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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[13] 闇 1

 どこからか、重い金属の音が響いてくる。そして、微かな低いモーター音。
 船内には、不思議と人の気配が感じられなくなっていた。
 まるで、その静けさは動いているのは船だけになってしまったかのような気さえしてくる。
 マリー・セレスト号のように、人が忽然と消えてしまった船をナツは思い浮かべた。
 マリー・セレスト号は1872年にニューヨーク港を出航後、ジブラルタルに向かう途中のディ・グラチア号に発見されるまでの十日間を漂流していた船だ。
 北緯36度56分、西径27度20分、アゾレス諸島のサンタマリア島から西方76キロの海上が航海日誌に記されていた最後の位置だ。マリー・セレスト号を発見したディ・グラチア号が航行していた海上からは、10キロ余りの距離がある。その間、この船は漂流していたらしいと推測された。船内には荒らされた様子はなく、つい今しがたまで人がいたと思われる痕跡がいたる所に残っていた。それでいて、マリー・セレスト号には誰一人として乗っていなかったのだった。
 たった今まで、人々が食べていたようなテーブルの上の食器の温かいスープ。ランプの明かり、読みかけの本、誰かが立ち上がろうとして、ずれたままの椅子…人がいたと思われる痕跡はいたる所に残っているのに、人そのものだけが消えている…。
 不気味な想像はやけにリアルで、ナツは慌てて首を振ってその想像を打ち消した。
 窓の向こうは、相変わらずの闇。
 そして、廊下に響く自分の靴音。ガラスに映った自分の姿を目にして、ナツは少しやつれた自分の顔に見いった。
 ひどい顔。
 頬はこけ、目の下にはうっすらと隈ができている。寝不足の顔。そして、空腹の顔だ。
 空腹は、実際のところそれほど感じてはいなかった。しかし、時折胃の辺りがくるくると音をたてているところを見ると、自分では意識していないだけで腹が空いているのだろうと思う。
 そして、それはこの船の中に捕まっている全員に当てはまることだ。
 特に鳴海と瑞希は、朝に別荘で取った食事が最後のはずだ。今頃は、二人も空腹を感じているに違いない。
 そんなことを思いながら何気なく目を向けた窓の外の闇に、ナツはパンドゥーラの姿を思い出した。
 白衣を引っ掛け、滑るように移動する黒い魔物。それは、ナツが瑞希の頭の中を覗き見た時に、彼女が視覚で得た情報を脳裏に映像として再現した瞬間、まるでナツ自身が体験しているかのように知覚される。
 瑞希が目で見たものを思い出した瞬間、その瑞希に目を向けていたナツは、彼女とまったく同じものを見ることになる。それがピーピング(覗き見る)と瑞希が命名した、あまりありがたい名前とはいえないナツの能力だった。
 あのパンドゥーラも、空腹を感じるのだろうか。
 そこでふと、ナツはホテルで覗き見たアメリカ人男性のことを思い出す。
 男性の頭の中を覗き見、彼の映像の記憶をサムネイル画像のように次々と脳裏に展開させていきながら、ナツはその映像の中に不気味なものを垣間見た。
 地下室で、彼と対峙したおぞましい異形のもの。
 複数の人間が寄り集まり、ひとつの肉塊と化したその姿は、到底現実に存在するとは思えないものだった。
 そして、そのありえない映像は、どこかで別の場所で同じようなものを見た記憶があった。
 ナツはすぐに思い出す。
 病院で、そしてマンションの一室で、加藤邦弘と麻衣子の頭の中を覗き見た時に、まったく同じ印象を抱いた、あの現実には見ているはずのない、おぞましい恐怖に彩られた映像。そしてそれらを、彼らは現実に目にしたものとして鮮明に記憶していた。
パンドゥーラ。
 ナツは辺りに注意深く視線をめぐらせながら、早足で歩いていく。
 パンドゥーラが、人間の…あるいは獲物の視覚に何らかの作用を及ぼし、偽りの映像と記憶を植えつけているのだとしたら、それがこのありえない記憶の説明で一番筋が通る。いずれにしても、パンドゥーラに接触した人間が、少なからず現実にはありえない恐怖の映像を鮮明に記憶している点は間違いない。
 そこで、ナツは立ち止まった。
 待てよ。
 ナツは呟いて思いをめぐらせた。
 パンドゥーラに接触した結果、恐怖の映像を見たのだろとしたら
 あのホテルにもパンドゥーラがいたということなのか?
 そう考えた途端、不安になる。
 もしそうだとしたら、ホテルはどうなる?ホテルの宿泊客、従業員…それほど流行っていなくても、少なく見積もっても四〜五十人が犠牲になるのではないか。
 そして、ナツはあることに気づいた。
 水野冴…彼女が無事だったのは、何故だ?
