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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[19] 恐怖 1

 僕の中を見ろ、だと?
 彼は、目の前の少年の言葉が信じられなかった。
 彼は激しく動揺した。
 あと少しで獲物が手に入るというのに、こんな少年に邪魔されるとは。
 怒りに身を震わせながら、彼は一方で少年の言葉にその場から動けなくなった。
 『中を見る』とは、どういうことなのか。
 彼は考えた。依然として霧のかかったままのような心に、突然今まで食べてきたごちそうを捕らえた場面が蘇ってくる。
 奴らの一番恐れるもの。それを見せてやれば、簡単に捕まえることができた。けれど、どうやっていたのかまではわからない。何故なら、無意識にそうしていたからだ。
 だが、何となく気づいた。
『獲物を捕らえるために発達した、脳の共鳴現象に似た、その特異な能力…』
 彼にはそれが備わっているのだ。あの頭の中に響いていた言葉は、そのことを言っていたのだろう。
 ならば。
 この少年の一番恐ろしいものを見せてやろう。そして、そのこちらをじっと見つめている生意気そうな目を扶り出してやる。
 何故なら、それが化物にふさわしい行為だからだ。
 私はパンドゥーラなのだから。
 彼は意識を集中させた。そうすれば、獲物の怖がるものが見えてくるのだ。
 見えてきた。
 ほら、今にお前は恐怖にうち震えて動けなくなるぞ。そうしたら、お前をずたずたに引き裂いて、一番美味い内蔵から貪り食ってやる。そして、その脳に詰まったお前の心も…。
 やがて、彼の目に少年の心の中が、はっきりと見えてきた。
 しかし、それを目にした瞬間、彼の思考は恐怖で満たされた。
 闇だ!
 彼は叫んだ。
 耳から入り込んだ闇。耳から入りこんで、鼓膜を破り、脳をすすり、骨だけを残して全身を貪り尽くした、闇。
 闇、闇、闇だ。
 彼の目の前は、黒いカーテンを降ろしたように漆黒に染まった。
 何も見えない。聞こえない。叫んでも、ただ辺りには闇が広がっている。
 闇が入りこんでくる。身体の中に渦巻いている。
 助けてくれ!
 彼は絶叫した。


 突然、パンドゥーラがぶるぶると震えだした。その手がナツの腕から離れる。
 ナツはパンドゥーラの方を向いたまま、後ろ向きに塗れた布から一歩ずつ後退する。それに追いすがるように、パンドゥーラが前に進む。
 さらにパンドゥーラが、手をナツに伸ばそうとしたその時…。
 ナツは、さっと後ろに跳んだ。
 今だ!
 鳴海はスイッチを入れた。
 途端に、パンドゥーラが仁王立ちのまま硬直する。
 その身体を、青白い閃光が走った。
 パンドゥーラの口が開き、そこから凄まじい叫び声が漏れた。
 その声は人のようでもあり、獣のようでもあった。
 闇を切り裂いて、魔物の咆哮が大気を震わせる。
 しかし、それも一瞬だった。
 その場に身を屈めたナツに、パンドゥーラが腕を伸ばした。
 くそ!
 思わずスイッチを切って、鳴海は走りだした。
 辺りには、もうもうと白い煙が立ち込めている。
 その煙の中、ぐらりと揺れたパンドゥーラの身体を抱き止め、鳴海はそのまま地を蹴った。
「鳴海…!」
 瑞希の声が聞こえたのも束の間、鳴海はパンドゥーラの身体ごと頭からプールの水に突っ込んでいた。


 ひゅうひゅうと鳴っていた音が、次第に小さくなっていった。
 柴は、信じられない思いでじっと金田の顔を見つめていた。
 あれほど青冷めていた金田の顔色が、少しずつ色づきはじめている。
 規則的な呼吸、そして肌の色。
 輸血を開始して数分。
 金田は息を吹き返した。
 じっとその様子を反対側から眺めていた真部は、不意に我を取り戻したらしく聴診器を金田の胸に当てた。
 血を吸ってぐずぐずになったガーゼをわずかにずらした時、真部が目を見開いた。
「そんな、まさか…」
 呆然とした呟きに、柴も真部の視線の先をたどった。
「え?」
 呆然としつつも、柴はガーゼをめくってみた。
 ない。
 規則正しく上下する金田の胸には、血を吸ったガーゼが幾つも重ねられている。そのガーゼの下には、銃弾で受けたと思しき傷跡があったはずだった。
 しかし、ガーゼの下から覗く肌には、傷がなかった。
 いや、待てよ。
 柴は傷跡があった肌の上に目を凝らした。
 うっすらとした丸い跡が見える。黒っぽい穴からとめどなく血を溢れさせていた傷跡は、今ではピンクのつやつやとした生まれたての肌に変わっていた。
 つまり、あったはずの傷が消えたのではなく、たった今塞がったのだ。
 馬鹿な。
「傷が…治ってる」
 真部が、言いながらガーゼを一枚ずつ取り除いていく。
 柴は、そこで少女に目を向けた。
 少女は、じっと金田を見つめている。その眼差しは、先刻の真剣なものからどこか悲しげなものに変わっていた。
 一方の若い男は、涙目のまま柴を見て口を開いた。
「…助かったんですか?」
「呼吸も脈拍もしっかりしてます」
 どう答えるべきか柴が迷っていると、真部が代わりに答えて続けた。
「もう大丈夫ですよ」
 真部の言葉に、男はほっと息を吐いた。そして、金田の視線を戻す。
 柴はもう一度少女に目を向けた。
 やはり、少女は悲しげな顔で金田の顔を見つめていた。
 重症だったはずだ。
 その傷跡が輸血だけで消えるわけがないのは、いくら医学的な知識のない柴にもわかりすぎるほどわかっていた。
 ならば、何故。
 柴にとってひとつだけはっきりしているのは、それが先刻少女が輸血したことによる結果だということだけだ。
 何者なんだ?
 その問いかけだけが口に出せないまま、柴の頭の中で繰り返し響いていた。


