線をそらすことができずに、その場の全員がモニターに映し出された砂嵐をただ呆然と見つめていた。

 

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