 パンドゥーラは、無差別に獲物を捕食しているように思えた。ナツの仮説では、恐怖に彩られた映像を見せられた獲物が、隙を見せたその一瞬を狙って。
 ホテルの一室で、ショック状態のまま横たわっていた男性がパンドゥーラの被害に遭ったのなら、パンドゥーラは彼の体内にすでに入り込んでいたのではないか。そして、男性が襲われる瞬間を目撃して、冴はあれほど怯えていたのか…。
 突然、背後からばたばたとやかましい足音が聞こえてきて、ナツは思考を中断した。振り返って見ると、大柄な男が二人、銃を手にこちらに向かってくる。
 やっぱり、ちゃんといるじゃないか。
 ナツは心の中でそう呟き、慌てて走り出した。
 ぜいぜいと苦しげな自分の息が耳に届く。
 それにしても、彼らはどうしてここに自分がいることがわかったんだろう?
 ナツは、各所に設置された監視カメラを徹底的に避けてここまで来たはずだった。それでも居所がわかるとなれば、ナツには理解の及ばないハイテク機器が、どこかに設置されていたのかもしれない。
 ナツの足がもつれた。心臓が耳元で鳴っている。日頃の運動不足が祟ってか、体は思ったほど前に進んでくれない。
 目についた角を曲がり、窓の並ぶ廊下から殺風景な狭い廊下に入る。しかし、少しも走らないうちに、ナツは横から伸びてきた手に腕を掴まれていた。
 バランスを崩して、危うく転びそうになる。
 強い力に腕を引かれて、ナツはずるずると暗い廊下に開いた穴…ドアの開いた空間に引きずり込まれていった。


 神が唯一、人に許さない能力…それは、歴史を書き換える事。
 アリストテレスの言葉だ。
 何故、それを今思い出したのか、ミストラルにはわからなかった。
 しかし、何か取り返しのつかないミスを、知らずに犯してしまったような掴みどころのない不安が胸にある。
 ミストラルは、カメラを忙しく切り替えた。
 船内の三百台ものカメラの映像を常時管理するには、全三十台の監視モニターの映像をセキュリティ・ルームのシステムを経由して、十五秒おきに切り替える必要があった。そして、今ミストラルは十五秒を待たずに、手動で全カメラの映像を切り替える作業に没頭している。
 それもこれも、パンドゥーラの捕獲のためだ。
 映像が途切れた後、かなりの努力を要してミストラルは船内カメラの映像をチェックした。パンドゥーラが破壊したと思われるカメラの、前後の区画のカメラの映像を重点的に調べる。しかし、そのどちらにもパンドゥーラの姿は映っていなかった。いかにも鈍重そうに動く白衣の魔物は、まるで煙のように消えてしまっていたのだった。
 あの、おぞましい笑顔と砂嵐だけを残して。
 そうして映像をチェックしていくうちに、いくつかの監視カメラが故障していることに気がついた。光学回路が狂ったのだろう。性能は悪くないが、レンズの中心付近に衝撃が加わると不安定な光学回路が狂い、モニターの映像が真っ黒になってしまうのがこのカメラの弱点だ。見たところ、いくつかのカメラからの映像は黒く染まっていたが、同軸ケーブルに異常があるわけではなく、電圧にも変化がないためセキュリティ・ルームの警報が鳴ることもない。
 その黒く染まったカメラの映像は後でチェックすることにして、ミストラルはパンドゥーラの姿を求めて映像を切り替えていった。
「それで…」
 その声に、ミストラルは視線を上げた。
 少し離れたテーブルで、ユージン・Kとルパート、そしてマクスウェルが酒を酌み交わしている。
 酒はシングルモルトウィスキー、二十年もののマカラン。いぶしたような芳醇な香りが、ミストラルの鼻孔に微かに届いた。
「君が売りたいと言うのは、あの化物なのかな?」
 ルパートがユージン・Kに訊いた。
 表面上、ルパートは極めて冷静に見える。年齢不詳の麗人は、優雅な仕草でグラスを傾けた。
「あれは、実験段階で生まれた副産物的なものだな。本来は、もう少しスマートだ」
 ユージン・Kが、自信に満ちた声で答える。
「人型、恐ろしい外見、触手で攻撃…僕の目に映ったものは、正直兵器とは言いがたい」
「そう…私もそう思っていたところだ」
 ルパートの冷ややかな言葉に、マクスウェルが同意した。
 マクスウェルの背後には、屈強そうな男達が四人、相変わらず無表情に直立不動の姿勢を保っている。そんな男達を護衛にしていながら、マクスウェルには高級酒を味わう余裕がないらしい。先刻から、彼のグラスの琥珀色の液体は、早いペースで減り続けている。
