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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[17] 対峙 2

 エバンジェリンの白いドレスの胸に、ぱっと赤い花が開いた…そう見えた。
 次の瞬間、ユージン・Kは左胸に殴られたような衝撃を受けてよろめいた。
 視線を落すと、左胸にぽつんと穴が開き、そこから見る間に血が溢れ出してきた。
 エバンジェリンに当たった銃弾が、彼女の身体を貫通して自分の胸に止まった…。
 それに気づいた瞬間、はじかれたようにユージン・Kは走りだした。
 太陽が霞んで見える。
 もうもうと舞い上がる土煙が太陽を霞ませ、辺りの景色を黄金色に染めている。
 黄昏。
 不思議と辺りは静かだった。
 先刻まで鳴り響いていた砲撃と銃撃が止み、辺りに残されているのは土煙と瓦礫だけだ。
 火薬、硝煙、そして血の匂い。
 ユージン・Kは走った。
 胸の傷がずきずきと痛む。熱い血がどくどくと溢れ出しているのがわかる。しかし、そんなことにはかまっていられなかった。
 やがて、瓦礫の中に目指すものを見つけ、ユージン・Kは抱き上げた。
 ユージン・Kの腕の中で、エバンジェリンはゆっくりと瞼を開けた。
 吸い込まれそうな黒い瞳が、まっすぐユージン・Kを見つめる。
「ユージン…」
 エバンジェリンは嬉しそうに微笑んだ。
 震える手で、ユージン・Kはエバンジェリンの頬をそっと撫でる。
「エージェ…」
「いつか変わると信じていたわ…でも…」
 ユージン・Kは唇を噛みしめた。
 エバンジェリンの豊かな胸元に、赤い薔薇が咲いている。その背から、生温かいものが溢れ出しているのがわかった。エバンジェリンの背に回したユージン・Kの腕が、その生温かい液体で濡れていく。
「ユージン?」
「喋るな。すぐにここから連れだしてやる」
 エバンジェリンはゆっくりと首を振った。
「もう、私は行けない」
「そんなことは俺が許さない。お前は俺と一緒に来るんだ」
 エバンジェリンはゆるゆると手を持ち上げると、ユージン・Kの頬に触れた。愛しげに指を滑らせる。
「行きたかったわ。あなたとどこまでも…」
「これから行く。そうだろう?」
 エバンジェリンは、ふと視線を上げた。
「綺麗…」
 ユージン・Kは思わず、エバンジェリンの視線の先に目を向けた。
 土煙に霞んだ太陽が、黄昏色に染まっている。
 こんな時になっても、エバンジェリンの目には美しい景色が映るのかと思う。戦いに明け暮れ、そしてなお失われない意志の輝きが、その目にはある。
 静寂。
 風の音だけが、彼方から悲しげな旋律を運んでくる。
「あなたと、もっと色んなものを見たかったわ…ねぇ、ユージン」
 視線を戻すと、エバンジェリンは悲しげに微笑んでいた。その目元に涙が溢れる。
「あなたは死んでは駄目よ。奪われる側にまわっては駄目。支配される側も駄目よ。あなたのすべてを、誰かの自由にさせては駄目」
「エージェ…」
「…今、言わないと…後悔しそうだわ」
 不意に、エバンジェリンが激しく咳き込んだ。口元から、血が一筋顎に滴る。
 ユージン・Kは歯を食いしばった。
 こんなことがあってたまるか。
 この世で最も愛しい女が目の前で苦痛に耐えているというのに、何もできないなんてことが。
 我が女神。最高にして唯一無二の存在。それが、今この瞬間にも消えていこうとしている。ユージン・Kを残し、たった一人で無名の闇の彼方へ…。
「抱き締めて」
 言われた通り、ユージン・Kはその太い腕でエバンジェリンの身体をしっかりと抱いた。
「愛してる…」
 耳元で、甘い声が囁いた。
 その瞬間、エバンジェリンの身体から、がっくりと力が抜けた。
 まだ温かいその身体を抱いたまま、ユージン・Kは動かなかった。
 風が吹き抜け、土煙をさらって黄昏の太陽に溶けた。


 愛している。今も…そしてこれからも。
 エバンジェリンをおいて他に、ユージン・Kの胸を深くその想いで満たした者は、後にも先にも一人もいない。エバンジェリンがすべてだった。そして、それは今も変わらない。これからも、変わることはないだろう。
 だが。
 彼女はすでにこの世にいない。
 第一次独立解放戦争のさなか、エバンジェリンはその命の限りペンドレルの明日を信じて戦い、そして散っていった。
 もとより、エバンジェリンのいないこの世になど未練はなかった。しかし、エバンジェリンのその言葉と遺志はユージン・Kに死ぬことを許さなかった。奪われる側、支配される側にまわるなと言葉を残した。
 エバンジェリンのいない世界は退屈でしかない。もてあます時間を久弥とともに潰し、ミストラルとともに戯れながら、心の中で雪嶺に向かう豹に焦がれながら…その一方で何かを探していた。
 その後、ペンドレル南部自治政府とミストラル派の画策により、エバンジェリンが暗殺されたのだと知り、ユージン・Kは長い時をかけた復讐に着手した。
 人を生かすのに必要なのは意志の力だ。その意志を突き動かす何か…それが復讐だった。
 ペンドレル。
 復讐には、時間をかけることにした。より、陰湿に残酷に。額に銃口を押し当てて引き金を引く…一瞬で解放されるような、そんな甘い苦痛を与えてやる気はさらさらなかった。
 そのためにパンドゥーラを捜し求めた。
 ユージン・Kがその存在を知るきっかけとなったのは、第六歩兵師団の兵士として派遣されたペンドレルで迷い込んだ、北部に古くから残る名もない遺跡だった。
 そこに、呪われた黒い魔物について記された石碑が残っていたのだ。
『黒き魔物、天より来たり』