 ちりちりと神経質な音とともに、切れ切れの会話が届いてくる。
 男は、ノイズに耳を済ませていた。
「…現在…にて、不審車輌の追跡失敗…」
 男は一人、唇を歪めた。
 年の頃は四十代後半。精悍な顔立ちと、引き結ばれた口元が意志の強さを表しているように見える。
 がっしりとした身体を白いシャツとグレーのスラックスに包み、じっとコンソールの前に座っている。ディスプレイにひたと向けられた眼差しは鋭く、どこか剣呑な雰囲気を漂わせていた。
 不意に、辺りに携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
 男は舌打ちして携帯を取り出すと、それまで聞いていた無線の音量を絞った。
「はい、倉橋(くらはし)です」
 低い声で答える。愛想がいいとは言えないその声に、相手は気の抜けるような明るい声を出した。
「いやあ、倉橋さん。お久しぶりですなぁ」
 声の主の顔を思い出し、男の眼に鋭さが増した。
「何か?」
 相手の挨拶には応えず、男は低く訊き返す。
「何かあるからお宅に電話してるんだよ。倉橋さん」
 さっさと用件を言え。
 倉橋は心の中で吐き捨てる。
「今夜…おっと、もう日付が変わったねぇ。昨夜だけど、港湾内で不審なことはなかったかな?」
 言われて、倉橋は腕時計を確認する。
 日に焼けた腕にはまった時計の針は、午前三時をいくらか過ぎていた。
「不審な動きなら、『例の船』が出たことぐらいだろう」
「おっとっと」
 相手は大げさに声を上げる。
「倉橋さん、頼むよ。『例の船』のことは言わない約束でしょう」
 相手は、間近でこそこそ話すかのように声をひそめている。その神経質な反応に、倉橋は苦虫を噛んだような渋面を作った。
「妹背さん。この際だから言っておきますが、俺はまわりくどいのは大嫌いなんですよ。何が言いたいのかはっきり言ってください」
 やれやれ、と相手…妹背が呟くのが聞こえる。
「わかりましたよ。我々の役目は忘れちゃいないでしょうなぁ」
「忘れていませんよ」
 倉橋は即答で返す。そして、続けた。
「我々の役目は、何も見ず・聞かず・言わないこと」
「そうそう」
 妹背は嬉しそうな声で言った。
「そのためにご褒美をいただいているのだからね。お宅も自分のお役目をくれぐれも忘れないように」
 ふん。勘だけは刑事ということか。
 倉橋は唇を歪める。
「話はそれだけですか、親衛隊長」
「親衛隊長?」
 倉橋は笑みを浮かべた。
「クラインのお偉方をお守りする親衛隊長、という意味ですよ」
 痛烈な皮肉のつもりだったのだが、相手は何が嬉しいのか笑い声を立てた。
「じゃあ、何かあったら知らせてね」
 馴れ馴れしい妹背の声は、耳から携帯を遠ざけたために途中で聞こえなくなった。
 倉橋は通話を切り、ついでに電源を切ろうとして思い直した。
 脳裏に、二人の部下の顔が浮かぶ。
 由井圭介(ゆいけいすけ)、そして真部克彦(まなべかつひこ)。
 実直、頑固者でいて融通の利かない由井と、真面目な上にしっかり者でいて由井に比べて融通の利く真部。二人は、ともに倉橋の部下だった。
 仮眠室で休んでいた倉橋に交代を頼んで姿を消した二人は、『例の船』エバンジェリンの出航とその不審さに何かを感じ取っていたようだった。しかし、倉橋は何も言わずに二人を送り出した。
 おそらく妹背は、二人の行動とその後の無線が言うところの不審車輌の追跡を関連付け、裏で何らかの動きがあるに違いないと倉橋に探りを入れてきたのだ。
 しかし、倉橋自身も由井と真部の意図はわからない。
 ただはっきりしているのは、一部の上層幹部を抱きこんだところで秘密を守り通せるほど世の道理は甘くはないということだ。その証拠に、鉄壁だったはずの防護壁にほころびが生じている。
 妹背は忘れている。
 人間は思考する生き物だ。どんな人間にも意思があり、それに基づいて行動する。
 組織の上層だけを支配すれば、その下層をも支配できるとは限らない。人間自体が考えて行動する以上は、個々が予想外の行動を取ることも、またある意味道理なのだ。
 そして、今頃由井と真部は自身で思考し、その上で行動している。そこに上司である倉橋の影響力はない。
 そこで倉橋は思い出す。
 他の組織の上級幹部とともに金を受け取り、今回の件に関わった。それでいて、本来なら止めるべき部下の行動を、あえて無視した。
 倉橋に、元々金を受け取る意思はなかった。だが、相手が相手だけに、受け取らなければどんな末路が待っているか知れない。
 逆らえば消される。
 そんな暗い噂も絶えなかったからだ。
 生まれたばかりの娘と、病気がちな妻のことも考えなかったと言えば嘘になる。命と自身の意地を天秤にかけるまでもなく、結局倉橋は金を受け取る道を選んだ。
 だが。
 悪あがき、か。
 巨大な組織と、そこから受ける恩恵。その恩恵を受けてここにある自分。だが、一方で龍に群がる無名の虫のように、その鱗を噛み破ろうとあがいている。
 クラインという名の、巨大な龍に。
 脳裏に浮かんだ由井と真部に、倉橋は檄を飛ばす。
 絶対にミスるんじゃないぞ。
 そう呟いて、倉橋は一人苦笑した。
 悪事はいつか露見する。それを暴くのが自分の部下なら、これ以上のことはない。例え倉橋自身に害が及ぶとしても。
 倉橋はそんなことを思いながら、再びノイズの音量を上げていった。