 あんな化物を見た後では、それも無理もないとミストラルはマクスウェルに密かに同情していた。
「詳細なデータ、そしてサンプル…ミスター・水野の実験結果はどうなった?」
 ルパートは切り出した。その様子は、商談での自分の役割を理解し尽くした、抜け目ない完璧な交渉役を思わせた。
「明日には、お二人にそれらを披露できる。しかし、今夜は駄目だ。せっかくのショーが台無しになってしまったのでね」
 ユージン・Kはグラスを傾けながら、微かに笑みを浮かべた。その目に余裕と自信、そして揺るぎない強い意思を感じさせながら。
「それで、本当なのかな。パンドゥーラ一体で、大気も土壌も汚染することなくクリーンに敵を一掃できるいうのは?」
 ルパートはユージン・Kを見つめたまま、囁くように訊いた。
「そうだ。私も、それが知りたい」
 言いながら、マクスウェルが落ち着きのなくグラスの中身を空けた。ユージン・Kがゆったりとした仕草で、マクスウェルのグラスに琥珀色の液体をなみなみと注ぐ。
「説明した通り…X線にも赤外線探知機にも反応しない。闇に紛れて敵地に侵入し、敵を捕食する。しかも、中身からね。仲間の異常に気づいたところで、一度襲われた者を救うすべはない。パンドゥーラは次々と敵を食らう。貪欲に確実に…」
 ユージン・Kはゆっくりと話した。その囁くような低い声が、滑るように相手の心の中に入り込むことをミストラルは知っている。相手を魅了する声なのだ。
「敵を一掃した後は?パンドゥーラをどうやって止める?」
 マクスウェルは、それにも同感らしい。頷きながら、ユージン・Kに顔を向けた。
「パンドゥーラは、マイナス10℃以下でその活動が停止する。いわゆる冬眠状態だ。冷却剤で行動抑制後、捕獲すればいい」
「寒冷地での使用は無理、か…」
 ルパートがグラスを傾けた。
「だが、お二人の『庭』に雪は無縁だろう?」
 ユージン・Kが笑みを浮かべた。その余裕たっぷりの笑みに、ルパートとマクスウェルはそれぞれに頷く。
 ルパートはしばらく考え込んでいる様子だったが、やがてグラスをテーブルに置くと、ユージン・Kに向き直った。
「よし。君の言い値で買おう。パンドゥーラのプロトタイプ一体と、ミスター・水野の実験データ一式…幾らで売る?」
 ルパートの言葉に、マクスウェルが慌ててグラスの中身を飲み干した。
「待て。私も君の言い値で買おう。ユージン、幾らなら売ってくれるんだ?」
 ユージン・Kは、答えずにじっとマクスウェルを見つめた。その目には、何の感情も宿っていない。それどころか、陳列棚に並んだ商品を見定めるような冷めた目つきだ。
 不意に、マクスウェルの体がぶるぶると震え出した。
「な…?」
 マクスウェルは目を見開いた。
 その瞬間、ほぼ同時にユージン・Kとルパートはスーツの胸元から銃を引き抜いた。
 メインフロアに、銃声が響き渡った。
 異常に気づいて駆け寄ろうとした四人の巨漢に、容赦なく銃弾が浴びせられる。
 唸るような低い残響音の中、スローモーションのようにゆっくりと男達の体がくず折れた。
 銃を抜く暇も与えずに、ユージン・Kとルパートの銃が放った弾丸は、彼らの息の根を一瞬で止めていた。
 銃弾は、すべて男達の左胸に命中している。心臓がその機能を瞬時に停止させられたせいか、倒れた彼らの胸元からの出血は驚くほど少ない。
 辺りに硝煙の匂いと、薄い弾幕が立ち込める。
 一瞬の静寂。
 カラン、と場違いな軽い音をたて、テーブルの上に置かれたままのグラスの中で氷が揺れた。
 ユージン・Kが何事もなかったかのように、落ち着いた仕草でマガジンを入れ替えた。シルバー・メタリックの光沢を放つ銃はベレッタM92FS。装弾数16発、その重量は1.15キロにもなる。その全弾を撃ち尽くしていながら、ユージン・Kの銃を持つ手には震えのひとつすらない。
 一方のルパートも、平然と手にしたリボルバー、S&WM629に弾を込め直し、スーツの胸元に優雅な手つきで滑り込ませた。
 ミストラルがマクスウェルに目を向けると、彼は激しくがたがたと全身を震わせている。たった今、目の前で起こった銃撃など目に入っていないようだ。目はうつろで、口がだらりと弛緩している。よだれが一筋、顎に滴った。
 ユージン・Kがテーブルに手をつき、マクスウェルの顔を覗き込んだ。
「君の護衛は死んだよ」
 静かな低い声に、マクスウェルは全身を震わせながらユージン・Kに目を向けた。
「な…ぜ…」
