パンドゥーラ
作者:柚ノ月香
[16] 死線で踊れ 1
カラン、と軽い音を立てて、グラスの中の氷が溶けた。
いつしか、グラスの中の琥珀色の液体がその色合いを薄めている。
静かにグラスを手に取ると、ルパートは再び巨大モニターに目を向けた。
画面には、プールの全景が俯瞰で映し出されている。
明るい水色にきらめくプールの水。そして、白いプールサイド。
デッキチェアの傍らに二人の男と、彼らから少し離れたテーブルの影に女と少年。
ちらりと見たその少年の姿は、ルパートが助けたあの少年のようだった。
しかし、少年が置かれている今の危機的状況には、ルパートは少しの同情も何の感情の動きも感じなかった。
そもそも、ルパートが少年を助けたのは気まぐれ…それも単に『あの男』に対する嫌がらせのつもりだったのだから。
どのみち、ネズミは猫の掌中で弄ばれるだけの、哀れでちっぽけな存在にすぎない。
心の中で呟くと、ルパートは辺りを見回した。
メインフロア。
広いフロアにいるのは、ルパート一人だった。
照明の復活とともに、ぞろぞろと現れたユージン・Kの部下が、マクスウェルと名乗っていた男とその護衛の死体を運び去った。
ミストラルはといえば、こちらはルパートと一度も視線を交わすことなく、逃げるようにメインフロアから出て行ってしまった。
嫌われたものだな。
ため息とともに呟いた時、静まり返ったフロアに鋭い銃声が響いた。
スピーカーで増幅されたその音が、まるで二十ミリ機関砲のように耳をつんざく。
一瞬、不快感に眉をひそめたものの、ルパートは無表情にモニターに視線を戻した。
画面がぶれて落ち着きなく左右に揺れた後、ゆっくりとそれをクローズアップしていった。
倒れていく男の姿が、画面に大写しにされる。
ルパートは唇を歪めた。
余興か。
画面の中央に、スーツ姿の巨体が横たわっている。
冷めた目でそれを眺めつつ、ルパートはグラスを傾けた。
この程度で死ぬ男ではない。
宵闇のごとき黒髪に浅黒い肌。精悍な顔立ちに、今は閉じられている鋭い灰色の眼。
見事なまでに鍛え上げられた全身から威圧感に似た強烈なオーラを放ち、触れれば切れるような刃に似た気配をまとう。猫科の大型肉食獣を思わせる、その身のこなし。
生まれの違い、生活環境の違い、人種の違い…それら様々な他との相違点を一気に飛び越えてなお、超然とそこにある圧倒的な存在感を持つ男。
そして、かつては戦士だった。
元アメリカ陸軍・第六歩兵師団所属、階級・少佐。
ペンドレルの戦火の中、自動小銃を片手に各地を風のように駆けていたと聞く。それでいて、男が負傷したのはたったの一度。しかも、その胸に受けた銃弾すら、自らの手で抉り出して銃弾の火薬で焼いて消毒し、その傷を自分で縫合するような男だ。 退廃と虚無。強靭な意志と冷徹な理知。
そして、運命の盤上で死神と踊る男。
それが、ルパートが知るユージン・Kだ。 ルパートは倒れたままのユージン・Kの姿を眺めながら、この映像をモニターに固定している少年のことを思った。
ミストラルは今、息を呑んでこの映像を見ているに違いない。先刻の落ち着きのない画面の揺れが、その動揺をそのまま表しているように思えた。
ミストラルの姿を脳裏に思い浮かべる。
ルパートと同じ鮮やかな金髪、そして明るい水色の眼。誰が見ても、自分とミストラルの間に似通ったその身体的特徴を見いだすだろうとルパートは思う。
しかし、ミストラルの口調と態度は、そのままユージン・Kの姿を投影していた。ミストラルはユージン・Kに心酔している。魂を捧げていると言ってもいい。ユージン・Kに向ける眼差しと、その口調…それが意味するのは、絶対的な服従と忠誠だ。
その事実が、ルパートの胸に微かな痛みをもたらしていた。
おそらく、ミストラルは二度とこの手には戻るまい。
そして、画面の中で微動だにしない男は、我が祖国をもこの手から奪うつもりなのだろう。
ルパートは、遠く離れたペンドレルを思った。
ペンドレルは、大航海時代にスペイン人によって発見された。
元は自治権をもつアメリカ領で、南米アルゼンチン沖・百四十キロに位置し、人口三百六十万人ほどの小さな国だ。
国土の北部に砂漠と荒野、南部に森林と平野という、一つの国の中に二つの異なる側面が当り前のように存在し、その北部の痩せて乾いた大地と南部の豊かな緑の大地の落差が、そのまま北部と南部の貧富の差を生み出していた。
南部ではたわわに実った果実が取れる頃に、北部では満足に食べるものを得られずに大量の餓死者が出る。しかし、主導権を握る南部自治政府は、北部と南部の貧富の差には目を向けようとはしなかった。 北部の人々は虐げられ、長く貧困と飢餓に苦しめられた。
そうしてまるで当然の流れのように、ペンドレルに革命の嵐が巻き起こった。
今から十六年前。
国家独立を掲げた北部出身のドレイク・アビゲイル率いる革命推進派と、それに反発する南部出身のルイ・ミストラル率いる反革命派が小規模な紛争と小競り合いを繰り返し、その半年後に第一次独立解放戦争が勃発した。
その後、ペンドレルの情勢は混乱と沈静を繰り返した。
北部と南部の戦争は、勢いに乗ったドレイク・アビゲイル率いる革命解放軍の優勢だった。そのままいけば全土を制圧、国家独立も目の前に思われた。
だが。
ペンドレル独立を何としても阻みたい南部自治政府は、アメリカ政府にミストラル派の戦略的後方支援と援護を要請した。
これを受けて、アメリカ政府は第六歩兵師団をペンドレルに派遣した。歩兵師団とは世間向けの名。実質は、特殊訓練を積んだ選りすぐりの精鋭部隊が第六歩兵師団の真の姿だった。