 微かな血臭が漂っていた。
 ユージン・Kはその後をたどった。
 いついかなる時にも、ユージン・Kの鼻は敏感に血臭に反応する。
 第四階層、後部キャビン。その廊下を歩きながら、辺りに視線を走らせる。
 そして、目指すものはその先にあるはずだった。
 ふと、久弥のことが気にかかった。
 パンドゥーラ誘導の後、久弥との交信が途絶えたままになっている。しかし、久弥の身に何か重大な危険が及んだわけではなさそうだった。
 ユージン・Kの手の中の携帯電話の画面には、今は白い光点が移動しているのが見える。白い光点は久弥を示している。そして、それが移動している限り、久弥は生きているはずだった。
 久弥の服には特殊な発信機が仕込まれている。それは生きている人間が発する微弱な電流を感知し、それを電子パルスに変換してこの画面に白い光点として映し出させている。つまり、久弥が死ねば久弥の身体からの微電流を感知しなくなった発信機はその機能を停止し、画面には光点が映らなくなるのだ。
 移動しているということは、久弥は生きている。しかし、それがそのまま無事と同義ではないことをユージン・Kは知っている。
 恐慌に陥ったジェフ・パルファクスの疾走が脳裏をよぎり、ユージン・Kは苦い思いに唇を噛んだ。
 これ以上、大切な部下を一人として失ってたまるか。
 そして、その部下をはじめユージン・Kにとって最大の脅威として依然この船内にあるもの…。
 水野慎一郎…いや、今はパンドゥーラ。
 それを思い出した時、何故かあの黒い姿ではなく、よく知る男の面影が脳裏をよぎった。


「私と一緒にグリーンランドに行かないか」
 声に振り返った男は、一瞬眉をひそめたもののすぐにふっと全身の緊張を解いた。
 人の良さそうなたれ気味の目。体格は大柄で白衣を着ていなければ、およそ研究員には見えそうにない。むしろ男の風貌は、何かしらのスポーツのコーチと言った風情だ。
 とはいえ、白衣の袖口から出た両手をしきりに擦り合わせながら考え込んでいる男は、その神経質そうな仕草からやはりスポーツのコーチには不向きかもしれない。
 そんなことを考えながら、ユージン・Kは男の様子を見つめたまま答えを待った。
 場所は、男が講座の担当を勤める大学の研究室だ。
 窓の外には傾きかけた夕陽と彼方の景色が、午後から降り始めた雪のためにぼんやりと霞んでいる。
 ユージン・Kの前には質素な作りのテーブルと、客など珍しいことを叙実に物語るこれもシンプルなコーヒーカップがひとつ。それを片手でもてあそびながら、ユージン・Kは再び男に目を向けた。
「渡航にかかる費用はすべてこちらで負担する。君には獣医学の知識を借りたい。グリーンランドでの探し物に付き合ってもらいたいのだよ、水野」
 男…水野は再びユージン・Kを見た。
「探し物?」
「そう、長年あるものを探している。どうやら、今回それがありそうなのがグリーンランドらしいとわかった」
 水野は頷いたものの、その表情はまだ内面の疑問を表していた。
「何故、私を?君なら、獣医学者など周りに大勢いるだろう」
 そこでユージン・Kは笑みを浮かべた。
「友人として、君を誘っている」
 言われて、水野の表情が明るくなった。
 元々感情表現が豊かな方ではないらしく、以前からそれほとわかりやすい喜怒哀楽の表情は見せない。
 水野は常に何かに遠慮し、その表情にも態度にも卑屈さが見え隠れしていた。それらは単に、人が良いとか控え目などという表現を超えていた。教授職にあるにも関わらず、人間的な自信や魅力というものが水野にはまったく見えなかったのだ。
 本来なら、そうした人物をユージン・Kは友人とは呼ふどころか、あっさりと切り捨てていただろう。
 しかし。
 水野には、ある一点でユージン・Kの興味を惹くものが備わっていた。
 初めてユージン・Kが水野と出会ったのは、興味本位で出席した獣医学会のシンポジウムの席だった。
 各国の研究者が見つけ出したいと願う特殊な働きを持つ酵素を発見、その実用化に向けて企業が何社も名乗りを挙げていた。
 その場で交わされる熱論とビジネスカードに、ひたすら恐縮して冷や汗をかいていたのが水野だった。
 気まぐれだったとしか言えない。
 英語でのしどろもどろの水野の返答に、助け舟を出したのがユージン・Kだった。
 話をするうちに、恐ろしいほどの確立で『発見』を引き当てた男だと知った。
 興味はそれのみに尽きた。
 そして、今回のグリーンランド行きも、その『発見』を引き当てる水野の運に賭けたというのが本音だった。
 別に急ぐ探し物ではなかったが、それでも早く見つかればそれに越したことはない。
「うん…そうだな。グリーンランドの生物にも興味があるし」
 水野の表情が幾分和らいでいた。
「なら、決まりだ。君の方でも、何人か連れて行きたい講座の学生がいれば誘ってみるといい。私も方も何人か連れて行くつもりだ」
「わかった。ところで、いつ行くんだい?」
 今度は、はっきりと水野は同意した。
 ユージン・Kは低い声で言いきった。
「行く人員が決まり次第、すぐにでも」