 記述によると、黒き魔物を封じるために、村を守る呪術師…シャーマンが黒き魔物を手に北へと旅立ったとある。それだけなら、ユージン・Kはそれをどこにでもある民話・伝承の類として片付けていたはずだった。しかし、後に専門家に調査させてみると、ペンドレル北部の地層と岩盤の一部に、隕石が飛来した痕跡が残っていることがわかったのだった。
 黒き魔物は実在する。
 そう確信したユージン・Kの興味を何より引いたのは、この魔物が人間を餌食にする時のより陰湿で残酷な性質だった。
『黒き魔物、人を肉の内より食らい尽くす』
 世界各地をめぐり、それにまつわる文献資料を集めては読み漁り、その呪われたものを手に入れようと手を尽くした。
 その間、ペンドレルは十六年経っても、エバンジェリンがいた頃と少しも変わらなかった。相変わらずつまらない小競り合いと紛争が、混乱と沈静を繰り返しながら各地で延々と続いている。
 人間は習慣の生き物だという。ならば、ペンドレルでは、あのくだらない破壊と闘争が習慣化しているのか。そう思えるほどに、少しの進歩も変化も見られなかった。
 くだらない、と心底思う。
 ペンドレルを支配する暴力と破壊、そして死。
 暴力が何をもたらし、そして何を残すというのか。
 暴力はただ、暴力でしかない。いかな理想と信念に基づいていようと、暴力に訴えた時点ですべては無意味だ。
 他をねじ伏せ、傷つけ、奪い…そして何も残さない。
 後に残るのは、奪われた者の怨嗟だけだ。そして、闘争が地を満たすペンドレルの人間にも、それがわからないはずはなかった。
『いつか変わる』
 エバンジェリンがそう信じたように、ユージン・Kもその可能性を信じたかった。
 しかし、もう遅い。
 ユージン・Kは苦いものが胸に広がるのを感じながら、視線を海の彼方へと向けた。
『求めよ、さらば与えられん』
 神は、それを望むものに与えるという。
 しかし、その一方でいとも簡単に、そして残酷にこの手から大切なものを奪っていく。
 愛しいと思う者を。失いたくないと願う、その存在を。
 祈りに似たそれらの思いを、死は残酷にかき消して無名の闇の彼方へと連れ去っていく。
 金?権力?名声?
 そんなものに何の意味がある。
 真に欲しいものはそれらでは得られない。どんなに金と力があろうと、過去と命の買い戻しはきかない。
 およそ人間の力の埒外にある、偶然という名の神の力がそれらを支配するのだ。
 再び空を見上げ、ユージン・Kは目を細めた。
 奪えるものなら、奪うがいい。
 ユージン・Kは呟いた。
 神など信じぬ。祈りなど捧げるものか。この身に宿る魂は、エバンジェリンに捧げた。ならば、自身が信じるものは彼女とともにある。
 神よ。
 挑むような視線を闇空の虚空に投げかけ、ユージン・Kは唇を歪めた。
「そこで見ているがいい」
 その言葉と同時に、青白い光がエバンジェリンを包み込んだ。


 何だ、あれは?
 鳴海は彼方へと目を凝らした。
 水しぶきと岩の欠片を避けて一旦避難した廊下から、再び鳴海は元のプールの隅に瑞希とナツとともに移動した。
 その時、青白い光が空から差し込むのが見えた。まっすぐに空から伸びた光は、そのまま音もなく海に突き刺さった。
 そして、エバンジェリンの前方にくるりと半円を描いて光の壁ができたと見えた瞬間、爆音とともに青白い光の中ではじける閃光が見えた。
 爆発。そして、炎。
 何かが破裂するような爆音が、続けざまに耳に届いてきた。それと同時に、白い閃光が漆黒の海を照らし出し、光の壁を燃えながら滑り落ちていく巨大な炎の球が見えた。
「ミ…ミサイルか?」
 鳴海は思わず呟いていた。
 信じられないことだが、目の前…かなり離れた場所に天から伸びた光の壁が、ミサイルを止めているように見える。
 その時、不意に金属同士が擦れ合う見触りな音がしたかと思うと、黒い影が目の隅をよぎった。
「危ない!」
 鳴海が、とっさに傍らのナツの腕を力任せに引いた。
 それまでナツが立っていた場所をかすめて、黒いものが目の前を通り過ぎた。それはそのまま、プールに突っ込んだ。 
 ポールからたれ下がり、切れかかっていたあの電線だった。
 水面に、青白い火花が散る。
「高圧電線だ」
 鳴海は言って、ナツの手を引いてプールから離れた。見ると、瑞希は少し離れた所で屈み込み、何かを手にしている。
「瑞希?」
 一瞬鳴海を見た後、瑞希は頷いて立ち上がった。何かを手にしていたように見えたが、瑞希はその手に何も持っていなかった。
 プールの水の中で、青白い光がパチパチと休みなく散っていた。その度に、水がごぼごぼと不気味な音を立てている。
 鳴海はしばらくそれを眺めていたが、やがてバルコニーを見上げた。
「パンドゥーラは…どうなったんだ?」 
「上で悲鳴が聞こえていたみたいだけど…。それに黒いものの上を人影が移動してたわ。あれがパンドゥーラなら、上に…バルコニーの向こうに行ったんじゃないかしら」
「うーん」
 と鳴海は唸ってみたものの、これといった考えは浮かばなかった。
 ナツが、思い出したように鳴海を見た。
「鳴海さん」
 静かなナツの呼びかけに、鳴海は思わず緊張する。
「な、何だい?」
「ひとつ思い出しました。僕と沢村さんが捕らえられていた部屋に、千人浜で見つけたものとまったく同じガラス瓶があったんです」
 鳴海はその言葉に思い出した。
「残るもうひとつのガラス瓶か…!」
 ナツが頷く。
「それには、P3♀と書かれていました。博士に寄生しているのは、ガラス瓶のラベルに書かれていた表記から雄だと思います。ユージン・Kの言葉通り雌を捜しているのだとしたら、それは別の誰かに寄生した雌…冴さんのはずです。捜しているのは… おそらく繁殖のためじゃないでしょうか」
 繁殖!