ミストラル派とアビゲイル派、両者ともに戦況は一進一退を繰り返した。
そんな中、革命解放軍指導者ドレイク・アビゲイルと民衆に女神と呼ばれたその娘・エバンジェリンが、何者かによって暗殺された。それを境に、革命解放軍は急速に勢いを失っていった。
この機会に、第六歩兵師団が全土制圧作戦を展開、その後押しと根回しで、ミストラル派が強引に各地の戦火をねじ伏せる形で開戦からわずか一年後、南部自治政府は第一次独立解放戦争終結を宣言した。
以後、まともな教育・医療機関すらなかったペンドレルに、アメリカ政府は積極的に支援を行った。その見返りに、アメリカの企業が中心となってペンドレル南部の油田開発に着手、急速にペンドレルは発展していく。
しかし、それでもペンドレルは平和にはならなかった。
小規模な紛争は、常に各地で起こっていた。いつしか、それらの小さな火種が風にあおられるように炎となり、瞬く間にその戦火でペンドレル全土を覆い尽くした。
第二次独立解放戦争勃発。
そして、その戦争が少しずつミストラル派の戦力を殺いでいくことになる。
その年、ルパートの父、ルイ・ミストラル率いるミストラル派は苦戦を強いられていた。折からの激しい戦闘で、武器も弾薬も尽きかけていた。このままでは、首都レゼーレ攻略において重要拠点である街・セルフィネスの部隊が壊滅する。
そんな時、一人の男が現れたのだった。
男の名はクライン。
アメリカに本社を置く、絶大な力を誇るコングロマリット。莫大な資産と磐石のごとく安定した地位を保ち続ける、世界屈指の巨大企業だ。
男は、ルイに武器と弾薬の供給を持ちかけた。
安価で上質な武器と弾薬を、すぐにでも用意できると男は言いきった。しかも大量に。
夢のような話だった。
ペンドレルでは、武器が明日の生活すら左右する。しかも上質とあっては、それまでの古い年代ものの武器と、わずかにアメリカ軍が落とす武器を繰り返し使っていたペンドレルの者にとって、喉から手が出るほど手に入れたいものだった。加えて、各地は戦火が絶えない。消す側から火種は広がりを見せ、いつ終わるとも知れない戦闘が日夜繰り返されている。
老いもあったのだろうとルパートは思う。
美味い話には裏があると、ルイも気づいていたはずだった。しかし、長く続く戦乱はかつての勇猛な戦士の意思を疲弊させ、その判断力を減退させていた。
何より時間がなかった。
ルイは、悩んだ末に男の申し出を受け入れた。
そうして、男がもたらす武器と弾薬の強固な供給源をミストラル派が得たことで、セルフィネス陥落は回避することができた。
各地の戦火も徐々にその勢いを失い、やがてミストラル派が全土を制圧、第二次独立解放戦争がここに終結した。
そして…ミストラル派が中心の南部自治政府が再びペンドレルを治めてから、十四年目のその年。
ルイ・ミストラルは突如南部自治政府の手を振り払い、アメリカ政府がこれを後押しする形でペンドレル独立を宣言することになる。
ペンドレル初代大統領は、元反革命派指導者ルイ・ミストラル。
ペンドレルは長い戦乱と暫定自治を経て、二年前に新国家として生まれ変わった…はずだった。
実際には、ルパートが知る十六年前と少しも変っていない。いや、むしろすべてがゆるやかに過去に向かって逆行し始めている。
つかず離れずペンドレルを裏で支えていたアメリカ政府は、独立した途端にペンドレルへの援助と支援を打ち切った。
さらに、ミストラル派に武器と弾薬の供給を続けていた男も、まるでそれを見計らうかのように武器と弾薬の供給を止めた。
再び、紛争と小競り合いがペンドレル各地で頻繁に起きるようになった。
ミストラル派はその力を徐々に失い…今や風前の灯火だ。その一方で、北部アビゲイル派はその勢いをかつての全盛期までに盛り返している。彼らに、何者かが密かに武器と弾薬を供給しているのは明らかだった。
すべてが仕組まれた罠に思えた。
それもたった一人の男が、長い時をかけて仕組んだ巧妙かつ残酷な罠だ。
ユージン・クライン。
その男になら、それだけの力がある。アメリカすらその手中に収めると言われる、クラインの頂点に立つことが確定している…その男になら。
そして、今。
ルパートは、皮肉にも独立解放軍指導者の娘・エバンジェリンとその名が同じ船に、ミストラル派の代表として乗っている。
ユージン・Kから、再び商談が持ちかけられたのは一カ月前。
老境に至って、ますますその意思と判断に自信の持てなくなったルイ・ミストラルは、息子のルパートに自らの代役を頼んだ。
今回、ユージン・Kが取引の商品として出したもの…それが生物兵器・パンドゥーラだった。
その値、十億。
貧しいペンドレルにあっては、国内資産のすべてと言っていいほどの額だ。しかし、ルパートはユージン・Kの提示額そのままに、それを承諾した。
何より、後がなかった。
この兵器を手に入れなければ、ミストラルという名前そのものがペンドレルから消える。それだけは避けなければならない。
ミストラルの名は、大統領のそれであり続けなければならなかった。例え、それが愚かな意地と見栄が見せる幻想と言われようと、譲れない最後の一線だった。
『ショーの続きはこれからだ』
そうルパートに愉しげに告げた男は、依然倒れたままぴくりとも動かない。
ふと、脳裏に白衣の影がよぎった。
人語を話し、ぼろぼろの白衣を引っ掛けた、おぞましい以外の何者でもないその黒い姿。敵地に入り込み、中から獲物を捕食…人間だけを一掃するクリーンな兵器。
しかし、ペンドレルに解き放った後、あれをどうやって止める?