 どこまでも白い大地が続いている。
 遠く白い丘、その上に広がる蒼穹。
 空気は果てしなく澄みきり、吸い込めば肺を凍りつかせるほどの冷たさと痛みをともなう。
 極北の空と雪の大地。
 人間の侵入を頑なに拒むような厳しい自然。
 それらを眺めるユージン・Kの脳裏に、ふと雪山を登る豹の姿がよぎった。
 ヘミングウェイ、『キリマンジャロの雪』の冒頭で語られる豹は、山頂付近に静かに干からびた死体をさらしていたという。しかし、どうして豹が雪山をそこまで登ったのか、誰も説明できた者はいない。
 ある者は、豹は雪山の向こうを見たかったのだと言った。
 そしてユージン・Kは、死に場所を探して雪山に登ったのだと思っている。
 ある学者は言う。
 生命体の進化に不可欠なのは、自身が生息する生息域以外の場所への興味と憧憬なのだと。行ってみたい、その向こうを見たいという意思こそが、生命体のそれまでの形態に変化を持たせ、新たな進化を生み出していくのだと。
 だが。
 温暖な生息域にあって、豹が雪山の果てを見ようなどと思うだろうか?
 動物はいつでも、その一瞬一瞬を生きている。餌を捕らえ、貪り食い、命をつなぐ。生殖し、子孫を残し、遺伝子を伝える。
 生命の理屈は単純ではないが、その流れを簡略化するなら、生命維持のために飢えを満たし、同種間での生殖を行い、次世代の子孫を生み出すことに尽きる。
 それ以外の意思を持つのは人間だけだ。
 豹が日々の生活の中で、『あの山の向こうが見たい』と考えたとは、どうしてもユージン・Kには思えなかった。
 豹は、自らの死期が近いことに気づいた。気づいたものの、その場では死ねない。そこには他の肉食獣もいる。死期が近いことを悟った豹自身と同じく、死期に気づかれれば他の肉食獣は豹の死を待ってその側を離れなくなるだろう。
 移動を続ければ、気配と匂いを悟られにくい。豹は歩き続けた。
 やがて、山にたどり着いた。
 しかし、そこにも肉食獣が来ないとも限らない。
 さらに豹は山を登る。
 そして、いつしか雪に覆われた山頂付近へとたどり着いた。それでも、すぐには豹は死ななかった。歩き続けた豹は山頂に至って、やっと何者にも邪魔されることのない永遠の安息を手に入れることができた…。
 無論、それらは想像だ。
 他の説と同じく、豹がそこまで山を登るに至った真実は不明のままだ。
 しかし、ユージン・Kは自説を信じることにした。
 死に場所を探して、豹はついには雪嶺へと足を踏み入れたのだ、と。
 こうして雪の大地の景色を眺めていると、益々その思いが強くなった。
 ここで果てるのも悪くない。
 本音だった。
 いつこの命を落とそうとも、惜しくはなかったからだ。
 とはいえ、はぐれた水野を無事に見つけ出すまでは、まだ生きていなくてはならないだろうと考えていた。
 ここまで連れてきてしまった以上は、無事に水野を日本に送り届ける義務がユージン・Kにはある。
 そこでユージン・Kは苦笑する。
 つまらないものに縛られて、人間は自由に道を選べない。
 しがらみ、義理、人情、責任…他人とのあらゆる関わり。
 それらを捨てられない限りは、死に焦がれようとおいそれとこの命は捨てられまい。
「ユージン」
 背後からの呼びかけに、ユージン・Kは振り返った。
 凍りついた眉毛の下から、青い眼がこちらに向けられている。赤くなったどっしりした鼻と頬が、どこかユージン・Kのよく知る友人に似ていた。
 同行した人類学者だった。
 氷の下にミイラがあるなら、それをぜひ見てみたいと今回の旅に同行を申し出た男だ。フードの襟を合わせながら、男は寒そうにユージン・Kの側まで歩いてきた。
「そろそろテントを張ろうと思うんだ。ガイドの話では、今日はもう捜索は無理だろうという話なので…」
 男が言いかけ時、ユージン・Kは男の顔を見ていなかった。その後方、忙しく動き回る犬達の向こうに、山のような荷物を積んだソリが置かれている。その手前にはガイドとユージン・Kに同行した数人の男達がテントを張る準備をしていた。そのさらに向こう、小高くなった雪の丘の上に、黒いものがぽつんと浮かび上がっていた。
「あれを見ろ」
 分厚い防寒着に包まれた腕を持ち上げ、ユージン・Kは男の背後に見えたそれを指差した。
 男が怪訝な顔で振り返る。
「おお、あれは…!」
 男が声を上げ、手を振り回しながら走りだした。
「おーい、彼らだ!」
 声に、作業の手を止めて男達もそちらに顔を向ける。
 明るい歓声に似た声が幾つも上がり、数人が迫り来る犬ゾリに向かって走り出した。
 その光景を、ユージン・Kはぼんやりと眺めていた。
 ふと、再び脳裏に豹が浮かんだ。
 水野は無事なようだ。ならば…。
 彼らに背を向けて歩き始めたところで、その背に声が投げかけられた。
「おーい、ユージン!すごいものがソリに載ってるぞ!」
 先刻の人類学者の声だった。
 まったく。
 苦笑しつつ振り返ると、なるほど水野達のソリの上に見慣れない飴色の塊が載っているのが見えた。
「やったぞ!人間のミイラだ!」
 およそ常人に理解できない琴線に触れたそれに対して、人類学者は素っ頓狂な声を上げた。
 ユージン・Kは渋々ソリに近づいた。
 興奮して無事を喜び合う学生とユージンの同行者の中に、水野の顔を見つけた。
「無事か」
「ああ」
 その声に頷いて、ユージンはソリに載っている物に目を向けた。
 膝を折りたたみ、眠るように目を閉じたミイラだ。飴色に変色した干からびた皮膚と、唇の間から覗く歯が何本か欠けているのがやけにリアルだった。
「君はどうしてこんなものを?」
 ユージン・Kが訊くと、水野は笑みを見せた。
「大昔に遭難した人だと思うんだ。このまま冷たい雪の下に埋もれたままでは可哀想だと思って…掘り返した」
 ユージン・Kは、内心呆れとその甘い感傷めいた答えに苦笑する。
 いざとなれば、実験でマウスや他の動物すら解剖しなければならない獣医学に身を置く者の言葉にしては、あまりにもセンチメンタリズムに満ちているように思えてならない。
 一方で、この男なら雪嶺で命を落とした豹にも同情するのだろうかと思う。そして、それに焦がれて命を落とした男に対しても。
「すごいぞ、ユージン!」
 例の人類学者が、興奮した様子で振り返った。
 男は気軽にユージンと呼ぶものの、かつて大学が一緒だったという以外は二人の間に特に友人としての付き合いはない。
 一風変わったこの男は、何回か顔を合わせた人間は友人のカテゴリーに納めてしまうらしく、ユージン・Kもご多分に漏れず友人扱いされて今に至っている。もっとも、ユージン・Kは男に対して友情めいたものはおろか、特にこれといった興味も持っていなかったのが本当のところだ。連れてきたのは、文字通りミイラを見つけた際には役に立つだろうという、それだけの理由だったからだ。
 そして困ったことに、ユージン・Kは男の名前をどうしても思い出せなかった。
「何だ」
 ユージン・Kの言葉に、人類学者はミイラの膝の辺りを指差した。
 いつの間にか、ミイラの周りに他の同行者や水野の教え子も集まり、ちょっとした人垣ができている。
「このミイラは軽く見積もって千年は経過しているぞ。それに、何か腹の下に抱え込んでいるらしい」
 その方面に知識のないユージン・Kには、それのどこがすごいのかがまるでわからない。浮かない顔で見つめていると、人類学者は勢いよく話し始めた。
「いいかい、この辺りはガイドの話にもあったように氷河自体が移動しているんだ。年代別に露出する部分を考えても、ミイラは比較的数年に一度の割合で発見される。けれど、多くの場合それらのミイラは近世に入ってから、最も古いものでも数十年以内に行方不明になった遭難者のものがほとんどなんだ」
「ふむ。つまり、めったにない大発見なわけだ」
 ユージンが軽く返すと、男は大げさに頷いた。
「そう、そうなんだよ。これはすごいぞ!ぜひ本国に持ち帰って詳しく調査したい」
「君の気持ちはわかるが、このミイラを発見したのは水野だ。決めるのは、彼の意見も聞いてからだろう」
 言って、ユージン・Kは水野を振り返った。
 一斉にその場の視線を集めることになった水野は、相変わらずの自信のなさそうな顔に戸惑いの表情を浮かべて立っていた。
「私の連れはああ言っているが、君はどう思う。君の方でこの可哀想な遭難者を埋葬したいというなら、私はそれを尊重したい」
 その言葉に、何かを言おうとユージン・Kの横で人類学者が鼻息も荒く息を吸い込んだ。気配でそれを察して、ユージン・Kが手をかざして意見を封じる。
 今この場で人類学者にまくし立てられては、気弱な水野は押しきられてしまう。特に理由はないものの、ユージン・Kは水野の意見を聞いてみたい気分だった。
「このミイラは、そんなにすごい発見なんですか」
 おずおずとした尋ね方で、水野は人類学者に訊く。
「そうとも、すごい発見だよ。これを調査しないままで埋葬してしまうのは、人類学的に見てとても貴重な機会を逃したことになってしまう。私は充分な調査をした後で、丁重に埋葬するべきだと思う」
 人類学者の『丁重に』という言葉に、水野は頷いた。
「そうか…そんなに大変な発見なら、私は調査した後で丁重に葬ってもらうのがいいと思うよ」
 我が意を得たりとばかりに、人類学者は嬉しそうに頷いた。それを冷めた目で眺めつつ、ユージン・Kは息を吐いた。
 途端に、瞬間氷結した息が白く煙る。
「話がまとまったところで早くテントを張ろうか。このままでは、我々もミイラになるぞ」
 ユージン・Kの一言に、その場の全員が頷いた。


