パンドゥーラ
作者:柚ノ月香
[18] カウント・ゼロ 2
「例のアクセスキーと引き換えに、他の全員を解放させる条件を俺がユージン・Kに飲ませる。その後も全員の無事を保証させるためには、人質として俺が残るのが一番なんだ」
理屈はわかる。しかし、神南の頭は理屈ではどうしても割り切れない。
「沢村…」
「らしくないよ、神南さん。迷うことはないし、考える必要もない。神南さんは神南さんのやるべきことを考えて、それに従って行動すればいい」
この期に及んでも、沢村は淡々と言った。
「けどな」
「時間がないんだ。俺は行く」
その声には、強い意思が感じられた。
神南も、沢村の言い分が正しいとわかっている。
鳴海に飲ませた薬は鎮痛剤だと決めつけ、ユージン・Kを無視するのは簡単だ。しかし、もし鎮痛剤ではなく毒だったら…その危険は無視するには大きすぎた。人一人の命がかかっている以上、選択の余地はない。
一方で、パンドゥーラの取引が成立してしまっているとすれば、時間的余裕もない。鳴海をはじめ、船内に残っている他の者を無事脱出させるためには、沢村が残るのが最良の策には違いないのだ。
それでも、神南は沢村を行かせたくはなかった。これ以上、何かあったらと思うと、今回の件で軽々しく沢村を呼び寄せた自分を死ぬほど呪いたくなる。
そして、神南はあることに気がついた。
「沢村…お前まさか…最初からこうなると読んでたのか?」
冷徹な判断力、そして調査員としての洞察力…ここに乗り込むと迷うことなく言った男は、すでにあの時点で自分が残ることになると読んでいたのではないか。
「…他に手がない場合は、それも考えていたよ」
沢村は静かに答える。
「沢村…」
どうしてそこまで冷静でいられるのか。
この状況で先を読んでいるなら、最悪のシナリオすらその脳裏に冷静に思い描くのか。そして、その結果がどうあれ、その身と心で受け止めていくのか。
神南は沢村の肩に置いた手に、わずかに力を込めた。
「今の話は、他のみんなには言わないでくれ。それと…鳴海さん達を頼むよ」
言って、沢村が動きだした。
伸ばした手から、その温もりが遠ざかる。
「沢村…」
漆黒の闇の中に、足音とその気配が静かに溶けていく。
神南は思わず声を荒げた。
「沢村…!」
ふと、足音が止まった。
気配で、沢村が立ち止まったと気づいた。
他にも手はあるはずだ…そう思いたい。しかし、何も思いつかない自分が腹立たしい。そんな苛立ちは、呟きとなって口から滑り出た。
「沢村よ…お前、もうちっと器用な生き方できねぇのか」
少し離れた闇の向こうで、微かな笑い声が聞こえた。
「それはお互い様でしょうに」
笑みを含んだ声を残して、沢村の気配がすうっと消えた。
少し遅れて、遠ざかる足音が響いてきた。
闇を駆ける足音を聞きながら、神南は手渡された携帯を強く握り締めた。
『パンドゥーラの取引で得られる報酬の二割』
沢村の声を思い出しながら、神南は鼻から息を吐き出した。
神南達に課せられたタイムリミット、そしてパンドゥーラの商談正立…いずれにせよ、時間はない。
神南が部品を差し出すと、無言で受け取った久弥は慣れた手つきで銃を組み立て始めた。
言葉にしなくても、相手の意図を汲み取ることに長けているらしい。
最後にマガジンを本体に押し込み、久弥は神南に銃を差し出した。
受け取りながら、そのずしりとした銃の重さに神南は眉をひそめた。
この日本、しかも北海道のはずれに位置する鬼哭島に身を置く自分が、こんな物騒な武器を手にする機会があるとは何とも因果なものだと思う。
しかし、あれこれ考えている余裕はない。
タイムリミットは夜明け。それまでにパンドゥーラの始末をつけねばならない。