冷却剤。
馬鹿な、とルパートは自嘲めいた笑みを浮かべる。
巨大化してしまったあの化物には、冷却剤など少しも効かなかったではないか。
現に隔壁を破って逃亡したというユージン・Kの言葉通り、冷却剤を使っても行動抑制ができなかったからこそ、メインフロアのショーは中断され、それが原因と思われる何らかの突発的事故により辺りは闇に包まれた。
ならば、ブラウが開発したという、パンドゥーラ専用の爆弾なら、止めることができるのか?
否。
この船内にあの化物が入り込んでから、組織を破壊する専用爆弾を開発したとユージン・Kは言った。専門家ではないルパートに断言はできないが、いくら何でもそんな短期間に開発などできまい。
だとすれば、化物を止める手立ては今のところ何ひとつないということだ。
ルパートは、そこまで考えて目を細めた。
あの白衣を着た黒い化物は、死を撒き散らすいわば死神だ。
ひとたびペンドレルに解き放てば、全土の人間を一人残らず滅ぼすまで、死神はその跳梁を止めはしないだろう。
そして、ユージン・Kもそれをよく知っている。
よかろう。何を見せるつもりなのか、ゆっくりと拝見しようじゃないか。
そう心の中で呟いたルパートの脳裏に、ペンドレルに残してきた仲間の姿が浮かんでは消えていく。
今この瞬間にも、ペンドレルではミストラル派が圧倒的不利な状況下での戦いを強いられているはずだった。しかし、ルパートはあえてそれを無視した。無視しなければ、それを案ずるあまり己の理性が危うくなる。
いずれにせよ時間がかかる船での旅を提案した時点で、ユージン・Kがペンドレルに急いで戻る気がないのは明らかだった。
さらに…。
取引に乗った時点で、ルパートの選択肢は限られていたのだ。
兵器、ミストラル派、ペンドレル、そして…。
ルパートはぎりっと奥歯を噛みしめた。
弟はお前にくれてやる。だが、ペンドレルは渡さない。
そう低く呟き、すっかり氷が溶けて薄くなったマカランを飲み干した。
それでもなお、画面の中の横たわった男は身じろぎひとつしなかった。
辺りを包むのは、相変わらず黄昏に似た柔らかな光だ。
不意に、久弥が立ち上がった。
その瞬間、久弥の顔に明らかな動揺が走ったのを沢村は見逃さなかった。
じっと久弥の唇の動きを目で追う。
『ユージン…ユージン!』
動きが速い。かなり切迫した口調だ。
緊急事態発生。
緊張した久弥の顔を見つめながら、沢村はそう思った。
久弥の様子から察するに、ユージン・Kの身に何かあったに違いない。それも、かなり際どい場面で。
思いついたのは、神南がユージン・Kに発砲したかもしれないということだった。それ以外には、パンドゥーラが現れるか何かして、ユージン・Kが今いる場所…おそらく神南達もいるだろうその場所が、一気に混乱したとしか考えられない。
しかし、その答えはじき出るだろうと沢村は思っていた。
ユージン・Kに何かあれば、彼と沢村との間に成立した交渉は白紙に戻る。そうなれば、残る沢村の利用価値はひとつしかない。
自白剤一本で洗いざらい喋らされた挙句、殺される。そして、神南達も脱出不可能…最悪の場合、彼らも沢村同様殺されてしまう。
そんなことを考えていると、久弥が耳元に当てていた手をゆっくりと下ろした。
その横顔からは、一切の表情が抜け落ちている。沢村は、その無表情な冷たい顔こそが、久弥の本来の顔のような気がした。
久弥は、ゆっくりと沢村を振り返った。
その目には、先刻までの穏やかさは欠片もない。氷のように冷たい光が揺れている。元々人形のような顔立ちだけに、その能面のような無表情さには刃のような凄みがあった。
じっと沢村に目を向けていた久弥は、やがてベッドサイドテーブルに手を伸ばした。
そこに銀に輝くアルミケースが置かれている。その中から久弥が取り出したものを見て、沢村は自分の先刻の予想が当たっていたと思った。
久弥の手には、柔らかな照明の光に白いきらめきをはね返す細身の注射器が握られていた。
やはり、ユージン・Kの身に何かあったのだ。
そして久弥は、あらかじめユージン・Kの身に何かあった場合は、沢村に薬剤を注射するよう指示されていたのだろう。
沢村が見ている前で、久弥は注射器のカバーを外した。そのまま軽く薬液をほとばしらせると、ベッドにゆっくりと近づいた。点滴の薬液パックがかけられたスタンドの横に立つと、注射器を右手に持ったまま、久弥は無表情に沢村を見つめた。
『悪く思わないで下さい』
久弥はゆっくりと口を動かした。
少しだけ、遠くの方から久弥の声が聞こえてきた。だいぶ耳が聞こえるようになってきている。しかし、それもすぐに無意味になるだろうか?