 マクスウェルの手が、ゆるゆると伸びた。ぱくぱくと魚のように口を開け、喉を力なく掻きむしる。
「アメリカ海軍戦略軍事顧問、バート・マクスウェル大佐…そんな人間はこの世に存在しない。君は誰だ?FBIか、それともCIAかね?」
 ユージン・Kの声に、マクスウェルは目を見開いた。
「まあ、いいじゃないか。どうせ、誰だろうと結果は同じだったんだから」
 ルパートが他人事のように呟き、再びグラスを手に取った。ひと口グラスの中身を含み、すうっと氷のような冷たい笑みを浮かべる。
 ユージン・Kもそれを見て薄く笑う。そして、マクスウェルに向き直り、目を細めた。
「ところでマクスウェル…おっと、マクスウェルじゃなかったな。ジョン・ドゥ(アメリカの男性身元不明死体を指す俗語)か?名前はともかく、そのマカランはさぞかし甘かっただろうな」
 マクスウェルと呼ばれていた男は、今やぜいぜいと苦しげな息を吐くばかりだ。
 突然、激しく痙攣したかと思うと、その体が椅子から転げ落ちた。床の上にぐったりと横たわる男の体は、すぐに動かなくなった。
 ミストラルはそれを見て、男に対して抱いていた同情の正体に気がついた。
 動揺しているマクスウェルに同情したのではない。ミストラルがこの男の正体…ミストラルが調べた各機関のデータベースによると、数年前にすでに死亡しているバート・マクスウェル(こちらは陸軍参謀省顧問だった)に成りすました別人…であることを突き止めたせいで、彼がたった今向かえたその末路を、メインフロアに来る前から予測出来ていたせいだと気づいた。
「…意外と古典的だな。毒を盛るにしてもジギタリスとはね」
 ルパートが揶揄するように言った。
 ミストラルは先刻、ユージン・Kがマクスウェルのグラスに酒を注いだのを思い出した。その時に毒を盛ったのだろう。それも、目の前で…。
 ジギタリスは葉と茎をすりつぶして使用すると、成分が重いため沈殿しやすい。しかし、マクスウェルのように落ち着きなくグラスを傾けていれば…毒は確実に体内に入り込む。しかも、この毒は甘い。
 西ヨーロッパの山林によく見られる、可憐な紫紅色の花をつけるこのジギタリスが、ほんのわずかな量で人間を死に至らしめる劇毒を秘めた植物だとは、いかにも皮肉な話ではある。
「私は落ち着きのない人間は好かない。それに、正体を偽って近づく者も、な」
 ユージン・Kは、ゆっくりと自分のグラスに琥珀色のウィスキーを注いだ。
「それで狐の手袋(ジギタリスの別名)を使ったのか?彼は、その手袋に見合う獣の狡猾さと化けの皮をかぶっていたのかな」
 ルパートが笑みを浮かべてユージン・Kを、そして床に転がる死体を面白くもなさそうな目で眺めた。
「知っているかね?」
「何を?」
 ユージン・Kはゆったりと椅子に座り直すと、グラスを傾けた。
 カラン、と氷が軽い音をたてる。
「鬼哭島では、狐を害獣として駆除すると金が貰えるらしい…ビール二本分ほどの安金だが、ね」
「…つまり、この男はその程度だった、と」
 ルパートは、冷ややかに笑った。
「では、交渉を再開しようか」
 ルパートは頷き、グラスを傾けた。
 メインフロアに硝煙と血の匂い…そして、芳醇な酒の香りが漂っていた。

  
 炎が揺らめいている。
 空をオレンジ色に染め上げて、炎は踊るように家を飲み込み、揺らめいていた。
 鳴海は、熱気と火の粉を振り払いながら、家の中に飛び込んだ。
 廊下と壁の所々を、炎が生き物のように蠢き、這いまわっている。
 ゴウ、と炎が吠えた。
 その音に混ざって、鳴海は人の声を聞いたような気がした。
 二階だ。
 鳴海は、階段を一段飛ばしに駆け上がった。
 二階は、まだ燃えていなかった。しかし、階下の炎の勢いを考えるに、すぐにここも炎に包まれるに違いない。その証拠に、廊下にはじりじりと肌を焦がすほどに熱い熱気と、薄いベールのような白い煙が充満している。
 鳴海は、焦げ臭い煙にひりつく目を凝らした。
 一番手前のドアが開いている。
 鳴海は迷わずにその部屋に飛び込んだ。その部屋は、鳴海の両親が寝室に使っている部屋だった。
 そこに。
 両親の変わり果てた姿があった。
 壁を背に父が、その手前に母がこちらに背を向けて倒れている。
 父の喉元に、鋭い刃物で切り裂かれたらしい傷跡があった。そこから、まだとめどなく血が流れ出している。辺りには、煙とともに濃密な血臭が漂っていた。
 鳴海は、思わず口元を抑えて後ずさりした。
 嘘だろ?