「よし、行くぞ」
神南の声に、久弥が頷いた。
クリーム色のカーペット。白い壁を飾る、等間隔に並ぶ重厚な木のドア。
船内…おそらくはVIP専用のキャビンのある区画、第五階層だ。
その廊下の一角、半開きのドアの側で膝をついたまま、沢村は廊下の先に目を凝らした。
熱でぼやけた視界の中、巨漢が立っているのが見えた。
しかし、細部まではぼやけてよく見えない。
それでいて、その巨漢が見につけているスーツ、コート、そして黒髪と肌の色は見覚えのある男のものだった。
「…おとなしくしていればいいものを」
低い呟きが聞こえた。やはり聞き覚えがある声だった。
不意に、影が動いた。
沢村は思わず身構える。
目の前の影から腕が伸び、沢村のジャケットを乱暴に掴んだ。
引かれるまま、身体が浮いた…そう思った瞬間、沢村は脇腹を殴られていた。
「…くっ…」
頭痛と吐き気、そして内臓を震わせる鈍い痛みに視界が一瞬白く瞬いた。
よろめいた沢村の腕を、男が掴んだ。
「この船の電子ロックを解除した者は初めてだ。今回の件が片付いた後、君を船内のどこに配置するかたった今思いついたよ。君はセキュリティ部門、警備担当だ」
笑みを含んだ低い声が、沢村の耳に響いた。
「ユージン・K…」
低く返しながら、沢村は思わず唇を噛んだ。
熱のせいで心身ともに鈍くなった上に、最悪のタイミングで最も出くわしたくない人物に会うことになるとは。
ユージン・Kはジャケットの襟を掴むと、沢村を強引に部屋の中に引き入れた。
そのまま、人形を引きずるように部屋を横切る。
逆らおうと伸ばした沢村の手は、ことごとく空を切った。
乱暴に突き飛ばされ、身体がふわりと浮き…次の瞬間、沢村はベッドの上に仰向けに倒れ込んでいた。
熱で朦朧とした状態の自分が、目の前の男を倒して逃げるのは不可能だ。
諦めの一方で、意識が切り替えを開始していた。
まだ時間はある。
体勢を立て直そうと上体を起こしかけた時、軽い衝撃とともに手首に冷たい金属が食い込んだ。
沢村が目を向けると、左手首に黒い手錠がかけられているのが見えた。すぐさま、ユージン・Kは傍らの天蓋を支える細い円柱に手錠のもう一方をかける。
「神南の持ち物に含まれていた。まさかすぐに使うことになるとはね」
手錠がしっかりと固定されていることを確かめると、ユージン・Kは沢村を見下ろした。
「日本の警察の装備も、なかなかに優秀だ。今度は手首の関節をはずしたところで無駄だろうな」
ユージン・Kは低く笑った。そして、くるりと背を向けた。
「待て…!」
沢村は思わず上体を起こし、金属が手首に食い込む痛みも忘れて身を乗りだした。
ユージン・Kが足を止める。
「今、この船内で何が起こってる?『パンドゥーラ抹殺作戦』に鳴海さんや他の…彼らを関わらせているのか?」
「だとしたら、何だね」
背を向けたまま、ユージン・Kが低く訊き返す。
「彼らを無事に帰す…そういう条件だったはずだ」
「そうとも」
言って、ユージン・Kは沢村を振り返った。
「そして、君は私に二億で引き抜かれた。それを忘れてもらっては困る。彼らの無事を保証する代わりに、君はここに残る…そうだな?」
沢村が口を閉ざすと、ユージン・Kは目を細めた。
「君がおとなしくしていれば、彼らは無事に帰す。だが、君が再び逃げ出すようなことがあれば…」
意味ありげに言葉を切った。
「君も、彼らも二度と戻れない」
石を思わせる一言に、沢村は目を細めた。
ユージン・Kの灰色の眼に揺れるのは、獲物を前にした肉食獣を思わせる酷薄な光だ。
逆らえば、言葉通り全員を殺す。その明らかな脅しは、沢村を黙らせるのに充分だった。
無言でその眼を見つめ返すと、ユージン・Kが笑みを浮かべた。勝ち誇った支配者のそれを思わせた。