「自白剤?」
久弥は答えない。
だが、聞くまでもなく注射器の中身は自白剤だろう。とすれば、沢村がそれを使われた時点で…すべてが終わる。
どんなに抵抗しようと薬の力に抗えないのは、ユージン・Kに使われた妖しげな薬を体験した時に沢村は思い知っている。
意志の強さや精神的な砦を突き崩す目的のために開発された自白剤に、自分が戦いを挑んで勝てる見込みは…ゼロだ。
そして、実際には自白剤という薬はこの世に存在しない。
大抵の場合は、麻酔や麻酔前に使用する麻酔導入剤等の薬剤を使用するとされる。一時的に薬の効果で意識を朦朧とした状態にするもの、あるいは一時的に精神錯乱状態にするもの等、その使用効果は様々だ。
他にも、同じく自白剤として使われるものに麻薬がある。アップ系のドラッグでハイになった状態、またはダウン系のドラッグで朦朧とした状態…いずれも特殊な精神状態に陥らせ、普段は強固に守られている精神の壁を突き崩す。
そして…久弥が沢村に使おうとしている自白剤がいずれのカテゴリーに属するものにせよ、はっきりしていることがひとつだけある。
薬の効果には、感情がない上に容赦もない。当然のことながら、かけひきも取引も通用しない。ひとたび使用されれば無慈悲に効果を発揮し、使用された者はその支配下に落ちるだけだ。
そして、それは沢村にとって最後の砦を攻め落とされるに等しい。
自分がアクセスキーを喋れば、その時点ですべてが水泡に帰す。
沢村は唇を噛んだ。
このままでは終わらせない。ならば、方法はひとつだ。
久弥は、おもむろに点滴のチューブを手に取った。手にした注射器の針をチューブに差し込む。
「待て」
沢村の声に、久弥が沢村に顔を向けた。その手の動きも止まる。
ゆるゆると右手を持ち上げ、沢村は自分の口元を指差した。
その瞬間、久弥が目を見開いた。
低い残響音が響いていた。そして、濃く漂う硝煙の匂い。
身体のどこにも痛みを感じてはいない。
鳴海はそう思いながら、恐る恐る目を開けた。
そちらに目を向けた時、ちょうどモスグリーンの作業着に包まれた男の身体がくず折れるところだった。
重い音とともに、男はその場に倒れ伏した。
その向こうに、横たわったままのユージン・Kが見えた。その右腕だけがまっすぐ伸ばされている。手にした銃…その銃口から、淡い硝煙が立ち上っていた。
死んでなかったのか!?
その鳴海の問いに答えるように、ユージン・Kはゆっくりと上体を起こした。
すぐさま、背後からブラウがユージン・Kに駆け寄ってくる。
ブラウが顔を真っ赤にして、ユージン・Kに早口で何事かをまくし立てた。それに対して、ユージン・Kは低く囁くような英語で答えながら、何事もなかったかのように悠然と立ち上がった。
ふと、視線を神南に落とし、続いて鳴海に向けると、ユージン・Kは揶揄するように片眉をつり上げた。
「無事で何より…とは言えないようだな」
その口調も、身にまとう威圧感に満ちたオーラも、余裕と自信を感じさせる物腰も何ひとつ変わらない。ひとつだけ変わったとすれば、スーツの左胸にぽつんと黒い銃弾の穴が開いていることぐらいだ。
鳴海はすぐに気がついた。
撃たれる危険をあらかじめ考慮して、ユージン・Kは防弾チョッキを身につけていたのだろう。
「うう…くそ」
胸の下から聞こえてきたざらついた低い声に、鳴海は慌てて神南から身体を離した。そして、肩に腕を回して神南の上体を静かに起こす。
「大丈夫?」
瑞希が駆け寄ってきた。
鳴海を見、神南に視線を落とすと瑞希は息を呑んだ。
ナツは、青冷めた顔で神南を見つめながら、鳴海の傍らに膝をついた。
「神南さん…」
そして、ナツは思い出したようにポケットを探ると、白いハンカチを取り出した。
鳴海も、神南の左の太腿に目を落とした。ズボンを染める血の赤が、じわじわと広がっていく。
ナツが白いハンカチを傷口に当てようとすると、横から手が伸びてきてそれを止めた。
「傷口に触れるな。下手に触れれば、雑菌が入るだけだ」
気がつくと、ユージン・Kが鳴海の反対側に身を屈めて、神南の足に視線を落としていた。
そして、おもむろに背後を振り返ると、そこに立つブラウに英語で何事かを言った。ブラウはすぐに頷き、携帯電話を取り出した。
ブラウは顔を真っ赤にしながら、早口の英語で何事かをまくし立てている。
「今、医療スタッフをこちらに向かわせている」
落ち着いた声で言いながら、ユージン・Kはポケットからナイフを取り出した。
「な、何を…」
言いかけた鳴海をじろりと一瞥すると、ユージン・Kは神南のズボンの生地をナイフで器用に裂き始めた。
ほどなく、血に濡れた傷口が生地の間から現れた。太腿の内側よりに、抉られたようなどす黒い傷が斜めに走っている。そこから、とめどなく血が流れ出していた。
ユージン・Kはナイフをしまうと、太腿の内側を握るように強く押した。その途端、神南が顔を歪めた。
「痛ぇ」
言いながら、歯を食いしばる。その額には、汗が吹き出していた。
しかし、鳴海は無言でその様子を見つめていた。
信じられないことだが、ユージン・Kが神南の傷の手当てをしているらしいと気がついたからだ。