 鳴海の思考が、停止してしまったように真っ白になった。
 不意に、目の隅に何かが動いた。
 そちらに目を向ける前に、何かが鳴海にぶつかってきた。
 とっさに身をかわすと、鳴海はそれに向き直った。
 そこに、少年が立っていた。
 年の頃は十四、五歳。血で汚れた顔は、目だけが異様に輝いていた。痩せたひょろりとした体格に、よれよれのTシャツと血で汚れたジーンズを身に付けている。そして、手には鋭い輝きを放つナイフ。
 ナイフの刃先は、鮮やかな血の赤で染まっていた。
 まだ痺れたような頭の中で、両親を刺したのはこのナイフだと鳴海はぼんやりと理解した。
 少年が、再びナイフを手に鳴海に向かって突進してきた。
 鳴海は、無意識のうちに身を翻した。部屋を飛び出し、さらに煙が濃く立ち込めた焦げ臭い廊下に出る。
 階段まで来た所で、炎に行く手を阻まれた。
 振り返ると、今まさに少年が鳴海の背にナイフを振り下ろすところだった。鳴海は、思わず少年の腕を掴んだ。少年が、獣のような叫びを上げる。
 しばらく、揉み合いになった。押し付けようとする少年のナイフの刃先を、鳴海が押し戻す。
 不意に、二人の体が宙に浮いた。
 次の瞬間、炎を押しつぶしながら階段を転げ落ちていた。
 鳴海は全身の痛みに気が遠くなりかけたが、やがて目の前に迫った炎に慌てて飛び起き、辺りを見回した。
 嘘だろ?
 鳴海は目にしたものに、思わず心の中で呟いた。
 少し離れた所に、少年が仰向けに倒れていた。その首から、ナイフの柄が生えている。うつろな少年の眼差しは、じっと天井に向けられていた。その目は、先刻目にした父の…死んだ人間のものだった。
 鳴海は、よろよろと立ち上がり、駆け出した。
 

 気がつくと、鳴海は銀の消防服姿の男に助け起こされていた。
 男に支えられながら背後を振り返ると、家はすでに完全に炎に包まれていた。消防車と、その周りを忙しく走り回る消防士、そしてホースの先から白いしぶきを上げて、水が炎に降り注いでいるのが見える。しかし、炎の勢いは収まりそうにない。
 やがて、鳴海は野次馬に囲まれた救急車の側に連れてこられた。
 そこに、見覚えのある顔を見つけた。
 長い黒髪、やわらかな頬のライン…炎に照らされてほんのりと染まった顔は、夜目にも美しく見えた。
「…瑞希」
 瑞希は、手にしたものをじっと見つめている。
 どこか悲しげな顔。手にしたものは、円筒形のガラス瓶。それを目にした瞬間、とくん、と鳴海の心臓が高鳴った。
 瑞希が見つめるガラス瓶、その中に入っているもの…。
「瑞希!」
 駆け出そうとした鳴海の腕を、消防士が掴んだ。
 思わず振り向くと、そこには消防士ではなく、ユージン・Kが立っていた。
 ユージン・Kが酷薄そうな笑みを浮かべ、鳴海を見つめている。
 どうしてここに?
 鳴海は視線を瑞希に戻した。
 瑞希はガラス瓶の蓋に手をかけていた。ねじ式の蓋をゆっくりと回していく。
「駄目だ!」
 鳴海は叫んだ。
「それを開けるな!瑞希…!」
 瑞希は鳴海を見た。
 瑞希が微かに首を振る。
「ごめんね、鳴海」
 囁くようなその声は、それまで一度も聞いたことのないような弱々しい響きをともなって、鳴海の耳に届いた。
「全部、私が悪いの…全部私のせいなのよ」
 つうっと一筋の涙が、瑞希の頬を滑り落ちた。まだ燃え盛る炎を受けて、それが宝石のようにきらめく。
 瑞希は、一気に蓋を外した。
 カラン。
 乾いた音とともに、蓋が地に落ちる。
 途端に、ガラス瓶から黒い禍々しいものが、どっと溢れ出した。


 びくん、と体をすくませ、鳴海は目を開けた。
 真っ白な光が目に飛び込み、鳴海は思わず顔をしかめた。
 徐々に目が慣れてくると、辺りの様子が見て取れた。
 白い壁、白い天井。
 夢か…。
 先刻までのことが脳裏に蘇る。過去に実際に起こったこと…両親が少年に殺され、鳴海自身も殺されかけたことと、その後の不気味に暗示的な、瑞希が手にしたガラス瓶…それらが夢で良かったと鳴海は心の底から思った。
 ここはどこだ?