「わかったら、ここでおとなしくしていることだ。二度と私の手をわずらわせてくれるな、沢村」
悠然と遠ざかる背中を見つめたまま、沢村は唇を噛んだ。
鈍く広がる熱をはらんだ脇腹の痛みが、沢村の視界をぼんやりと歪ませていた。
低いモーターの唸りが聞こえる。
どこまでも伸びている長いベージュのカーペット。
ナツは目の前の男に目を凝らした。
見た目は、どこから見ても人間に思える。
白衣に身を包んだ黒い姿に比べれば、目の前の男の姿は裸というだけで特に異様でもなかった。
しかし、目が違った。
本来眼球があるべき場所には、黒い漆黒の穴が開いているように見える。その黒い油のように濡れた光沢には、見覚えがあった。
パンドゥーラ。
加藤邦弘の耳から這い出し、枕にシミを作った黒いもの。瑞希の脳裏に焼きついていた、おぞましい黒い姿。そして、鮮明な映像の記憶を焼き付けた…その恐怖の源だ。
じっと見つめていると、ナツの目の前にぼんやりと映像が浮かんでは消えた。
ナツは思わず眉をひそめる。
それらの映像は、どれもおぞましい恐怖に彩られたものだ。
その人間が最も恐ろしいと感じるもの…それを相手の脳から取り出し、現実に目の前にあると錯覚させる。
恐怖映像を見せることで、相手の正常な意識と行動を抑制する。
それがパンドゥーラの持つ異能なのだろう。
そして、ナツの能力もそれに近い。
相手に見せることはできないが、見ることだけはできる。その能力を使えば、パンドゥーラを巧く誘導できるはずだ。
ナツはそう考えていた。
ふと、意識を集中しようとパンドゥーラの顔に目を向けた時、何故かナツは自分の父親を思い出していた。
その時、ナツは押入れの隙間からこっそりと見ていた。
押入れの外では、男の怒号と女の悲鳴が混ざり合っている。
「いい加減にして!」
女が叫んだ。
「うるせぇ!夏緒はどこだ」
男が怒鳴る。酒が入っているのは間違いなさそうだ。
ナツの知るその男は、普段は腰の低いおとなしい性格だったが、酔うと途端に別人のように凶暴になった。
「あの子はあなたの道具じゃないのよ。いい加減にあの子をテレビや雑誌に連れまわすのはやめてちょうだい。学校を休ませてまでそんなことをして何になるの。あの子は嫌がっているのよ」
「黙れ!」
声とともに、殴られたらしい女が微かな悲鳴を上げた。
ナツはぎゅっと目を閉じて押入れの奥に静かに後ずさり、息を潜めた。
男が女を殴る音が聞こえてくる。
悲鳴と怒号。
ナツは両手で耳を塞いだ。
何故、こんなことになったのだろう?
いつの頃からか男は働く意思を放棄し、自分の責任は棚に上げたまま、自身の不運を自分以外の何かのせいにしはじめた。
男の理屈では、金がないのは働かない自分のせいではなかった。
雇ってくれない会社のせい、妻と子供のせい、そして社会全体のせいだった。
借金をしてはその金を酒に変え、女が必死に働いて得たパートの給料すらパチンコと競馬につぎ込む。
男の言い分は毎日違ったが、決まって自分が悪いということはなかった。
誰かのせい、運のせい、そして世の中のせい。そうして自己の責任をあらかた自分以外の何かのせいにし、自らを振り返ることのない男は、日々酒を飲んでは妻と息子に暴力をふるうようになった。
我慢をすることもなく、ましてや反省することもない。さらには責任を取る意思すらなく、自身を振り返ることは皆無。どうしようもなく愚かで、救いようのない人間。
一方で、ナツは男がほしがるものを身に宿した自分自身を呪っていた。
こんな能力さえなければ、と。
この能力に目をつけ、あちこちにナツを売り込み、連れまわした男の元には大金が転がり込むようになった。