 鳴海は、呆然とその言葉を心の中で繰り返した。
 千人浜で雄と記されたラベルを見た時に、何故思いつかなかったのだろう。性別があればこそ、そう書くのは当然なのだ。Pとは、パンドゥーラの略。そして3とは、三体目のパンドゥーラということなのだ。
 あの博士に寄生した雄のパンドゥーラは雌を手に入れ、子孫を残す気なのか。
 しかし。
 一方で、鳴海は別のことを考えていた。
「そんなものを…倒す?」
 瑞希が言った。鳴海は手にした銃に一旦視線を落とし、唇を噛んだ。
 この銃で倒せる保証はどこにもない。現に、パンドゥーラはバルコニーの向こうに消え、そこにいた誰か…おそらくはユージン・Kの部下に恐ろしげな叫び声を上げさせていたではないか。
 少しの間、辺りに沈黙が降りた。
「僕に考えがあります」
 ナツが落ち着いた声で言った。
 鳴海はナツを見て、瑞希を見た。瑞希も鳴海を見ると、ナツに視線を向けた。
「言ってみて」
 ナツは頷くと、説明を始めた。
 しかし、聞くうちに鳴海は思わず眉を寄せて顔をしかめた。
「そんな、無茶な…」
 聞き終えて最初に漏らしたのは、そんな感想だった。
「でも、それしかありません。それに…僕じゃないとできないことなんです」
 ナツは、じっと鳴海を見つめていた。
 出会った時と同じく、水のように済んだ眼差しだ。迷いや怯えは微塵も感じられない。
「僕はずっとこの能力を嫌悪してきました。でも、今はこの能力こそが必要だと思っています…僕にやらせてください」
 その目に揺れているのは、強い意志に裏打ちされた決意の光だ。
 しばらくその目を見つめた後、鳴海は静かに頷いた。
 その瞬間、再び凄まじい衝撃が辺りを包み込んでいた。


 久弥がドアの向こうに消えてから、しばらく待って沢村は腕から点滴のチューブをはずした。
 そのままベッドを降り、部屋を素早く横切る。
 歩くたびに、例の頭痛が頭の中でがんがんと派手に鐘を鳴らしていたが、そんなことにはかまっていられなかった。
 今この瞬間にも、久弥の言う『パンドゥーラ抹殺作戦』は展開されているだろう。そして、どこかにいるはずの神南をはじめ、ナツ、鳴海、瑞希もそれに関係しているはずだ。
 自白剤を投与されるという、当面の危機が去ったことばかりを喜んでばかりはいられない。
 ユージン・Kが沢村の条件を飲んだとはいえ、依然として主導権は向こうにある。捕らわれの身という今の状況には、少しの変化もないのだ。
 ドアに近づき、外の気配を窺う。
 耳を当てて聞いてみると、意外にも複数の足音が聞こえた。
 走ってる?
 廊下を複数の人間が忙しく駆けているらしい。ばたばたと派手な足音が聞こえてくる。
 ふと、足音が聞こえなくなった。どうやら部屋の前を通り過ぎて走り去ってしまったようだ。
 そのままドアに身を寄せて気配を窺っていると、何かの気配がした。
 足音はない。
 気配だけだ。
 それが、ゆっくりとドアに近づいてくる。
 ふと、沢村は背筋がざわついた。理由はわからないが、全身が否応なしに緊張する。
 何か得体の知れない気配が少しずつ近づいてくる。
 別の人間?
 違う。
 これは人間の気配ではない。
 気配の主は、ドアの前で止まった。
 沢村は思わず自身の気配を消した。
 何だ?
