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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[2] ピーピング・トム 1

 そこは、表通りから一本脇に入った裏通りだった。
 古い木造の店が軒を連ねている。
 錆びたシャッターが降りたままのパチンコ店。窓もガラス戸も閉めきり、看板すらない無人らしい家。看板はあるものの、閉店して何年も建つらしい喫茶店。ほんの五、六軒が建ち並ぶ通りは、その先で別の通りに区切られている。
 その五、六軒の建物のほぼ真ん中に埋もれるようにして、小さな薬屋があった。
 木造二階建ての正面、古い木の看板がガラス戸の上に掲げてある。看板の筆で書かれたような黒い文字は、長年風雨にさらされたらしく所々かすれていた。
 黎明堂(れいめいどう)。
 それが店の名前だった。その下に、薬店とある。
 鳴海が案内されたのは、この時間に忘れられたような通りの薬屋だった。
「ここよ」
 店の前で足を止めると、瑞希は鳴海を振り返った。
「こんな所に何の用なんだ?俺はてっきり…」
「てっきり、何?」
 言われて、鳴海は言葉につまる。
 てっきり警察に向かうと思った、とは言えない。それについては、藤村に念押しされているからだ。
 そんな鳴海にはおかまいなしに、瑞希はさっさとガラス戸を引き開けた。ガラガラと懐かしい音がする。
 仕方なく、瑞希の後に続いて鳴海は中に入った。途端に、消毒や薬の入り交じった独特の匂いが鼻孔に届いてきた。そして、微かなカビの匂い。
 店内は薄暗かった。
 正面奥にガラスケース、右の壁側には一目で年代物とわかる古めかしい薬箪笥が置かれている。左側には造り付けの木の棚。しかし、どこにも薬らしいものは並んでいない。
 入口脇に、懐かしい緑色のカエルの人形と、軟膏を手にした和服の女性が描かれたブリキの看板が挨にまみれて無造作に置かれている。それらが、何よりこの店が店として機能していない証拠のようだ。
 おそらくは、島がクラインによって開発された当時からここにあるのだろう。見た限りでは、それ以前よりここにひっそりと建っていたと言われても不思議ではない建物のように思える。
「ナツ、いないの?入るわよ」
 言いながら、瑞希は奥へ進んだ。
 ガラスケースの脇をすり抜けると、突き当たりの壁にある、古めかしいすりガラスの引戸を引き開ける。
 そこは、十畳ほどの和室だった。茶箪笥に、座卓。天井の蛍光灯すら木枠に和紙だ。どれもこれも、何十年も住人とともに過ごしてきたらしい年代物だ。店の中といい、質素な和室といい、骨董品のような部屋だった。
 瑞希はここに祖父、あるいは祖母でも訪ねてきたのだろうか?
 誰もいない部屋を見渡して、鳴海は密かにそう思った。
「入るわよ」
 言いながら靴を脱ぐと、瑞希は和室に上がった。何度も訪問している家なのか、その様子はやけに手慣れている。
 茶箪笥の脇に重ねられた座布団を二枚持つと、瑞希は鳴海を振り返った。
「あなたも入って」
 言われて、鳴海は靴を脱いだ。おずおずと上がり込むと、瑞希が座卓の前に敷いた座布団に座る。
「誰に会いにきたって?」
「さっき言ったじゃない」
 言いながら、瑞希は鳴海の横に座った。
「ピーピング・トムよ」
 さっきも同じ台詞を聞いたが、領民のために裸になった領主の妻を覗き見た、ピーピング・トム…いわゆる覗き男、もしくは出歯亀の意味を持つというその名前の主に、一体何の用があるのか。それとも水野博士の住宅に起こった出来事を、その人物が文字通り覗き見たとでもいうのだろうか。
 鳴海には、何のことやらさっぱりわからない。
 不意に、奥の襖が音もなくすうっと開いた。
「ナツ」
 と瑞希が呼びかける。
 鳴海は顔を上げた途端、目が離せなくなった。
 そこに立っていたのは少年だった。
 年齢は十七、八歳。さらりとした癖のない黒髪。繊細でなめらかな頬のライン。切れ長の涼しげな目元。形の良い唇はほんのりと赤い。人形を思わせる端正な顔立ち…いわゆる美少年だ。
 てっきり年寄りが出てくるものと踏んでいた鳴海は、しばし呆然と意外な美少年の登場を見つめていた。
 ふと、あることに気がついた。
 どこかで見たことがあるような気がする…。
「買物に出てたのね」
「ええ」
 少年は均整の取れた肢体を、開襟シャツとベージュのチノパンに包み、手には買物袋と菓子の折詰を下げていた。たった今、帰ってきたところらしい。