楽して稼ぐことを覚えた男は、ますます愚かになった。
酒を飲み、それまで以上に頻繁に暴力をふるった。そうして暴力をふるうことすら、自分以外の何かのせいにしながら。
不意に、女の悲鳴が止んだ。
男は家具をひっくり返している。ガラスの割れる音と、重いものが倒れる鈍い振動が伝わってきた。
見つかれば、再び男は自分をテレビ局に連れて行くのだろう。
今、この瞬間に自分の持つ能力が別のものに変わるのなら、あの男をこの世から消してくださいと願った。
それが駄目ならば、自分がこの世から消えてしまいますように…と。
消えたかった。
ずっとそう思っていた。
両親の不和の遠因は自分の能力にある。自分さえいなければ、彼ら両親にも別の人生があったかもしれない。
ある日突然姿を消しても、誰もこの身を案ずることも失くして嘆き悲しむこともない…そんな存在になりたかった。誰に知られることなく、どこかでひっそりとその存在自体が消える。人類と出会うことなく消えていった、幾多の絶滅動物のように。
誰にも知られず、そんな風にひっそりと消えていけたらどんなにかいいだろう。何より、自分の存在の記憶そのものを、自分を知るすべての人々の記憶から消してしまえたらどんなにいいか…そう思いながらナツは生きてきた。
祖母に出会うまでは。
鬼哭島に初めて降り立った時、ナツは心の底から解放感を感じた。
ここでは、誰もナツに『見て』ほしいと頼む者はいない。誰もナツの能力は知らず、ましてやその存在を特別気にかけることがない。
二度と能力を使うこともないだろう。これからはできるだけ目立たずに、静かに暮らしたい。
そう願った。
ナツの願い通り、鬼哭島での生活は静かで穏やかだった。
祖母の温かい眼差しに見守られ、ナツは武彦とともに学生生活をのんびりと楽しむことができた。
幸せだった。
けれど…。
もしかしたら、それは逃げていただけなのかもしれない。
自分の能力から目をそらし、目立たないように生活することで自身の過去を否定し続けてきた。
忘れたふりをして生きてきた…果たして、それが真に幸せだったかどうか。
ナツはそこで首を振った。
仮に逃げていたとしても、それはいい。とにかく今は、自分のやるべきことをやるだけだ。
自分にしかできない、このために。
ナツは目の前の男に意識を集中させた。
さあ、僕についてきて。
ナツが心の中で呟いて一歩後退すると、パンドゥーラの唇の端がつり上がった。
不気味な笑みを満面に浮かべたまま、パンドゥーラはナツに導かれるようにゆっくりと足を踏みだした。
冷たい輝きを放つ月が天空で輝いている。
ゆっくりと行き過ぎる墨を流したような雲が、風の強さを教えてくれていた。
耳元で風が唸る。
闇に沈んだプールサイドに屈み、鳴海は準備にとりかかった。瑞希が横で材料の入ったバックを開ける。
時間がない。
鳴海は焦りながらも、手元に意識を集中させた。
小型マグライトで照らしながら、二ッパーで太く黒いゴムを中の鋼線ごと切り、ゴムだけを十センチほど取り除いて銅線を露出させる。
横では、瑞希が手にしたTシャツやタオルをペットボトルの中の液体に漫し、プールサイドに敷いている。ペットボトルやTシャツ、タオルは、更衣室で見つけてきたものだった。ペットボトルの中身は、プールの一角に設置された浄水ポンプから汲み取ったろ過前の海水だった。
ガラス戸付近の開けたスペースを中心に、濡れた布は次第に隙間なく辺りを埋め尽くした。
配電盤を操作して電源を落とし、作業に取りかかってからどれぐらい過ぎただろう?
心なしか月が傾き、東の空が淡く色合いを薄めてきているように思える。
時計で時刻の確認のしようはないものの、鳴海はひどく時間が過ぎたように思えていた。
間に合うのか?