 ふと、脳裏に白衣を着た黒い化物がよぎった。
 しかし、そこまでだ。
 沢村は思考を停止した。何か少しでも余計なことに意識を捕らわれたら、容赦なくこちらの気配を悟られそうだった。
 ドアの向こうから、ひしひしと不気味な気配が伝わってくる。
 それは沢村の…ドアのこちら側の気配を探っていた。
 沢村は息をひそめて待った。
 十秒…二十秒。
 気配は動かない。
 ふわり。
 まるでそれまでの緊張が嘘のように、気配はゆっくりと動きだした。少しずつ遠ざかっていく。
 気配が完全に消えるのを待って、沢村はほっと息を吐き出した。
 ドアからわずかに身を離し、辺りを見回す。
 ふと、あるものに目が止まった。
 沢村が最初にこの部屋に捕らわれていた時にはなかったもの…中央のデスクの前に置かれた椅子だ。
 一瞬、頭痛に目を細めたものの、沢村は椅子に近づくとそれを持ち上げた。持ち上げた瞬間、猛烈な頭痛に眩暈がした。沢村は歯を食いしばり、腕に力を込めた。
 ドアに目を向け、呼吸を整える。
 次の瞬間。
 沢村は懇親の力を込め、ドアに椅子を投げつけていた。


「アクセスキーはなぁ…」
 神南は言いながら、声を少しずつ落とした。
 相手の男が、その声を聞き取ろうと神南に顔を近づける。
 その瞬間。
 神南は勢いよく頭を起こした。
 骨と骨がぶつかる鈍い音とともに、男はその場にくず折れた。
「ふん、大したことねぇなぁ」
 ぼりぼりと額を掻きながら、神南はのそりと身体を起こした。そのまま簡易寝台を降りる。
 見ると、神南は淡い緑色の手術用の服を着せられていた。剥き出しの素足の太腿に、白い包帯が巻きつけられている。傷の辺りにひきつれたような感覚はあるものの、薬か麻酔が残っているらしく痛みはない。
 視線を落すと、足元に男が倒れているのが見えた。
 神南は男の傍らに膝をついた。そして、仰向けに倒れた男の首筋に手を当てる。
 脈は正常だ。もっとも、神南が強烈な頭突きを食らわせたせいで、意識を失っているが。
 男の首筋から手を離すと、神南は辺りを見回した。
 少し離れたキャビネットの傍らのカゴの中に、神南の服がまとめて置かれている。
 ふらつく足でそこまでどうにかたどり着き、神南は服を着替え始めた。
 血で汚れたズボンは見た目は気味が悪かったが、赤く染まった部分は今ではどす黒く変色し、ほとんど乾いている。それをよろめきながらも苦労して履くと、最後にコートを身につけてほっと息を吐いた。
 自白剤として神南に注射されたものが、正式には何の薬なのかは神南には見当もつかない。神南にわかるのは、その薬が麻薬…しかもアップ系ドラッグだということだけだ。
「残念だったな」
 言って、神南は気絶した男の顔を眺めてにやりと笑った。
「俺には麻薬は効かないんだよ。なんせ、耐性が強くてね」
 一人勝ち誇ったように言い捨てると、神南はドアに向かった。
 その脳裏に、数年前のことがよぎる。
 かつて、神南は警視庁・麻薬捜査課の捜査員だった。
 ある時、捜査中に運悪く仲間の刑事とともに麻薬密売組織の構成員に捕まってしまった。
 そして…。


 古い倉庫だった。
 使われなくなって久しいらしく、木箱やダンボール箱が変色するのもそのままに薄暗いスペースに積み上げられている。
「警察が何でこんな所にいるんだよ」
 若い男は手にした銃で神南の背中を押すと、錆の浮いた階段の手摺の前に立たせた。
 神南のポケットを探り、手錠を取り出す。男はそれを神南の片腕にかけると、もう一方を手摺にかけた。
 神南が目を向けると、若い男の背後に立つ中年男が見えた。その男は、手にした注射器で何やら吸い上げると、足元に転がったままの神南の同僚の上に屈み込んだ。
「やめろ、何をする気だ!」
 神南が怒鳴ると、若い男が銃把で神南を殴った。
「うっせぇんだよ、このマヌケ刑事が」
 苦々しげに吐き捨てると、神南に向けて唾を吐いた。
 神南はそれにはかまわず、同僚に目を向けた。
 男が手にした注射器の針を、動かない同僚の肩に突き刺した。まるでダーツをやるようなぶっきらぼうな仕草だ。
 そのままにやにや笑いを浮かべながら、男は注射器の中身を送り込んだ。
「いい気分になれるぜぇ」
 男は満面の笑みで神南を振り返った。
「白鷺…」
 神南は思わず、同僚の名を呟いていた。
 何を注射したのか、聞くまでもなかった。
 この男達は麻薬密売人。その商品を使ったに違いない。それも、通常の倍以上の量で。
 気がつくと、男は別の注射器に新たに薬液を吸い上げながら神南に歩み寄ってきた。
「すぐにあんたも天国を見れるぜぇ」
 いやらしい薄笑いを顔に貼りつけ、男は舌なめずりをした。
 神南は残る腕を振り回し、男に殴りかかった。
「動くんじゃねぇよ!」
 その声に目を向けると、若い男が銃を白鷺に向けているのが見えた。