傷口の脇と太腿の内側を両手で押さえながら、ユージン・Kが鳴海に目を向けた。
「鳴海、ここを押さえろ」
言われるまま、鳴海は神南の太腿を両手で押さえた。神南のズボンは血を吸ってぐっしょりと濡れている。濃密な鉄を含んだ血の匂いが鼻孔に届いた。
ユージン・Kはポケットから大きめのハンカチを取り出し、神南の太腿に巻きつけた。鳴海が押さえている下、傷口の少し上できつく縛る。止血らしい、と鳴海は気がついた。
「ぐう」
縛る瞬間、神南が踏まれたカエルのような声で低く呻いた。
ほどなく、プールの入口付近が騒がしくなったかと思うと、モスグリーンの作業着を着た三人の男達が、ガラス戸があった場所にぽっかりと開いた空間の向こうからぞろぞろと現れた。
折りたたみ式の担架を二人が運び、残る一人は手に大きな革のバックを持っている。
どうやら、この船の医師はブラウ一人ではないらしい。しかも、ユージン・Kがブラウに傷の手当てをさせなかったところを見ると、ドクターはドクターでも扱う分野が違うのだろう。
男達は二人がかりで神南を担架に乗せ、てきぱきと神南に応急処置を施し始めた。
鳴海が呆然としていると、ユージン・Kが男達に何事かを指示しているのが聞こえてきた。
応急処置が終わったらしい。担架が持ち上げられ、神南を乗せたまま男達が動きだした。
「どこに運ぶつもり?」
瑞希が訊いた。ユージン・Kは、ブラウが差し出したハンカチで手についた血を拭いながら瑞希を振り返った。
「医務室だ。傷口を縫わなくてはならないだろうな」
「え?」
鳴海は思わず声を上げ、神南に目を向けた。
眺めるうちに、担架に乗せられた神南とともに、男達とブラウの姿は廊下の向こうに見えなくなった。
「神南さん…」
ナツは心配そうに表情を曇らせた。
「神南の命に別状はない。むしろ、あの程度で済んだだけマシだと思いたまえ。少なくとも、君達の中に死人は出なかった」
その言葉に鳴海が目を向けると、ユージン・Kは倒れたままの男を見ていた。
男は額の辺りがぐしゃぐしゃに潰れ、顔全体がどす黒い血で染まっている。後ろから頭を撃ち抜かれ、弾丸は額から飛び出したらしい。銃弾が入った傷よりも、出た傷の方がひどく損傷を受けると聞いたことはあったものの、その男の傷のあまりのひどさに、鳴海は思わず顔をそむけた。猛烈な吐き気が喉元にこみ上がってくるのを、どうにか抑える。
ふと、ユージン・Kに目を向けた。
ユージン・Kは無表情だが、その目には微かな悲哀が揺れているように思えた。
鳴海は複雑な思いにとらわれた。
あの時、ユージン・Kが撃っていなかったら、鳴海は今頃撃たれていたかもしれないのだ。ユージン・Kは自分の部下を撃つことで、結果として鳴海を助けたことになる。
「ひとつだけ言っておく」
そんな鳴海の心を見透かしたように、ユージン・Kは鋭い眼を鳴海に向けた。
「私は君を助けたのではない。部下の不始末を片付けただけだ」
鋼のような声で低く言い捨てると、ユージン・Kは背を向けた。
「ちょっと待ってください!」
突然、横からナツが大声を上げたので鳴海は驚いた。
見ると、ナツはまっすぐユージン・Kを見つめている。それまで見たこともないような真剣な面持ちだ。
ユージン・Kが、足を止めて振り返る。
「沢村さんは無事なんですか?」
その言葉に、鳴海は即座に思い出した。
銃声がしたら、沢村は殺されてしまう。
「そうだ、沢村さんはどうなったんだ」
鳴海の言葉に、ユージン・Kは少しも慌てる風もなく、襟元を軽く持ち上げた。
「久弥、聞こえるかね?」
応答がない。
しかし、ユージン・Kは顔色ひとつ変えない。その様子は冷静そのものだ。
まさか。
嫌な予感がした。
その予感に呼応するように、マイクからかすれたノイズが漏れた。
一瞬、何を見せたいのかわからずに、久弥は眉をひそめた。
沢村は、自分の口元を指差していた。
その表情は冷静そのものだ。が、その指が示す口元に目を向けた瞬間、久弥は動けなくなった。
沢村は舌を出していた。傍目から見ると、舌を突き出して久弥を馬鹿にしているように見えなくもない。しかし、その舌に沢村は歯を食い込ませていた。
薬を打つなら、舌を噛んで死ぬ。
久弥はすぐさま、その意図を読み取った。
ユージン・Kは、自分に何かあっても予定通りに進めるよう言い残して出て行った。そして、何かあった場合は沢村に自白剤を注射し、CD‐Rを展開させるために必要なアクセスキーを強引に聞き出す手筈になっていた。
しかし。
久弥は、じっと沢村を見つめた。
沢村の表情は、目覚めた時に久弥が見たものと変わらず冷めたままだ。
ふと、久弥が身じろぎをした瞬間、沢村が微かに眉をひそめた。
つう、と沢村の口元から血が一筋流れた。
歯がきつく舌に食い込んでいる。血はそこから細い筋になって顎に滴った。
しかし、痛みに眉をひそめたのも束の間、すぐに沢村の表情は元通り冷めたものに戻っている。上目遣いにこちらに向けた沢村の眼差しには、強い意志を感じさせる光が揺れていた。
それまで見たこともない、燃えるように挑戦的な眼だ。