果たして夜明けまでに、パンドゥーラを本当に倒せるのか。
「また、あれこれ考えてる?」
横で瑞希が訊いた。
「え?」
目を向けると、瑞希がじっと鳴海を見つめていた。
「いつもそうやって一人で考え込むの?」
「…そう見えるか?」
「ええ。そうしてどんどん悪い方に考えて、自滅しちゃうの。損よ、そういうのは」
苦笑しつつ、鳴海は視線を手元に戻した。
塗れた布に銅線がしっかり触れるように固定すると、プールサイドの反対側にまわって同様の処理を施した。
手を動かしながら、瑞希の言う通りかもしれないと鳴海は思う。
両親が死んで以後、ずっと一人で考えてきた。考えていたのは遥のことだけだ。そして、それはこの先もずっと変わらないと思っていた。
遥が健康になって人並みの生活を送れるようになり、当り前の幸せを手に入れる…その時までは。
けれど。
今の自分は、ひたすら目の前のことを考えている。
とにかくパンドゥーラを倒し、ここから瑞希とナツ、神南、沢村とともに無事脱出することだけを。
「瑞希」
声をかけると、瑞希は顔を上げて鳴海を見た。
「ここを出たら、コーヒーでも飲みに行かないか?」
一瞬、瑞希は驚いたように目を見開き、次の瞬間微笑んだ。
柔らかな笑みが、ぼんやりとしたライトの明かりに浮かび上がって見える。
「ねえ、ひょっとしてデートに誘ってるの?」
悪戯っぽい訊き方は、初めて会った時と変わらない。
「デートに誘っちゃいけないか?」
「よく言うでしょ、危機的状況に置かれた男女は恋に堕ちやすいって。それに、そういうのはすぐに醒めちゃうのよ」
鳴海は笑った。
久しぶりに笑った気がする。肩を震わせた時、微かに右肩の傷が疼いた。
沢村にもらった薬の効果が切れ始めているのかもしれない。
が、鳴海はそれについては考えないようにした。
「だから、ここを出たら…って言っただろ」
今度は瑞希が笑った。
「そうね、考えとくわ。ここを出てもあなたが魅力的に見えたら、ね」
その笑みを見ているうちに、鳴海はふとあることを思い出した。
パンドゥーラを倒すということは、瑞希の伯父を…。
「瑞希…」
鳴海の硬い声に、瑞希は笑みを消した。
「どうしたの?また怖いこと考えてる?」
「瑞希は…平気なのか?」
「何が…」
言いかけて、何のことを言っているのか気づいたらしい。瑞希は視線をそらして俯いた。
「パンドゥーラを倒す…それはつまり…」
それはつまり、瑞希の伯父である水野慎一郎を殺すということに他ならない。
「瑞希…」
「やめて」
瑞希は顔を上げると、鳴海を見つめた。
「今さら、どうするっていうの?伯父はあんな姿に変わって…ナツはそんな伯父を…パンドゥーラを倒すために行ってしまったわ。あの子だって、本当は巻き込まれずに済んでいたのかもしれないのに、私が…私があなたにあの子に会わせてしまったからこんなことになってしまった。パンドゥーラを倒さないと私達はここから出られない。神南警部も沢村さんも…そしてあなたも…あの男に殺されてしまう」
ゆっくりと確かめるように話す瑞希の抑えた声のトーンに、鳴海はどこか悲痛なものが含まれている気がした。
「瑞希のせいじゃない」
その一言に、瑞希は視線をそらして唇を噛んだ。
「…全部私が悪いのよ」
「言ったはずだ。瑞希のせいじゃない、と。何故そんなに自分を責めるんだ?」
瑞希は曖昧に首を振って俯いた。
少しの沈黙の後、瑞希は鳴海を見た。
その目に涙は浮かんでいないものの、ひどく悲しげだった。
「私、知っていたの」
「え?」
「伯父が、こうなるんじゃないか…って…」
ふわりと風が頬を撫で、瑞希の髪をわずかに揺らした。
少しして、瑞希は話し始めた。
早朝。
その手紙は、部屋の郵便受けの中から見つけた。
いつ入れられたものなのか、微かに湿気を含んだ茶色の封筒の中には、ビニール袋に包まれたCD‐Rとフロッピー、そしてカセットテープとレポート用紙とともに白い角封筒が入っていた。
茶封筒には、宛名も送り主の名もない。
しかし、瑞希は角封筒の文字を一目見て、送り主が誰なのかわかった。