 手にした荷物を茶箪笥の脇に置くと、鳴海と瑞希が見ている前で、少年はてきぱきとお茶を入れ、二人に出した。座卓の中央には、茶受けの煎餅を皿に入れて置く。
 そうして落ち着くと、少年は自分のお茶を片手に二人の向かいに座った。
「ところで随分ご無沙汰してましたけど、お元気でしたか」
 丁寧な物言いと落ち着いた物腰は、とても少年とは思えない。
「ナツも元気そうね」
 お茶を飲み、ひと息つくと瑞希はそう返した。
 鳴海は、呆然と二人のやりとりを眺めていた。
 目の前のあまりに平凡な光景を見ていると、ついさっき恐ろしい銃撃に遭ったことなどまるで夢のように思えてくる。
「こちらは?」
 と、少年…ナツが訊く。目はまっすぐ鳴海を見つめていた。鳴海は慌てて頭を下げる。
「鳴海継人と言います。どうも、突然お邪魔して…」
「いえ、お気になさらずに。いつものことですから。僕は霧原夏緒(きりはらなつお)と申します」
 と、ナツは頭を下げた。さらりと前髪が揺れる。
 顔を上げたナツを見て、鳴海は先ほどの感覚が再び蘇るのを感じた。
 間違いない、どこかでこの少年を見たことがある…けれど、どこで…?
 ふと視線をそらした先に、これまた古いテレビがあった。今ではほんどと見られなくなった、チャンネルを回す古いタイプのものだ。
 それを見た瞬間、鳴海は思い出した。
 そうか、テレビだ。
「あの時の霊能少年…!」
 思わず、鳴海は声を上げていた。
 ナツは長い睫をぱちぱちさせて、鳴海の顔をしげしげと見つめた。そして困ったように形の良い眉を寄せ、瑞希に目を向ける。
「何年経っても、忘れない人間っているものねぇ」
 と、ナツの視線を受けて瑞希は呟いた。
 十年ほど前になる。
 当時の霊感ブームの中、一人の少年がテレビに登場した。
 名前はナツ。彼は人の悩みや失せ物、行ったことのない場所の正確な描写などをピタリと言い当てた。小学生だったナツ少年は、一躍霊能少年として全国にその名を轟かせることになる。
 生中継で映し出される会場には、数百人ほどの観客と少女にも見えるナツ少年、そして大袈裟な語り口の司会者がいる。そして大勢の観客の中から、ナツ少年に見てもらいたい希望者が手をあげ、順番に見てもらう。背後霊がどうとか、守護霊がどうとか司会者がまくしたてる中、少年はひたと相手に目を据えて、失せ物等を言い当ててしまう…。
 当時、鳴海はナツ少年の霊視があまりにも当たるので、ヤラセではないかとしきりに疑ったものだった。
 しかし、テレビや新聞、雑誌…いたるところでナツ少年の霊能力が取り上げられるようになった矢先、彼は忽然とあらゆるメディアから姿を消したのだった。結局、ブームは去り、霊能少年ナツの名は伝説となった。
 その成長したナツ少年が目の前にいる。当時の面影は、さらに磨きのかかった端正なものに変わってはいるが、間違いようがない。
「あなたの言う通り、僕はかつて霊能少年…ああ、口に出すのも嫌だ…そう呼ばれていました。でも、昔のことです」
 ナツは、本当に嫌そうに言った。
「ナツはね、ピーピング・トムなの」
 瑞希が得意そうに言う。ナツはさらに顔をしかめた。
「その呼び方はやめてください」
 と、少し語気を荒げて言う。
「だって本当じゃない。ね、今でも健在なんでしょう?アレ」
 ナツは瑞希から目をそらすと、お茶をすすった。
 鳴海は、瑞希がここに来た理由に気がついた。
「ナツ君に博士捜しを頼むのか、その…」
 ナツの片方の眉がピクッと上がる。その反応に、鳴海は思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。
「博士捜しって何です?」
 ナツが訊いた。
「実はね」
 瑞希が、ざっとこれまでのことを説明した。
 荒らされた家、水野博士とその娘の失踪、銃撃から車で逃げ、鳴海とともにここに来るまでの経緯だ。
「僕は嫌ですよ」
 話を聞き終えたナツは、眉をひそめて言った。
「まだ何も言ってないじゃない、ねぇ」
 と、瑞希は鳴海に同意を求める。
 しかし、鳴海には何とも返答のしようがない。
 何しろ銃撃に遭っているのだから、まともな人間なら関わりたくないと思うのは当然で、ナツの反応も至極もっともなはずだ。
「その…君の霊能力なら、博士を捜せるんじゃないかな」
 仕方なく鳴海はナツに言った。
「霊能力なんて、僕にはありませんよ」
「えっ?」
「そんなものはないんです」
 きっぱりと言いきったナツの顔を、鳴海は呆然と見つめた。
 では、あれは…あのテレビでの出来事はすべてヤラセだったのか?