その眼と、歯を舌に食い込ませて噛み流した血を見れば、沢村が単に脅しでやっているのではないと即座に理解できた。久弥が、ほんの少しでも注射器で薬液をチューブに流し込めば、沢村は躊躇することなく舌を噛み切るだろう。
現に、わずかに身じろぎしただけで、沢村は舌を噛み破った。
アクセスキーを喋ってしまえば、ユージン・Kが二億で買った沢村はともかく、他の日本人は確実に殺される。そして、それを知っている沢村は、アクセスキーを喋らされて仲間をみすみす殺されるぐらいなら、自分も死ぬと宣言している。
それが意味するところは『絶対にアクセスキーは渡さない』ということだ。
そして、静かに納得する。
この沢村こそが、あのユージン・Kに二億の価値があると言わしめた男なのだと。
一方で、ユージン・Kが沢村にすぐさま自白剤を使わなかった理由がわかった。
発熱した状態の沢村に自白剤を投与した場合、意識消失のまま死亡する危険があるから使わずにいたのだと久弥は思っていた。
だが、今はそれが違うということがよくわかる。
この男が、こういう男だと知っていたからだ。
屈しない。譲らない。そして、それを支える強靭な意志。この男もまた、自分が何を『知り』何が『できる』のかを知り、意志の力で自身のすべてをコントロールしている。
そして、その顔を見つめるうちに、久弥の脳裏に三つの単語が蘇った。
『プラウミルヒ、ルクセンブルク、クラウディア』
沢村は久弥の姓を、その三つの単語からなる造語だと推測した。
プラウルクラウドは、ドイツ国内でもその名をほとんど知られることのない、いわば隠された貴族だった。
その名を、沢村が知らなくても無理はなかった。
沢村の話で久弥が感心したのは、久弥との初対面でプラウルクラウド姓を沢村とまったく同じ理論で分解してみせたのが、ユージン・Kだったからだ。
「ワインと王家と街道の名だな」
朝黒い肌の青年はそう言って、無遠慮に久弥の全身を眺め回した。
日頃、その容姿から少女に間違われることが多かった久弥は、その視線に微かに不快感を感じたものの、次に青年が呟いた一言でその不快感を忘れていた。
「つまらんパーティーだと思うだろう?」
言って、青年はにやりと笑った。
てっきり外見についてあれこれ言われると覚悟していた久弥は、その青年の笑みにつられて笑みを返していた。
場所はデュッセルドルフ。ドイツ国内で催された、クライン主催のパーティーの席だった。
広い会場の立食スタイルのテーブルの間には、老若男女入り乱れてワイン、あるいはシャンパン片手に談笑に花を咲かせている。
不意に、青年は背後を振り返った。
着飾った婦人と、紳士が笑み交わすその先に、一人の男が白髪の紳士と談笑しているのが見えた。
茶色の髪、青年によく似た精悍な顔立ちに海を思わせる深みのある青い眼の男だ。年の頃は四十代前半。仕草や表情は貴族的で、年相応の魅力に溢れている。そして、身にまとう優雅でいて威圧的な雰囲気。自分よりもかなり年上の男と話していながら、明らかに優位にたつのはその男のようだった。
ユーグリット・クライン。
全世界に支社を置く、巨大企業クラインの現社長その人だ。
そして、ベルリンの壁崩壊時、新政府による資産・土地の没収からプラウルクラウド家を守った人物でもある。その結果、プラウルクラウドの名は闇に葬られ、今ではドイツ国民すらその名を知る者はいない。
プラウルクラウドは、歴史の裏舞台で活躍した貴族だ。
支配者が敵、あるいは懐柔したい相手に『渡り』をつけるために動かしたのがこの一族だった。久弥もまた、その一族の名のもとに動くことになった。今日はその顔見せだった。久弥の十五歳年の離れた兄・フレデリクスが、久弥の起用を強くユーグリット・クラインに後押ししたと言う。兄は好きにはなれないが、久弥は自分の意思でここに来たのだった。
現クライン総帥、ユーグリット・クラインの『渡り』として働くために。
そして。
青年に目を向けると、炎が揺らめくような強烈な殺気を放っていた。その鋭い眼差しで、相手を殺しそうなぐらいに。
視線の先には、ユーグリット・クラインがいた。
ふうん。
久弥は青年に興味を覚えた。そして、名を訊いた。
青年は久弥に視線を戻した。途端に、身を包んでいた殺気が跡形もなく消え失せる。
「ユージン・クライン。だが、呼ぶなら『K』と呼んでくれ」
「『K』?」
「ユージン・Kだ。俺はクラインを名乗るのが嫌いでね」
青年は、ついと視線をそらして久弥に背を向けた。
その背中を見送りながら、久弥は笑みを浮かべた。
ここに足を運んだ甲斐があった。
その時、初めてそう思った。
いずれユーグリットの跡を継いたユージン・クライン…いや、ユージン・Kの『渡り』として働くことになるならば、悪くない、と。
その後、久弥はペンドレル北部はアビゲイル派に渡りをつける任務をユーグリットに命じられた。
渡りと言っても、潜入して北部に関する情報を集める程度のものだ。どんな相手の心の中にでもするりと入り込み、相手を安心させて信頼を勝ち取って情報を得る…そんな能力に恵まれた久弥にとって、それはさして難しい任務ではない。
折しも、クラインが中心となって油田開発事業計画が着々と南部自治政府との間で秘密裏に進められていた頃だ。ユーグリットとしては、より多くの情報…特に北部アビゲイル派に関する情報を集めることで、その後の事業計画をスムーズに行いたいという思惑があったようだ。