「動いたら、コイツ殺しちゃうぜ」
 若い男が薄笑いを浮かべた。
 注射器を手にした男が、やけに芝居がかった仕草で神南に肩をすくめて見せた。
「動かないでね」
 男は神南の肩を掴むと、再びダーツをするように軽く手首のスナップを利かせて注射針を刺した。
 痛みよりも、怒りに神南は歯を食いしばった。
 男がゆっくりと薬液を送り込む。
 二人の男は、しばらくにやにやと顔を見合わせて笑っていたが、やがて神南と白鷺をそのままに倉庫から出て行った。
「白鷺」
 名を呼ばれると、白鷺の身体が微かに震えた。
 若い男に殴られて、気絶しただけのはずだ。
 やがて、白鷺は身体をのろのろと起こすと、ぼんやりと神南を見た。
「おい、こいつをはずしてくれ」
 神南は、左手首に食い込んだ手錠を示して言った。
 無反応だ。
 白鷺の目は、こちらを見てはいるが何も映していなかった。
 やがて、白鷺が笑みを浮かべた。
 ゆるゆると手を持ち上げると、何かを掴むように手を握ったり開いたりしている。
 ひらひらと舞う蝶を捕らえようとしているように見えた。
 麻薬の効果か。
 神南は先刻打たれた薬を思い出した。
 手首の痛みも忘れ、神南は前に身を乗りだした。
 その瞬間、ぐらりと視界が歪んだ。
 自分の身体にも、その効果が表れはじめたのかもしれない。
 しかし。
 白鷺のように、目の前を飛ぶ蝶や虫は見えなかった。ただ、ゆらゆらと辺りの景色が揺れて見えるだけだ。
 神南はよろめいて、思わず手摺を掴んだ。
 ざらついた嫌な感触だった。
 白鷺に目を向ける。
 白鷺は、まるで子供のように無邪気な笑みを浮かべ、自分だけに見える蝶を手で追っていた。
 白鷺の手が泳ぎ、掴む。また手が追って、掴む。
 何が見えているのか。
 神南にはわからない。
 突然、白鷺は天井を仰いだ。
「ひゃははははは!」
 倉庫全体を揺るがすような大音量で、白鷺は笑った。
 神南は歯を食いしばった。
「白鷺!」
 そのまま、白鷺は狂ったように笑い続けた。
 その声を聞きながら、神南はただ手摺を握り締めているしかなかった。


 後になって、その時に注射されたのは高純度の麻薬…アップ系ドラッグだということがわかった。
 白鷺は、強力な薬物の効果に精神を破壊された。同じ量を注射されたにも関わらず、神南は何事もなく現在に至っている。
 警察病院で神南を診察した医者によると、麻薬に対しての耐性が神南は常人よりも強いのだろうということだった。
 今の今まで、それについてありがたいなどと思ったことは一度もない。
 助け出されるまでの数時間、錆びた金属の手摺を握り締めたまま、同僚が笑い狂う様をただじっと見ているしかなかったのだから。
 錆びた手摺のざらついた感触が手の平に蘇り、神南は思わず手の平をズボンの布地に擦りつけた。
 あの時は、ただ黙って見ているだけだった。だが、今度は違う。
 神南はドアノブを掴むと、勢いよく回した。思った通り、鍵はかかっていなかった。
 必ず助け出してみせる。
 自分に言い聞かせるように低く呟くと、神南はドアの向こうに人の気配がないことを確かめてから部屋を出た。
 廊下は右も左も同じに見える。
 しかし、プールサイドからこの部屋に至るルートは覚えていた。担架に揺られながら痛みに朦朧としつつも、逆にその痛みが神南の意識をつないでいた。
 神南はひと息ついて、歩き始めた。
 一刻も早く鳴海達の元に戻らねばならない。 
 記憶に残るルートを逆にたどりながら、幾つかの角を曲がり、階段を上った。
 やがて、クリーム色のカーペットが敷かれた廊下に出た。壁の両側には、上等な木のドアが並んでいる。
 第四階層客室、後部キャビンだ。目指すプールサイドは前部…この廊下を抜けてさらに先にあるはずだった。
 その時、視界が揺れた。
 地震のような低い轟き。金属の不気味な軋みが、辺りに鈍く響き渡った。
 思わず壁に手をつき、神南はその場に身を屈めた。
「な、何だぁ?」
 ぐらぐらと揺れる視界。
 ふと視線を上げた廊下の先に、しなやかな細い影が見えた。


 パンドゥーラ…。
 久弥は呆然と呟いた。
 先刻、廊下でアル・へインズと合流した。
 そしてすぐさま、アルにプール・サイドまでの誘導路の確保を命じた。アルが廊下の向こうに消えた直後、船体が大きく揺れた。
 そして。
 廊下の先に、見慣れない男が姿を現した。
 優しげという以外に、これといって特徴のない顔立ち。年齢は四十代前後。黒髪と肌、体格を見る限りアジア系…おそらく日本人だろう。
 しかし、男は何も身につけていなかった。その上、全身が不気味に濡れ光っている。
 何より久弥にその眉をひそめさせたのは、その男の目だった。
 意思の光がまるで感じられない。
 男は無表情に、ゆっくりと久弥に近づいてきた。
 これがパンドゥーラなのか?