 不意に蘇ったそれらの記憶に、ユージン・Kは苦笑した。
 結局、あの極北の空の下で眠ることはかなわなかった。それが結果的に、今の自分を支えてもいる。
 水野が雪の大地で掘り返したミイラこそが、ユージン・Kが長年にわたって捜し求めていたパンドゥーラを持っていたのだから。
 パンドゥーラ、か。
 ユージン・Kは呟く。
 水野がそう名づけた時、ユージン・Kは何の違和感もないと感じた。災いを封じた箱という点では、ミイラが持っていた箱も神話で語られる箱もパンドラの名にふさわしいものに思えたからだ。
 スペルを訊くと、『PANDORA』と答えた。何故、パンドラと発音しないのかと訊くと、「君の発音だと、そう聞こえるんだ」と水野は言った。
 水野によると、英語圏の自分の発音では『パンドラ』ではなく、『パンドゥーラ』と聞こえるらしい。そして、それがそのままあの黒き魔物の名となったのだった。
 そんなことを思い出しながら、ユージン・Kは辺りに視線をめぐらせた。
 廊下には、人の気配が感じられない。
 つい先刻までここに配していた作業員は、イヤホンでの会話から察するに一斉に移動したのだということはわかっていた。
 そして、久弥を示す白い光点も依然として動き続けている。
 久弥を追うか、あるいは…。
 軽い音とともにユージン・Kは携帯電話を閉じた。その視線の先には、第三階層へと通じるドアがあった。
 ドアノブには、べったりと粘着質の輝きを放つ粘液が付着している。
 その粘液は、おそらくパンドゥーラがつけたものだう。先刻から感じていた血の匂いは、その粘液から漂ってきていた。
 ユージン・Kの口元に、不敵な笑みが浮いた。
 勢いよくドアを押し開けた瞬間、さらに濃密な血臭が鼻についた。