そうして、『渡り』として北部アビゲイル派に接触…エバンジェリンの語学家庭教師の地位を手に入れた後、久弥はペンドレルの首都レゼーレで、兵士としてアメリカから派遣されたユージン・Kと再会を果たした。
時を同じくして、ペンドレルでは第一次独立解放戦争が勃発。その戦火のさなか、エバンジェリンが命を落とした後、久弥はユージン・Kとともに行くことを選んだ。
未だに、ユーグリット・クラインの『渡り』としての役目も担いつつ、現在はユージン・Kと行動をともにしている。
すべては、『王』の行く末を見るために。
束の間の回想は、久弥に今の立場を再確認させたに過ぎない。
とにかく、誰の『渡り』として動かされていようと、久弥の意思はユージン・Kとともにある。
今、ユージン・Kが望むもの。
アクセスキーと、目の前のこの男だ。
しばらく無言で沢村と見つめ合った後、久弥は頷いた。ゆっくりと針をチューブから抜き取る。
沢村に見えるように、ゆっくりと口を動かした。
「私の負けです」
それでも、沢村はじっと久弥を見つめていたが、やがてゆっくりと舌を引っ込めた。
久弥が、元通り注射器の針にカバーをかぶせてアルミケースの中にしまった。その様子を、沢村は無表情に見つめている。
やがて、久弥が元の椅子に腰を下ろすのを見て、やっと沢村は久弥から視線をそらした。
久弥がポケットからハンカチを取り出して差し出すと、沢村は素直に受け取ってそれで顎に滴った血を軽く拭った。
久弥も沢村も、何事もなかったかのようにその表情は変わらない。
その時、イヤホンが久弥の耳にノイズを伝えてきた。
「久弥、聞こえるかね?」
久弥の耳に聞こえてきたのは、ユージン・Kの落ち着いた低い声だった。
「ご無事でしたか」
聞き覚えがある穏やかな男の声には、深い安堵がにじんでいた。
「ジェフ・パルファクスが死亡した。死体を運ぶよう、ミストラルに伝えてくれ。場所はプールサイドだ」
ユージン・Kが淡々と答える。
「…了解」
「待ってくれ、沢村さんはどうなったんだ」
そのまま終わりそうな会話に、鳴海は思わずユージン・Kにつめ寄った。
「そうよ。彼の声を聞かせて」
瑞希も鳴海の横で言い添えた。ユージン・Kはため息をひとつつくと、口を開いた。
「久弥、沢村は話せそうか?」
「…まだ耳がよく聞こえないようですが…代わりますか?」
「そうしてくれ」
その声に、少しだけノイズが響いた。
耳がよく聞こえないというのが気にかかったが、とりあえずその疑問は後回しにして、鳴海はマイクのノイズに耳を澄ました。
「…沢村です」
聞こえてきたのは、間違いなく沢村の声だった。しかし、どこか気だるげだ。そのせいか、不機嫌そうにも聞こえる。朝早くに叩き起こされた電話の声のようだった。それでも、鳴海はその声に素直に喜んだ。とにかく、沢村は無事だったのだ。
「沢村」
ユージン・Kが呼びかける。
すぐに返事はない。マイクの向こうから、ぼそぼそと話し声がする。どうやら、先刻の男が沢村にユージン・Kの言葉を通訳しているらしい。
「何?」
物凄く不機嫌そうな声だ。そんな沢村の声に、ユージン・Kが苦笑する。
「ここに鳴海と瑞希と…」
言いながら、ユージン・Kはナツに目を向けた。
「名前はナツよ」
瑞希が冷ややかに言う。
ユージン・Kは顔色ひとつ変えずに、マイクに視線を戻した。
「…ナツがいる。君の声を聞きたいと言っているから、何か話したまえ」
再び、ノイズとともにぼそぼそと話し声。
耳がよく聞こえないという沢村に、男はどうやって説明しているのだろう?鳴海は不思議だった。
少しして、再び沢村の声。今度は、気だるげなものの不機嫌そうではなかった。
「…俺は無事だ。ところで、神南さんはどうしたんだ?」
沢村は、ユージン・Kの言葉に神南が含まれていないことに、すぐに気がついたらしい。
しかし、ユージン・Kはそこで口調を変えた。
「久弥」
「…はい」
呼びかけに、すぐに男の声が答えた。
「引き続き、待機していてくれ」
「了解」
男の返事に満足そうに頷くと、ユージン・Kは襟元から手を放した。そして、鳴海を振り返る。
「気は済んだかね?」
無表情に訊いた。
鳴海が答えずにいると、ユージン・Kは順に三人の顔を見渡して言った。
「君達にひとつ感謝しなくてはならないだろうな」
意味がわからず、鳴海は眉をひそめた。
「何のことだ?」
「水野冴を、二宮と金田とともに脱出させただろう?」
鳴海は、その言葉にさらに不可解なものを感じた。
どうしてそれが、この男に感謝されることになるのか。本来ならば逆のはずだ。
「…まさか…」
そう呆然と呟いたのは、ナツだった。見ると、ナツの顔色はそれまでよりもさらに青冷めて見える。
何か気づいたのか、それとも…。
ユージン・Kが低く笑った。
「部下の不始末と君達のお陰でわかったよ」
ユージン・Kは皮肉な笑みを浮かべたまま、静かに言った。
「水野冴こそが、『雌』なのだとね」
その言葉に、鳴海は頭が真っ白になった。
何だと?今、この男は何と言ったのだ?