 首を動かすと、左手に壁。右手にはキャビネット、パソコンとインターフォン、顕微鏡や試薬の入った試験管が並んだデスク、その横にシャーレの並んだインキュベーターと銀の巨大な冷蔵庫が見えた。
 一見すると、何かの実験室に思える。いずれにしろ、どこからか響く低いモーターの唸りと天井付近の壁を走る細いパイプから、相変わらず船内にいるのは間違いなさそうだった。
 体を起こそうとすると右肩に激痛が走り、鳴海は思わず呻いた。見ると、右肩に白い包帯が巻かれているのが見える。
 不意に、それまでのことを思い出した。
 廊下を逃げている時に、背後に迫ったパンドゥーラの気配に振り向いた瞬間、肩を切り裂かれたのだ。その後、神南が鳴海を担いで逃げた…。
 それから後のことは、気を失ったのか覚えていなかった。
 鳴海は腕を動かそうとして、それができないことに気がついた。足も動かない。どうやら、ベルトのようなもので寝台に固定されているらしい。下を見ると、包帯でぐるぐる巻きにされた胸と肩が見えた。その少し下に、鍵穴のある金具つきの布ベルトが見える。
 鳴海はため息をついた。
 とりあえずパンドゥーラに殺されずに済んだという安堵と、相変わらず不利な状況に置かれているという不安が複雑に混ざり合って心の中を渦巻いている。
 ふと、頭の方で物音がした。
 どうやら鳴海の頭の後ろ側にドアがあるらしい。かちゃりと留め金の外れる音がしたかと思うと、鳴海の脇を男が通り過ぎた。
 赤毛の禿げ上がった頭、酒でも飲んだかのような赤くどっしりした鼻に、細い灰色の目。年齢は三十代にも四十代にも見える。男は、ひょろりとした長身をモスグリーンの作業着で包んでいた。
 男は鳴海に目を向けると、何やら鳴海に向かって話した。
 早口の英語は、聞き取りにくく理解不能だった。
 鳴海が無言でいると、男は顔をしかめた。そのまま、鳴海の全身をじろじろと無遠慮に眺め回す。何故か、その標本でも眺めるような無感情な眼差しを見て、鳴海はこの男が医者に違いないと思った。
 男は、くるりと鳴海に背を向けると、デスクに近づいた。
 インターフォンを操作している。少しして、インターフォンから聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。
 ユージン・K!
 低く囁きかけるようなユージン・Kの言葉は、鳴海にはやはり何を言っているのか聞き取れない。しかし、男が鳴海について何かしらの報告をしたのはわかった。
 意識が戻ったら殺せ、とでも言うつもりかもしれない。その一方で、最初から殺す気ならわざわざ手当てするような手間をかけるはずがないとも思う。
 やがて、インターフォンを切ると、男は鳴海が冷蔵庫だと思っている銀の箱、その扉に手をかけた。
 ふわりと開いた扉から冷気が漏れる。どうやら本当に冷蔵庫らしい。男は扉を開けたまま、その中から何やら取り出した。
 銀のトレイ、注射器、アンプル…。
 鳴海の背に、ざわざわと悪寒が走った。胃の辺りが締めつけられるように痛む。
 男は、手馴れた様子でガラスのアンプルの首を指先で数回はじいた。ぱきん、と小気味良い音とともにそれを折ると、注射器で中の薬液を吸い上げる。
「…何をする気だ」
 鳴海は思わず訊いていた。通じなくても、口に出さずにいられない。
 男が、こちらに目を向けた。しかし、すぐに視線を鳴海の頭の後ろ…ドアに向ける。
 再び、ドアが開く音がした。誰かが入ってきたらしい。
 鳴海の視界を黒い影が通り過ぎ、すぐ横で止まった。
「沢村さん…」
 影と見えたのは、沢村の黒いジャケットのせいだった。
 沢村は、一瞬ちらりと鳴海に目を向けたが、すぐに興味なさそうな冷めた目を男に向けた。
 男が、沢村に何かを言っている。
 沢村が、男に何事かを言い返した。英語が苦手な鳴海でも、それが流暢なものだということはわかった。
 沢村が、鳴海に向き直った。その整った顔は、無表情で恐ろしいほどに冷ややかだった。
「この男はドクター・ブラウ。君は貴重なサンプルだから傷をつけたくはないが、ユージン・Kの命令で薬を打つように指示されているそうだ。ドクターは、一応君にも知る権利があるだろうと…俺が呼ばれたのは通訳としてだ」
 沢村は淡々と説明した。その何の感情も含まれていない声は、ロボットの方がまだしも温かみがあるような気がする。
 鳴海は沢村の顔を見つめ、言った。
「何の注射なんだ」
 鳴海の言葉に、沢村は眉一つ動かさずにブラウに向き直った。再び、英語で何かを言っている。ブラウがすぐに言葉を返した。それを受けて、沢村が頷く。
「注射の中身は自白剤の一種だ。命に危険はないそうだから、心配しなくていい」
 沢村の口調はあくまでも静かだ。
 心配しなくいい、だと?