 水の中にパンドゥーラともども落ちた瞬間、鳴海は歯を食いしばった。
 氷のように冷たい水が、容赦なく全身を包み込む。
 腕の中の存在を意識するまいとしながら、力だけは込めていた。
 このまま、水に沈んでいればいい。
 そう考えた。
 そして、この状態のまま瑞希かナツが第二スイッチを入れてくれることを願った。
 ふと、泡に包まれていた視界がふわりと動く。
 その目に捉えたものに、鳴海は息を飲んだ。
 間近に、漆黒の洞窟が二つ。
 パンドゥーラ。
 すべての恐怖の元凶。
 かつて隕石とともに飛来し、南方はペンドレルの村を滅ぼした。そこから、シャーマンの手によって北限の地に運ばれた。それを氷の下から掘り返した水野博士の手により、兵器になろうとしていたもの。今は博士に寄生し、その骨を体内に納めたまま…外見上だけは人間の姿をした、漆黒の魔物…。
 不意に、鳴海の目の前が闇に包まれた。
 そして…。

 パタパタと足音が聞こえる。
 ふと、そちらに顔を振り向けた時、鳴海は看護婦が行き過ぎるのを目にした。
 病院?
 鳴海は眉を寄せる。
 スリッパ越しのリノリウムの床の感触。身にまとったスーツもそのままに、鳴海自身にこれといって変わったところはない。
 それでいて、どこか違和感がある。
 何か大切なことを考えていた気がする。しかし、それがどうしても思い出せない。
 自分はいつから、こうしていたのか…?
 鳴海はその違和感を感じたまま、先刻の看護婦の後を追った。
 看護婦はすぐに目当ての部屋を見つけたらしい。迷いのない足取りで部屋に入っていった。
 その病室には見覚えがあった。
 ドクン、と心臓がはね上がる。
 鳴海は走りだした。
 部屋に入ると、ベッドに駆け寄る。
 ベッドには、白い布を顔にかけられた人物が横たわっていた。その布からわずかに見覚えのあるおさげが覗く。
「…遥…」
 鳴海は、呆然とそれを見つめていた。
 ベッドの脇には、やはり鳴海が良く知る遥の担当医がいる。彼は重々しく腕時計を確認すると、事務的な口調で言った。
「午前二時四十分。ご臨終です」
「嘘だ」
 鳴海は、誰にともなく言っていた。
 こんなことがあってたまるか。
 鳴海は歯を食いしばった。
 途端に、先刻まで抱いていた奇妙な違和感の正体に気づいた。
 奇妙な違和感、それは…。
 これは現実ではない。
 鳴海は、はっきりとそう感じた。
 そして。
 これは『お前』が見せている偽の映像だ。
 そう心の中で言い放った。
 相手の心の中から、最も恐ろしいと思う映像を選び出し、それを見せつけることでその行動の自由を奪うパンドゥーラの異能。
 現実と見まごうリアルな映像。現実に起こったとしか思えないような、その恐怖。
 恐怖こそが貴様の使い魔だ…!
 鳴海は心の中で吠えた。
 その瞬間、視界が開けた。