見覚えのある達筆な文字は、記憶にある伯父…水野慎一郎のものだ。
茶封筒に同封されているものをひとつずつ確かめ、瑞希はそれらが重要なものに違いないと即座に気づいた。
角封筒を開き、中から手紙を取り出した。
瑞希は、ゆっくりと便箋に刻まれた文字を読み始めた。
瑞希へ
恐れていたことがついに現実になろうとしている。こんな時に頼めるのは、姪のお前しかいない。
正直、お前を巻き込みたくないという思いの方が強い。しかし、残された時間はあまりにも少なく…そして、私はせめて冴だけは守りたいと思っている。
この手紙をお前が読んでいる頃、私は姿を消していることだろう。しかし、それは私が望んだことでもある。
何よりあの男に実験データとサンプルを渡すわけにはいかなかった。
もう気づいているかもしれないが、同封されている物はその男に渡すわけにはいかない『例の物』の実験データ一式だ。
『例の物』については、お前は知らない方がいい。それと同じ理由で、私があの男と称している人物についてもここには書かない。 『例の物』について簡単にまとめたレポートと、私があの男と呼ぶ人物とのやりとりを録音したテープ、そしてフロッピーを同封しておいた。それを見てもらえば、『例の物』がいかに危険な物か、そして、あの男に渡すことがどれほど恐ろしい結果を招くことになるかがわかってもらえると思う。
CD‐Rのアクセスキーは、お前の安全のためにここには書かない。
とにかく、急いで藤村に連絡してほしい。
私が姿を消した事実を知れば、彼ならうまく取り計らってくれるだろう。彼のやり方はお前には不快かもしれないが、どうかわかってほしい。
藤村に連絡した後は、お前が一刻も早く鬼哭島を離れてくれることを願うばかりだ。それに、元新聞記者のお前が真実のすべてを公表してくれるなら、それは冴とお前の身を守ることになると思う。
勝手ばかりを言ってすまない。
お前には、本当に世話になった。
妻が死に、冴が変わってしまい…途方に暮れていた私を、お前は辛抱強く支え、励ましてくれた。本当に感謝している。
お前の過去に何があったかは聞かなかったが、東京で辛い思いをしたことは何となく気づいていたつもりだ。
お前の心の傷が早く癒えることを心から願っている。
そして、勝手な伯父を許してくれ。迷惑をかけてすまない。冴を頼む。
XXXX年五月八日 水野慎一郎
手紙の内容を聞き、鳴海はひどく胸が痛んだ。
簡潔にまとめられた文面から、水野博士の人柄が伺える。
瑞希を想い、娘を想い…そして決意を胸に姿を消した一人の男の最後の手紙。
その後、水野博士はパンドゥーラに寄生され…姿を変え、今は姪である瑞希の前に立ちはだかろうとしている。
「私が悪…」
「悪くない」
鳴海は即座に否定した。
「瑞希は悪くない」
「でも、私は島を出ようとしなかった。気に入らないと思いながら、伯父の言葉にではなく藤村の指示に従ってしまったのよ」
しかし、それが今回の一連のすべてを引き起こしたと言いきれるかどうか。
「過ぎたことは考えるな。今は目の前のことに集中した方がいい」
曖昧に頷いて、瑞希は顔を上げた。
微かに目が潤んでいるものの、泣いてはいなかった。
「あなたって、やっぱり親切ね」
言いながら、瑞希はぎこちなく微笑んだ。
「ちょっとだけ、コーヒー飲みに行ってもいいと思ったわ」
「それは何よりだ」
言いながら、鳴海はプールサイドの入口に目を向けた。
脳裏に、白いナツの顔が浮かんだ。
ナツは今頃、パンドゥーラと対面しているかもしれない。ナツはどうにかして鳴海達の作業が終わるまでパンドゥーラを足止めし、その後にここまで誘導するのだと言った。
その間、ナツが思いついた計画に必要なものを揃えるために、鳴海と瑞希が準備に走った。
作業をしながら、鳴海は苦い思いに唇を噛みしめた。
ナツを巻き込みたくはなかった。しかし、パンドゥーラを前に平然としていられるのは、彼だけのようにも思う。
そして、ナツが持つ異能…。