 少々尋常ではない雰囲気はあるものの、どこから見ても人間だ。アル・へインズをはじめ、部下があれほどの恐慌に陥るほどの存在とは思えないが…。
 男の顔を眺めながらそんなことを思っていると、不意に男の目に異変が生じた。じわじわと黒い虹彩が外側に広がっていく。
 やがて、目にしたものに久弥は息を呑んだ。
 黒いものが白目の部分を完全に塗り潰し、開いた目を洞窟のごとく漆黒の穴に変えている。その目はどう見ても、人間のそれではなかった。
 突然、久弥の視界がふわりと薄い膜に包まれるように暗くなった。
 次の瞬間。
 久弥の目の前に、ユージン・Kが立っていた。
 黒髪、浅黒い肌に精悍な顔立ち。いつもと代わらぬ悠然としたその姿。
 しかし。
 その手にしたものを見た瞬間、久弥の心臓は高鳴った。
 いつもは、胸元のホルスターに納まっているはずの銀の輝きを放つ銃…ベレッタM92FSだ。
 久弥が呆然としていると、ユージン・Kはその銃をゆっくりと持ち上げた。
 その銃口が、静かにユージン・K自身のこめかみに当てられる。
「ユージン!」
 久弥は思わず叫んだ。
 馬鹿な。こんなことはありえない。
 だが。
 現に、目の前の男は自分のこめかみに銃を突きつけている。
 久弥と目が合うと、ユージン・Kは悲しげに呟いた。
「私は、もう耐えられない」
 静かな低い声。
 恐ろしいほどに冷静な声には、深い苦渋と悲哀が込められているように思えた。
「ユージン…駄目です。銃を…銃を下ろしてください」
 久弥はゆっくりと落ち着いた声を心がけて言った。内面の動揺を隠そうとしたものの、うまくいったかどうか。
 ふと、ユージン・Kが笑みを浮かべる。自嘲めいた、それでいて悲しげな笑み。
「久弥、君はいつか言ったな。退屈させてくれるな、と。そして、私を退屈させないと…」
 久弥は頷く。
 そう…確かに自分はそう言った。
 あの日、久弥はユージン・Kとペンドレルのうらぶれた酒場で再会した。
 エバンジェリンを失って以後、ユージン・Kは酒に溺れて自暴自棄な生活を送っていた。そんなユージン・Kには、初めて出会ったデュッセルドルフのパーティで久弥が興味を惹かれた男の面影は微塵もなかった。全身を包む強烈なオーラすら、色褪せていた。
 それほどに、ユージン・Kが失ったもの…エバンジェリンの存在は大きかったのかと思った。
 エバンジェリンとユージン・Kが愛し合っていたのは知っていた。エバンジェリンの語学家庭教師として、久弥はその傍らで常にエバンジェリンと彼女が愛するユージン・Kを見守っていたからだ。
 『渡り』としての自分にできることは、せいぜいユーグリットにとって有益な情報を集めることだけだろう。その一方で、自分の働き如何では、ペンドレルの何かが少しでも変えられるのではないかと思っていた。それ以上に、ともに武器を手に戦うユージン・Kとエバンジェリンならば、ペンドレルを支配する破壊と暴力に終止符が打てるのではないか…と、半ば真剣に思っていた。そして久弥は、そんな二人を間近で見ているのが好きだったのだ。
 だが。
 エバンジェリンはすでにいない上に、ユージン・Kはかつての面影は見る影もなく堕落している。
 友情でもなく、ましてや愛情などでもない。
 ただ、久弥は手負いの獣のようなユージン・Kを見ていたくはなかった。そんな男は、眺めていても退屈なだけだ。ユージン・Kに最初に出会った時に抱いた直感…いずれこの男の『渡り』となるなら悪くはない…それが間違いだったとは思いたくなかった。
 その時、久弥は言ったのだ。
 エバンジェリンを思い出して過ごす退屈に満ちた無為な時間から、ユージン・Kを解放すると。その代わり、自分にも退屈させてくれるな、と。
 そして…それから十六年。
 久弥はユージン・Kをその側で見守ってきた。
 ユージン・Kが死に満ちた雪嶺に向かう豹に焦がれ、死に場所を探していることに薄々気づきながらも、久弥はその言葉通りにユージン・Kを退屈な時間から解き放ってきた…つもりだった。
 しかし。
「私は…もう退屈に耐えられそうにない」
 ユージンは静かに言った。
 胸を突くような、容赦のない一言。
 そして、何より聞きたくないと久弥が思っていた言葉だ。
 その時、ユージン・Kの引き金にかけられた指に力が込められるのを感じた。
「ユージン!」
 思わず駆けだしていた。
 その久弥の手が届く寸前、ユージン・Kは引き金を引いていた。
 低い銃声の轟きとともに、ぱっとユージン・Kの頭の辺りに赤い霧が散る。
 久弥は、呆然とそれを眺めていた。
 目の前で、ユージン・Kの巨体がゆっくりと背後に倒れていく。
 久弥はそのまま、その場に崩れるように座り込んだ。
 そんな。
 何も考えられない。銃声とともに、ユージン・Kの命を奪った銃弾が、久弥の心までも殺してしまったようだった。
 世界が急速に色彩を失くしていく。イヤホンには、誰かの呼びかけが聞こえる。 
 しかし、そんなことはどうでもよかった。
 何よりその行く末を見届けたいと願っていた男…『我が王』が目の前で死んでしまったのだから。
 ユージンが、死んだ。
 そう思った瞬間…視界が暗くなっていった。
 不意に、強い力に腕を引かれた。
 見慣れない男の顔が目の前にあったが、久弥はもう何も考えられなかった。
 ユージンが死んだ。
 その言葉だけが、心の中に響いていた。


 がくん、と一際大きく揺れた後、ヘリは機体を斜めに傾け、ゆっくりと上昇を開始した。
 由井が見ると、自分が必死に押さえていた操縦桿に、白く華奢な手が重ねられている。