 気がつくと、見覚えがある廊下に立っていた。
 またしても水野慎一郎の家だ。
 しかし、明るい日差しに満ちた廊下の床には、鳴海が知る泥の足跡はひとつもない。
 少し先のリビングからは、楽しげな笑い声が響いてくる。
 鳴海はそっとリビングに続くドアを押し開けた。
「…でね。金田クンが今度ジンギスカンを食べに行こうって言ってたのよ。冴もぜひ一緒にって」
 声には聞き覚えがあった。
 見ると、瑞希が笑みを浮かべてテーブルの前に立っている。しかし、鳴海が知る瑞希よりも少しだけ幼く見えた。
 たった今買い物から帰ってきたばかりらしく、瑞希は手にした買物袋の中を探っては、中身をテーブルの上に広げている。
 瑞希の視線の先には、テーブルの前に座った少女の背中が見えた。
「瑞希姉さん、それで何て答えたの?」
「もちろん行くって言っておいたわよ。冴だってそう答えたでしょう?」
 少女の背中が揺れた。声を立てて、頷きながら楽しそうに笑っている。
「でも、残念だなぁ。明日には瑞希姉さん、東京に帰っちゃうんでしょ。もう少しゆっくりしていけばいいのに」
 一転して、少女…冴の声が沈んだ。
「仕方ないのよ。飛び込みで仕事が入っちゃってるし。特ダネだから、何としてもモノにしたいしね」
 瑞希は笑みを浮かべた。
 鳴海が良く知る瑞希の笑顔だ。しかし、鳴海は見ているうちに気がついた。
 これは過去の映像だ。
 今、目の前にいるのは鳴海と知り合う以前の瑞希だ。そして、冴も。
「今度はいつ北海道に来れるの?」
「わからないわ。仕事がひと段落したら、また来ようと思っているけど…姉さんにもそう言ってあるし」
「本当?」
 冴が身を乗りだしている。
 鳴海の位置からはその表情は見えないが、目を輝かせていそうな声だった。
「じゃあ、その時は絶対一緒にジンギスカンね!約束よ」
「ええ」
 こぼれるような瑞希の笑顔。
 鳴海が見とれていると、不意に辺りが暗くなった。
 照明を落とされたように、辺りが闇に沈む。
 それも一瞬で、すぐに視界が開けた。

 鳴海は、再び廊下に立っていた。
 しかし、今度は淡い闇が廊下を包んでいる。窓から差し込むほんのわずかな街路灯の光が、頼りなげに廊下を照らしていた。
 鳴海は辺りを見回した。
 人の気配はない。
 しんと静まり返った廊下は、初めて水野宅を訪れた時に鳴海が感じた得体の知れない不安感を思い出させた。
 廊下は暗く、そして寒い。
 身体の芯が冷えるほどの寒さは、鳴海がこれまで経験したものとは別格だった。
 冬なのか?
 鳴海はぼんやりと思う。
 これはパンドゥーラが見せる映像だ。それには気づいている。しかし、これが何の意味を持つのか、鳴海は考えないようにしていた。
 それまでの話から、パンドゥーラによって恐怖映像を見せられた者は、例外なく心身ともに変調をきたしていた。自分もそうなるのかもしれない。だとすれば、自分が認識する映像はこれが最後にならないとも限らないのだ。
 不意に、鳴海は歩き始めた。
 何故歩きだしたのかはわからない。身体が勝手に動き、鳴海の意識を別の場所に運んで行こうとしている。
「冴?」
 自分の口がそう呟くのを、鳴海はまるで他人事のように意識していた。
 足が、一歩また一歩と歩を進めていく。やがて、階段を見上げる形で鳴海は立ち止まった。
「冴、そこにいるのか?」
 再び、口が勝手に動いた。
 そこで鳴海は気づいた。
 これはパンドゥーラに寄生された水野博士の記憶だ。
 今この瞬間に、上へと続く階段を見上げているのは水野博士だ。鳴海は、その水野博士の記憶を彼の視点で見ているのだ。
 やがて、鳴海の足がゆっくりと踏みだされた。
 耳が痛いほどの静寂と、肌を包み込む刺すような寒さ。しかし、それすら階上に広がる不気味な静寂と濃密な気配に比べれば、それほど気にならない。
 階段の上…その向こうに、その気配はある。
 手を伸ばせば触れられそうなほどの、濃密な圧迫感を感じさせる気配。
 鳴海には、それが博士の口が呼ぶ娘…冴のものとはどうしても思えない。
 異様な気配だった。それが、ひしひしと全身を包み込む寒さとともに感じられた。
 一歩、また一歩と足を踏みだすほどに、その気配は強くなってくる。
 上りたくない、と思う。
 しかし、今この瞬間にこの場面を体験している博士は足を止めようとしない。鳴海はただ、博士の五感をそのままに過去の彼の体験を追体験する以外ないのだ。
 やがて、階段の最上段が見えてきた。
 そこに。
 漆黒の闇を覗かせて、ドアが開いていた。
 まるで、巨大な魔物が口を開けて待っているようだった。