 鳴海は唇を噛みしめた。
 再び、沢村が男に何事かを言う。すると、ブラウは一旦注射器を銀のトレイに戻した。沢村が、鳴海の脇からすうっと後ろに下がった。
 頭の方で、何やら物音がする。途端に、ブラウが顔を真っ赤にして怒鳴った。腕を振り回し、猛烈な早口で何かをまくしたてている。
 再び、沢村が鳴海の脇に立った。
 ブラウが突然怒り出した理由は、沢村が何かしたせいか?
 しかし、鳴海には何が何やらさっぱりわからない。
 ブラウが沢村につめ寄った。不意に、沢村が動いた。
 ブラウの腹にタックルする…と思った瞬間、沢村の肘がブラウの額の真ん中に打ち込まれていた。タックルすると見えたのは、どうやらフェイントだったらしい。
 素早い沢村の動きに、鳴海は目を見張った。
 沢村は、くず折れるようにして倒れかけたブラウの体を途中で支え、部屋の隅まで引きずっていった。そこにブラウを横たえると、ポケットをまさぐって何やら取り出した。
 沢村はすぐに鳴海の寝台の傍らに戻った。沢村は息ひとつ乱していない。何事もなかったかのように、手にした鍵でベルトの留め金を外していく。ほどなく体は自由になり、鳴海は沢村の手を借りて寝台の上に腰を下ろした。
「沢村さん…」
「無事で良かった」
 沢村は笑みを浮かべて見せた。あの船倉で、ナツが無事だと知った時に見せた笑み…心底嬉しそうな笑みと同じものだった。
 それを見た瞬間、鳴海は悟った。
 やはり、沢村は裏切ってなどいなかったのだ。
「他のみんなは…?」
「今のところは無事だ」
 鳴海の言葉に、沢村は辺りを見回しながら言った。そして、鳴海の顔を見、右肩に視線を落とした。
「傷は痛む?」
 言われて、鳴海は左手を右肩に当ててみた。ずきずきと疼くような痛みがある。が、動けないほどではない。
「少しだけ」
 その言葉に沢村は頷き、鳴海をそのままに冷蔵庫に向かった。扉を開け、何やら物色している。少しして、ペットボトルを手に戻ってきた。
 そして、ポケットから錠剤のシートを取り出し、鳴海に差し出した。
「鎮痛剤だ。一錠飲んでおいた方がいい」
 沢村から錠剤のシートとペットボトルに入った水を受け取り、鳴海はそれらを眺めた。
 錠剤は外国製らしい。英語の表記でデメロールと読める。水の方は、ラベルにミネラルウォーターと記されていた。商品名はクリアリーマウンテン。
 鳴海はシートから一錠取り出し、口に放り込んだ。水で流し込む。
 久しぶりに味わう水は、よく冷えていてとても美味かった。しかし、いくらも飲まないうちに沢村がやんわりと止めた。
「あまり飲むと、傷に触るよ」
 どのくらい出血したかわからないが、切り傷などを負った後に水を飲みすぎると、血液が薄められて傷の治りが悪くなると鳴海も聞いたことがある。沢村はそのことを言っているのだろう。鳴海は渋々、ペットボトルの蓋を閉めた。
「…全部、演技だったんだな」
「鳴海さんには、バレてたんじゃないかと思ってたよ」
 沢村は苦笑した。その表情は、先刻までの無表情が嘘のように暖かい。
「神南さんは気づいていたんだろ?沢村さんの暗号みたいなものを聞いて…そうじゃないかと思っていたんだ」
「同じことをユージン・Kに言われたよ。あの暗号は何だ、とね。神南さんの家に向かう逆ルート、プラス右に二つ…そこにあるのは工事現場で、大きな穴が掘られている。つまり、落とし穴。罠です、と」
 沢村は淡々と説明した。
 それにしても。
 あのユージン・Kを相手にどんな芝居を打ったのだろう?