 視線を上げると、少女がこちらに腕を伸ばしていた。
 無表情に操縦桿を押さえ、徐々に引いていく。
 先刻までびくとも動かなかった操縦桿は、少女の白い手に導かれて少しずつ斜めに傾いた。
 機体が安定を取り戻す。
 男の力でびくともしなかった操縦桿を、少女が片手で…。
 由井は信じられない思いで少女を見つめていた。
 ふと、少女と目が合った。
「もう大丈夫…」
 思いのほか、落ち着いた声で少女は言った。
 その言葉に、由井は我に返ると慌てて操縦桿を握り直した。 
 柴が呆然としていると、少女は操縦席から離れてこちらを振り返った。そのままゆっくりと横たわった金田に近づくと、膝をついて金田の顔を覗き込んだ。
 柴がその姿に、慌てて金田の身体に手をかける。反対側から、真部が金田の首筋に手を当てた。
「…そんな」
 真部の顔に、さっと緊張が走った。
「おい、どうした?まさか…」
 柴は声を荒げて真部に訊く。
 答はない。
 青白い金田の顔が、すべてを物語っていた。
「そんな!金田さん…!」
 少し離れた所で座り込んだままだった若い男が、泣きそうな顔で這い寄ってきた。
 桜木が、気配を察して涙を目に浮かべている。
 ぽつん。
 ふと、金田の頬に透明な雫が滴った。
 柴が見ると、少女の大きな目からぽろぽろと大粒の涙が滑り落ちている。
 すぐに、少女は顔をくしゃくしゃにした。それまでの無表情さは欠片もなくなり、子供のように顔を真っ赤にして泣いている。
「ごめんね」
 か細い声。
「ごめんね…ごめんね…」
 見ていられなくなり、柴は思わず操縦席に目を向けた。
「おい!大急ぎで戻れ!」
 由井は無言で機体を上昇させた。
 そのまま、高速飛行に入る。
 窓の外の景色が飛ぶように過ぎていく。
 ふと、少女が涙目のまま真部を振り返った。
「輸血して」
「は?」
 真部がぽかんと口を開ける。
「そこに輸血用キットが入ってるでしょう。それで私の血を金田さんに輸血して」
 その声に先刻までのようなあどけなさははない。毅然とした響きだった。
 真部は呆然としつつも、すぐに少女が指差したメディカルボックスを開け、中から輸血用キットを取り出した。
 しかし、少女はもどかしげに真部の手を退けると、自分で針のついたチューブを手に取り、ワンピースの袖を捲くった。すぐさま、自分の細く白い腕に針を刺す。その仕草は、まるで看護婦のように手慣れていた。
 少女がチューブの止め具を調節すると、鮮やかな赤がチューブの中を駆けた。
 柴は慌てて、金田のシャツの袖を捲くり上げた。
 一瞬触れた金田の皮膚はまだ温かいものの、少し冷たくなっているように感じた。
 少女は、慣れた手つきで金田の腕に針を刺した。
「…血液型、同じなんだろうな?」
 柴は思わず少女に訊いていた。少女は答えない。無言で金田の顔を見つめている。
「金田さん…」
 柴の横で、若い男が半泣きのまま金田を見つめている。
 これで助かる保証は何もない。胸に当てられた止血ガーゼは相変わらず血を吸ってぐずぐずになっている。血は依然として止まっていないのだ。このままでは、ヘリが鬼哭島に着く前に出血多量で金田は死んでしまう。
 少し離れた所で、桜木がぐすんと鼻を鳴らした。
 沈黙。
 ヘリのローターとエンジンの唸りだけが聞こえてくる。
 金田の顔色に変化はない。
 ダメか。
 柴は呟いて唇を噛んだ。
 その時、ひゅうっと、微かな笛に似た音がした。


「迎撃成功!」
 その声に、セキュリティ・ルームに安堵のため息が広がった。
 しかし、ミストラルは画面に目を向けたまま、補佐の男に声をかけた。
「経過時刻は?」
「十七分です」
 ミストラルは頷いた。
 頭の中で、タイムテーブルが着々と進行していく。
 ランカスターとの戦闘が開始されて十七分。戦闘はまだ終わってはいない。次の攻撃に備えて、態勢を整えばなるまい。
 そこでミストラルは、背後を振り返った。
「久弥はどうなってる?」
 監視カメラのモニターの前に座った部下が振り返った。その表情が曇る。
「第四階層後部のカメラが故障しています。こちらでは確認できません」
 Shit!
 ミストラルは毒つきながら、イヤホンをオープンに切り替えた。
「久弥!久弥、応答しろ…!」
 応答はない。微かなノイズがあるものの、応じる声はなかった。
 まさか。
 不意に、ノイズとともに別の声が漏れた。
「私が様子を見てくる。君はランカスターから目を離すな。残り十三分。それで決着がつく」
 自身に満ちた低い声に、ミストラルは頷いた。
「了解」
「ミストラル」
 聞き慣れた声に、どこか暖かみのあるものが込められた。ミストラルは微かに首を傾げる。
「はい?」
「よくやった」
 その一言に、ミストラルは肩の力を抜いた。


 一瞬、神南は迷った。
 目の前にへたりこんだ人形のような顔立ちの男か、ゆっくりとこちらに近づいてくる裸の男…どちらが味方で、そしてどちらを助けるべきか。
 しかし、裸の男の目を見た瞬間、神南は人形めいた男に決めた。
 長い黒髪と白い肌が印象的な男は、モスグリーンの作業着を身につけていることから判断するにユージン・Kの部下だろう。
 その肩に手をかけ、顔を覗き込んでも男は無反応だった。
 仕方なく、神南は男を担ぎ上げ、足を引きずりながら廊下を急いだ。
 いくつかの角を曲がり、背後に裸の男が見えないことを確認してから、目の前のドアのひとつを開けて中に入った。すぐさま鍵をかけ、その場に男を下ろした。
 神南は、先刻の裸の男を思い出していた。
 何だ、あの男は?