 ここは、どこだろう?
 ぼんやりと見つめる先に、コートに包まれた広い背中が見えた。
 その姿に、久弥はほっとする。
 何かとてつもない悪夢を見ていた気がする。
 しかし、それすらどうでもいいことに感じられた。
 目の前の男さえ生きているなら…そしてその傍らでその姿を、行く末を眺めていられるなら、それ以上に望むものなどない。
 コートの背中が、再び部屋の前で立ち止まった。
「ここか?」
 言いながらドアを開ける。
 その後に続いて部屋に入ると、男が振り返った。
「おい、ユージンの部屋はどこだ?」
 久弥は微かに眉をひそめる。
 ユージンはあなたでしょうに。
 それなのに、変な質問だ。
 それとも、これもいつもの退屈しのぎなのかもしれない。
 何より、彼は退屈で無為な時間を嫌う。
 久弥は辺りを見回し、この部屋こそがユージン・Kの部屋だと答えた。
 他の部屋に比べ、この部屋は格別に広い。
 入ってすぐの執務室と、壁には重厚な造りのキャビネットと名のある絵画。そして、サイドボードに並んだ壷や花器は、部屋のレイアウトを任された久弥が用意したものばかりだ。
 部屋の奥には扉があり、その向こうには豪華なしつらえのベッドルームがある。
「いねぇな、沢村」
 ぼやきに似た低い呟きが聞こえた。
 ふと、久弥の耳に微かな音声が聞こえていた。肩からたれ下がったままのコードの先端のイヤホンから、ノイズとともに聞き覚えのある声が届いた。
 低く囁くような声。
 そして…それはイヤホンから聞こえてくるもので、目の前の男から聞こえたものではなかった。
 それに気づいた瞬間。
 不意に、久弥の視界が開けた。
 目の前を包んでいた霧が晴れ、急に辺りの景色が鮮明になったように感じられた。
 気がつくと、久弥は男の背中を目を細めて見つめていた。
「あなたは、誰です」
 その一言に、男が振り返った。
 眠そうな男の目が一瞬細められ、次の瞬間男は不敵な笑みを浮かべていた。
「ほう。やっと正気に戻ったんだな、久弥」
 久弥は一歩後退した。
「何故、私の名前を知っているんです」
「そう言われてもなぁ」
 と、男は困った顔で無精髭の顎を片手でさすっている。
 久弥は記憶をたどった。
 廊下でパンドゥーラに遭遇した。
 そして…。
 ユージン・Kが目の前で死んだ。
 そうして気がつくと、目の前には見知らぬ男、おそらくは例の日本人の中の一人が立っている。
 パンドゥーラはどうなったのか。そして、ユージンは…。
 記憶が混乱している。そうとしか考えられない。そして、それこそが部下に悲鳴を上げさせていたパンドゥーラの仕業なのだろうか?
 久弥が考えられたのはそこまでだった。
「おっと」
 さらに後退しようとした時、男は手にした銃を久弥に向けていた。
 そのサブマシンガンには見覚えがあった。
 船倉の木箱に納められた商品のひとつだ。
「悪いが、下手な真似はよしてくれよ。あんたをどうこうする気はねぇ。ただ、俺は沢村の居場所が知りたいだけだ。奴を見つけたら、急いでパンドゥーラをぶっ倒しに戻らなきゃならねぇ」
「沢村…」
 脳裏に、冷めた目をした男の顔がよぎった。
「残念ですが、私は何も知りませんよ」
 笑みを浮かべて答えると、男は大げさに鼻を鳴らした。
「あのな、誰が俺をここまで案内したと思ってる?あんただ。あんただよ。あんたなんだよ。この船内であんたが知らない場所なんてありゃしねぇ。嘘はよしてくれ」
 独特な語り口だ。
 出身はおそらく東京は下町辺りだろう。
 久弥はそう思いながら、自分がこの男を案内していたという事実に少なからず驚いていた。
 記憶が混乱している間、どうやら自分はこの男の言いなりになっていたらしい。
「沢村という名前は聞いたことがあります。あなたともども、船内に捕らえられた男の名ですね」
「そうだ」
 久弥はため息をついて見せた。
「けれど、彼の居場所は本当に知りません」
 途端に、男は眉間に縦皺を刻んだ。眠そうな雰囲気は跡形もなくなり、目には険しい光が宿っている。
「嘘はよせと言ったはずだぜ。さあ、案内してもらおう」
 銃口を突きつけ、久弥は背中からドアに押しつけられた。
「…知らないといっているでしょう」
 そう答えた時、ドアの外に人の気配を感じた。
 瞬間、久弥は思わず笑みを浮かべていた。
 男が不可解そうに眉をひそめた瞬間、久弥は身体を反転させた。片足をまっすぐ伸ばしたまま、くるりと身体を回転させる。伸ばした足が男が手にした銃をかすめ、重い金属の塊が音を立ててカーペットの上に落ちた。
 男が、銃を拾い上げようと慌てて手を伸ばす。
 久弥はそのまま床を蹴った。男の手が触れる寸前で銃をかすめ取り、しなやかに一回転して身を翻すと、ぴたりと男の胸元に銃口を押しつけた。
 男が目を見開いた。
「こりゃ驚いたな…」
 言いながら、男は気まずそうな笑みを浮かべた。
「もう済みましたよ」
 久弥はドアに声をかけた。
 男が驚いた顔でドアに目を向ける。
 久弥の声に応えるように、ドアは音もなくゆっくりと開いた。
「ユージン・K…」
 男が呆然と呟く声を聞きながら、久弥は笑みを浮かべた。
 こちらを見つめた『王』は、相変わらずの笑みを浮かべてそこに悠然と立っていた。

 

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