隣では、瑞希が鳴海と同じように呆然とユージン・Kの顔を見つめている。
やがて、その反応を楽しむような笑みを浮かべながら、ユージン・Kは右腕を持ち上げた。
「忘れていないと思うが、タイムリミットは夜明けまでだ。残る君達の手で、あれを始末してもらう」
と、ユージン・Kが指差した先には、変わらずに黒い球体が虚空に浮いていた。
プールサイドから続く廊下に出た時、胸に走った微かな痛みにユージン・Kは眉をひそめた。
胸元に手を滑らせると、防弾チョッキにめり込んだままの硬い弾丸が指先に触れた。
ケブラーとスペクトラ、グラスファイバーからなる多重構造の特注防弾チョッキは、至近距離にも関わらずその弾丸を見事に止めてくれたらしい。
だが、撃たれた時の衝撃は凄まじかった。最大瞬間時速千数百キロで飛んでくる弾丸を受けたその衝撃は、一トンから三トンにもなる。
一瞬、気が遠くなりかけたものの、ユージン・Kはすぐに右腕を持ち上げた。視認せずとも、標的の位置は一度掴めば容易にはずさない。
そして、ユージン・Kはジェフ・パルファクスを射殺した。
部下をその手で殺す結果になろうと、事態の収拾にそれしか手段がなかった以上、そこには一片の迷いも悔いもない。それにジェフの死は無駄ではなかった。あるひとつの事実をユージン・Kに知らしめてくれたのだから。
水野冴…彼女こそがパンドゥーラの雌だ。
そう考えれば、冴との対面直後にジェフが恐慌に陥って廊下を走り去った説明がつく。
『共鳴する脳。獲物を捕らえるために発達した、その特異な能力』
ふと、脳裏に水野慎一郎の言葉がよぎった。実験段階で判明した事実を、ユージン・Kに報告している時に聞かされた言葉だ。
水野はパンドゥーラが獲物を捕らえる時に、何らかの幻覚を獲物に見せていると推測していた。それも、獲物のその行動に影響を及ぼすほどの、強烈な恐怖に彩られた幻覚を。
当時、ユージン・Kはパンドゥーラのそんな能力云々には興味がなかった。要するに、獲物を確実に捕らえて食らい尽くすという、その点だけが確かなら後の点についてはどうでもよかったからだ。
しかし、今ならそこに意味を見出すことができる。
ジェフの突然の暴走については、何らかの外部要因によるものとミストラルは報告してきた。おそらく、その通りだろう。
ジェフは『雌』のパンドゥーラ、水野冴によって幻覚を見せつけられ、突然の恐慌に陥ったのだ。それならば、監視カメラの映像に残されていた、ジェフの尋常ではない全力疾走にも納得がいく。
加えて、水野冴は二宮や金田とともに、現在は救命ボートで海上を漂っている最中だ。
そこで、ユージン・Kは笑みを浮かべずにいられない。
外部に助けを求めるはずの彼らは、ユージン・Kが部下を向かわせて始末させるまでもなく、水野冴ことパンドゥーラの『雌』が食らい尽くしてくれる。仮に食らい尽くさずとも、ジェフ同様の目に遭わされることだろう。どちらにせよ、無事には済むまい。
一方で外部に救助を求めたとしても、救命ボートを助けに向かう者は一人もいない。少なくとも、鬼哭島には。
これから、じっくりと一人の観客を楽しませるための『ショー』が終わるのを待って、ゆっくりと部下を救命ボート捜索に向かわせても問題ないだろう。その時に、『雌』を回収すればいい。
そう思いながら胸から手を離した時、廊下の先で待っていたブラウがユージン・Kの横に並んで言った。
「しかし…よくもまあ、あいつらは何の疑いもなく条件を飲んだね」
ユージン・Kは笑みを浮かべた。
「彼らは基本的に善人だ。人を疑うということを知らない」
ブラウが頷く。
「まさか、あなたの言う通り…連中がすんなり条件を飲むとは思わなかったよ」
「ところで、『本物』の方はどうなっている?」
「現在、僕のチームで開発を進めているよ。予定では、あと数日かかるな」
「それでいい。どのみち、彼らにパンドゥーラは倒せないだろうからな」
ブラウはそこで、こらえきれないようにクックックッと喉を鳴らして笑った。
「偽の薬じゃ、絶対に無理だ」
「いや、それだけではない」
ユージン・Kの言葉に、ブラウが微かに首を傾げる。
「それだけじゃない?」
ユージン・Kは静かに頷く。だが、言葉の続きは心の中で呟いた。
次にパンドゥーラが動き出した時、彼らはその姿に引き金を引けまい。
何しろ、『あれ』の本体は水野慎一郎なのだから。
笑みを浮かべたその目に、デッキに通じるドアが映っていた。
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