 先刻の、一撃でブラウを昏倒させた鮮やかな手際といい、そこは神南がわざわざ助っ人に呼んだ調査員だけのことはあるということなのか。
 ふと、何気なく目を向けた沢村の首筋に、痣のような痕を見つけた。ユージン・Kがつけたという、おぞましい『味見』の痕だ。今も残るそれが、何より沢村が裏切っていない証拠のように思えた。
「動ける?」
 沢村は鳴海の視線には気付かず、身を屈めて寝台の下を覗き込んだ。そのせいで、シャツの襟元から沢村の首筋の痕がはっきり見えた。痣のように残る、紐のようなものが食い込んだらしい赤い痕と、その下にくっきりと残るキスマーク。
「あ、ああ…大丈夫」
 鳴海は言いながら、慌てて視線をそらした。
 見てはいけないものを見てしまった…そんな後ろめたさがある。
 沢村は、あのユージン・Kに『味見』されたという。それがどんな内容か詳しくはわからないが、果たして鳴海が同じ目に遭わされても、沢村のように平然としていられるかどうか。それを思うに、沢村は見た目よりも強靭な精神の持ち主なのかもしれない。
 沢村が、寝台の下から鳴海の靴を取り出した。そして、所々血がにじんでどす黒く変色したシャツとスーツの上着。
「寒くないなら、これは無理に着る必要はないけど」
 沢村は言いながら、鳴海にシャツと上着を差し出した。鳴海が受け取ると、沢村は靴を鳴海の足の下に揃えて置いた。
 シャツと上着の血は乾いている。鳴海はそれを肩に引っ掛け、沢村の手を借りながら寝台を降りた。靴を履き、改めて辺りを見回す。
 ブラウに目を向けると、ぐったりと倒れたままだった。胸が微かに上下しているのを見る限り、気絶しているだけのようだ。
「さっき、何をしてこの医者を怒らせたんだ?」
「ああ、それなら…」
 言って、沢村は首を軽く傾げて見せた。
 その仕草には見覚えがあった。廊下で神南を前に、やはり沢村は今のように首を傾げて見せていた。その途端、神南の口調が変わったのを思い出す。
 鳴海は沢村が首を傾げた先…天井付近の壁に目を向けた。
 そこに、監視カメラがあった。金具で固定されたボックスの中に、丸いレンズが覗いている。
 そうか。
 鳴海は瞬時に理解した。
 あの時、沢村は神南に監視カメラの存在を知らせていたのだ。そして、神南もそれに即座に気づいた…。
「映像と音声はさっき壊したよ。おかげでえらい剣幕で怒られたけどね」
 沢村はこともなげにさらりと言った。
 ブラウがいきなり激怒したのは、彼が見ている前で沢村がカメラを壊したせいらしい。それにしても、やはり沢村はただ者ではなさそうだ。
「これからここを出て少し歩くけど、大丈夫かい?」
「何とか…ところで、他のみんなは?」
「これから助ける」
 沢村の口調からは、微かな自信と強い意思が感じられた。
「これを」
 沢村はポケットから携帯電話を取り出し、鳴海に差し出した。見たところ、鳴海のものではない。それどころか、日本製ですらなさそうだ。
「今、説明するから」
 やがて、鳴海は沢村の説明に驚き…そして頷いた。


 あいつが来る。
 目覚めは唐突だった。
 まず、目に飛び込んできたのは、真っ白なベッドの上の豪華な天蓋だった。
 辺りに視線を走らせる。
 深いワイン色のカーペット、外国の屋敷を思わせる壁の装飾とその手前に籐の椅子、天井からは柔らかな照明。
 冴はゆっくりと体を起こした。
 不必要に広く思える部屋には、冴一人だけだった。
 そっとベッドを降りる。
 彼女の靴は、ベッドの反対側に置いてあった。それを見つけだし、急いで履く。
 部屋を横切り、続きの部屋に入ると、そこには大理石のテーブルと布張りのソファーが置かれていた。しかし、やはり誰もいない。
 その部屋の一方の壁にドアを見つけ、冴は走った。ドアノブに飛びつき、力任せに動かす。
 ノブは動いたが、ドアは開かない。
 何度も押したり引いたりを繰り返した。
 こんなはずじゃなかったのに。
 後悔が胸に、苦いものが口の中に広がる。
 船に乗ってしまえば、あいつは追ってこれないと思っていた。だから、彼らについてきたのだ。少々危険でも、あいつに捕まるよりは遥かにマシだと思ったから。
 それなのに。
 あいつはすぐ間近に迫っている。
 それが、気配でわかる。ふわふわと首筋を撫でる羽毛のように密やかなその気配が、冴を捕らえて決して離そうとしない。
 嫌だ!
 冴は力任せに、ドアを叩いた。激しく殴りつける。
 やがて、皮膚が裂け、握り締めた拳に血がにじんだ。
 それでも冴はドアを殴り続けた。
 目の前のドアが、彼女の最大の憎悪の対象であるかのように。
 不意に、金属の響きとともにノブが振動した。
 ゆっくりとドアが開く。
 細く開いたドアの隙間から、金髪の大柄な男が神経質そうな細い目で冴を見ている。
 男が、冴に英語で何かを言った。
 大人しくしていろ。
 そういう意味のことらしい。
 冴は男がドアを閉じようとする前に、男の顔に視線を据えて意識を集中した。
 さあ、あなたの怖いものは何?
 心の中に、おぞましいイメージが幾つも浮かんでは消えていく。その中から、冴は最も恐ろしいものを選び出した。
 次の瞬間。
 男は意味不明の叫びを上げ、ドアから飛びのいた。そのまま、後ろも振り返らずに廊下を走っていく。
 犬の遠吠えに似た男の細い叫びが、廊下に響いていた。
 冴はゆっくりとドアを押し開き、廊下に出た。遠ざかる男の背を見送り、反対方向に走りだす。
 あいつが来る…!
 走っている間、冴の頭の中にはその言葉だけが、警告灯のように明滅していた。

 

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