ナツが推測したように、パンドゥーラが相手が恐れるものを現実に見ていると錯覚するほど鮮明な幻覚で見せるのなら、ナツもその幻覚に惑わされてしまうかもしれない。そして、パンドゥーラの餌食にならないとも限らないのだ。
鳴海は、パンドゥーラに襲われ、ミイラと化した警備員の変わり果てた姿を思い出して思わず身震いした。
ナツには、あんな目に遭ってほしくない。
そう思いながらめぐらせた視線の先、プールサイドの入口に黒い飛沫の散った跡だけが残っている。
ナツはその入口を抜けてくるはずだ。
しかし、ナツはまだ現れない。
瑞希が辺りを見回した。隙間なく辺りを埋め尽くした色とりどりのタオルやシャツ、水着は、さながら巨大なパッチワークのようだ。
「これでいいのよね?」
手にしたペットボトルの海水を布に振りかけながら、瑞希は鳴海を振り返った。
鳴海は頷く。
「後は、ナツがパンドゥーラを連れてくるのを待つだけだ」
言いながら入口に目を向けた時、鳴海の目に白いシャツが映った。
こちらに背を向けたまま、ナツはゆっくりと後ろ向きに一歩ずつ慎重に進んでくる。
鳴海は配電盤に走った。
配電盤を開け、中を確認する。
プールサイドには、独立した配電盤が設置されていた。この配電盤で、プールサイドの照明やエアコンの電源がコントロールできる。
今は切られているスイッチを確認し、鳴海はナツに目を向けた。
ゆっくりと、ナツは塗れた布の上に差し掛かった。そこで、ナツはくるりと身を翻した。そのまま、こちらに向かって全速力で駆けてくる。
ガラス戸の空間に目を向けると、白い人影がのそりと現れるところだった。
鳴海は思わず、目を見開いていた。
月明かりに照らされた姿は、どう見ても普通の人間に見える。
そしてそれは鬼哭島に派遣される際に、藤村から手渡された写真に写っていた人物…水野慎一郎その人に違いなかった。
水野慎一郎。
妻を思い、娘を思い…そして瑞希を思い、決意を胸に姿を消した一人の男…。
しかし、その顔に目を凝らした瞬間、鳴海のそれらの考えは霧散した。
開いた目の部分が漆黒に塗り潰されている。それらは、どう見ても人間のそれではなかった。
黒い体にぼろぼろの白衣を引っ掛けた化け物の姿は、あの漆黒の球体の中で再び元の姿に再形成されたのか。
どちらにせよ、これはすでに水野博士ではない。
鳴海はそう言い聞かせた。
これはパンドゥーラだ。
水野博士に寄生し、今なおその骨を体内に収めたままのパンドゥーラ。
ナツは、敷きつめられた塗れた布の手前でパンドゥーラを振り返った。
パンドゥーラは、まっすぐナツに向かってくる。
鳴海は緊張した。
失敗は許されない。チャンスは一度だけなのだ。
瑞希が向こう側で、手にしたペットボトルの蓋を開けた。
一方、ナツとパンドゥーラの距離は次第につまってくる。
ナツが一歩後ずさりした。それに導かれるように、パンドゥーラはさらにナツに近づく。
ナツの靴底が、塗れた布を踏みしめた。一歩、また一歩と後ずさる。それを追うように、パンドゥーラはナツに向けて両腕を差し出した。
パンドゥーラの手が、ナツの腕を掴んだ。
「ナツ!」
瑞希が思わず叫ぶ。
しかし、ナツはそのまま後ろに退いた。
ナツはパンドゥーラの腕を引いたまま塗れた布を横切り、やがてその外れに立った。
このままじゃ、駄目だ!
鳴海は心の中で叫んだ。
今スイッチを入れたら、ナツまで…。
瑞希が、手にしたペットボトルをパンドゥーラに投げつけた。
鈍い音とともに、パンドゥーラの身体に当たったそれは、辺りに液体を撒き散らしながら足元に落ちた。
液体のほとんどはパンドゥーラの身体にかかったものの、パンドゥーラの手はナツを捕らえたままだ。
「博士」
不意に、ナツが口を開いた。
穏やかな眼差しと声は、目の前のパンドゥーラにまっすぐ向けられている。
「博士、僕が見えますか?」
ナツの言葉に答えるように、パンドゥーラの黒い目がぬらりと光った。
「見てください、僕の中を」
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