 見た目は、神南と年が変わらない年代に見える。しかし、男の両目は真っ黒に塗り潰されていた。そのぬらぬらと濡れ光る黒い目は、パンドゥーラを思い出させた。どちらにせよ、男は異様だった。ぬらぬらと塗れ光る黒い目も、そして裸で歩いているという点も。
 神南は、そこで思い出したように視線を落とした。
 長い黒髪と白い肌が印象的な男は、どこか年齢不詳の感がある。その繊細な顔立ちは人形のようで、その表情も恐ろしいほどに無表情だ。目は開けているものの、何も見ていない。
 ふと、長い黒髪の間からクリーム色のコードが見えた。男の傍らに身を屈めてそれを引っ張ると、イヤホンがはずれて落ちた。
 神南はそれを拾い上げて耳に当ててみた。
「久弥!久弥、応答しろ…!」
 少年のような声が鋭く言い放った。
 英語だ。例によって、神南には何を言っているかはわからない。それでも、呼びかけの『久弥』という言葉だけは名前だろうと見当がついた。
 神南は目の前の男に目を向けた。
「ふむ。お前さんの名前はヒサヤというんだな」
 一人納得したように頷くと、神南は頭を掻いた。
 どうしたものかと思う。しかし、このまま放っておくわけにもいかない。
 神南は久弥の肩を掴み、その目を覗き込んだ。
「おい、聞こえるか?」
 無反応。
 無表情、そして何も見ていない目。その目は、神南に白鷺の目を思い出させた。こちらをじっと見据えていながら、その向こう側を透かして見ているような空虚な眼差し。
「久弥!」
 ビクン、と久弥の身体が震えた。
 視線に、微かだが意思の光がよぎったような気がした。
「しっかりしろってんだ、おい!」
 さらに怒鳴った瞬間、久弥が瞬きをした。
 ぼんやりとした視線が宙を泳ぎ、神南に向けられる。
「ユージン…」
「あ?」
 神南は眉を寄せた。
 久弥は、そのまま弱々しく神南の腕を掴んだ。悲しげな目がじっと神南に向けられる。
「ユージン、私は…」 
 『ユージン』と呼び捨てにするからには、この男はユージン・Kの部下よりは上位の者なのだろう。あるいは、対等の立場かそれに近い者…。それが、どうしたわけか正気を失っているらしい。
 脳裏に裸の男の黒い目がよぎり、神南はさらに眉をひそめた。
 わからねぇことが多すぎるぜ。
 鳴海と瑞希の話から、パンドゥーラが獲物に何らかの幻覚…それも恐怖に満ちた映像を見せているらしいという話は聞いていた。
 あの裸の男が何者かはわからないが、尋常ならざるその様子からパンドゥーラだと仮定するなら、この久弥も恐怖の幻覚を見せられたのかもしれない。
 憶測類推の域は出ないが、今のところそれ以外に筋の通った説明はできそうにない。
 どちらにしても、時間がなかった。タイムリミットは刻々と迫っているのだ。
「おい、俺を見ろ」
 久弥のぼんやりとした視線が神南に向けられる。
「俺は神南だ。ユージンじゃねぇ」
 久弥は素直に頷いた。
「ちぃっとばかし、武器がいる。あんたなら、その在処がわかるはずだ。案内してくれ」
 久弥は眉をひそめた。
「武器…」
「そうだ。いいか、俺はあの黒い化物を倒さなきゃなんねぇ…仲間を助けるためにな。あんたの力を貸してくれ」
 言いながら、神南は思いついた言葉をつけ足した。
「…ユージンのためにも」
 その言葉に、久弥はこくりと頷いた。


 奇妙な感覚だ。
 彼は呟いた。
 目の前の世界は彼が知り、かつて感じたものとさほど違いはないように思える。
 しかし、人…人間が違うようだ。
 目を向けて意識を集中するだけで、その人間が最も恐れるものが脳裏に展開される。
 それらの映像は、いずれもくだらないものだった。
 笑いだしたくなった。
 こんなものが怖いのか、と。
 彼は行き会う者の恐怖映像を眺めながら、ゆっくりと足を進めた。
 雌を探さなければ。
 そう頭の奥で声がする。
 彼はその言葉に従った。
 それ以外のことは何も考えなかった。考えたくもなかった。
 すでに死んだ自分が、おぞましい闇の権化たる魔物に食らわれたことも。すでに後戻りできないところまで来ていることも。
 やがて、自分がすべてを食らい尽くす…死神と化すことも。
 考えるまい。
 それが卑劣な自己弁護と現実逃避の結果と言われようと、彼は何も考えるつもりはなかった。
 水野慎一郎?
 そんな人間はもう死んでいる。
 ならば、今ここにあるのは何者だ?
 魔物だ。
 現実と見間違うほどの恐怖に彩られた鮮明な映像を見せつけ、耳から獲物の体内に入り込み、内から食らい尽くす漆黒の魔物。
 パンドゥーラ。
 彼は笑みを浮かべた。
 そう、私はパンドゥーラだ。
 それさえわかっていれば他には何も必要ない。思う様その能力を使い、食らい尽くすのみだ。
 それでこそ、魔物にふさわしい。
 彼は笑みを浮かべたまま、視線を上げた。
 そこに。
 細くしなやかな影が揺れた。

 

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