「でも、君は確かにテレビで…」
 ナツは、ふうっとため息をついた。
「あれはね、違うんですよ。僕には、背後霊やら守護霊やらは見えない。見えるのは…」
 言葉を切ると、ナツは右手の人差し指で自身のこめかみの辺りをとんとんと叩いた。
「ココです」
「頭?」
 鳴海の言葉に、ナツは頷く。
「さっき瑞希さんが言ったでしょう?僕は人の頭の中を覗けるんです。脳、精神、記憶…人によって言い方は様々だと思うんですが… 心とか、そういったものを」
「心が読めるとか、考えていることがわかるとか?」
「うーん」 ナツは困った顔で頭を掻いた。
「そうそう都合よく見えるわけじゃないらしいのよ。この子はね、覗ける程度なの。例えば、垣根の向こうで子供が遊んでいるのを覗くことはできるけど、子供が家に入ってしまったら見えない。さらに窓から覗くこともできるけど、覗いた窓から別の部屋に子供が行ってしまったら見えない…そんな感じなのよ」
「それでも、見えることには変わりないんだな」
 瑞希の説明は、何だかわかったようなわからないようなものだったが、ナツが人の頭の中を覗けるというのは間違いないらしい。
「なるほど、だからピーピング・トムか」
 鳴海が納得して呟くと、ナツは嫌そうに眉をひそめながらお茶をすすった。
「こういう話があります」
 湯飲みを置くと、ナツはおもむろに口を開いた。
「ある学者さんが、一面識もない一組の男女をそれぞれ別の部屋に案内する。そこで彼らは脳波や脈拍、血圧、筋肉の微妙な動きや体温を様々な機器で管理下に置かれる。彼らの手にはスイッチを握らせて、互いに壁一枚隔てた隣の部屋にいる人物を想像してもらう。そして、想像できたらボタンを押すよう指示する。彼らは当然、相手には会ったこともないし、事前に誰かが情報を与えることもしていない。そこで、どうなると思います?」
 質問は鳴海に向けられていた。
「会ったことのない相手をいきなり想像しろと言われても…わからないな、どうなったんだい?」
「二人とも、ほば同時にボタンを押したそうです。それに相手の性別も当てました」
「うーん」
 今度は鳴海が唸る番だった。ナツは続ける。
「偶然だという意見もありますが、そういった実験を何回も繰り返した結果、非常に高い確率で、まだ見ぬ相手を想像した二人はほぼ同時にボタンを押します。その研究をした学者さんによると、脳の共鳴現象ではないかということです」
 なるほど、と頷きながら、一方でそれが今までのナツの能力の話とどう繋がるのか、鳴海には今ひとつピンとこない。
「脳は共鳴する。集団催眠や、集団幻覚もそういった脳の共鳴によるものだと僕は思うんですけどね。僕の能力も、相手の脳と共鳴することで覗けるのではないかと思っているんです。つまり…僕は霊能力なんてものは持ってないけれど、誰もが持つ脳を共鳴させる力が人より少しだけ強いんじゃないかと…そう思っています」
 鳴海はやっと話が飲み込めた。
 脳が共鳴するという話は初耳だったが、この少年の口から聞くと妙に説得力があった。
 つまり、かつて彼が霊能力で言い当てた数々の事柄はすべて、脳の共鳴によって彼が覗き見た人の脳…頭の中だったのだ。
 とはいえ、鳴海はそんな能力に関しては興味はない。むしろ疑わしいと思っているくらいだ。それでも、霊能力云々よりは、脳の共鳴説の方が遥かに信じられる。
「でも、どちらにしても…見えるんだよな。その、頭の中が」
 鳴海を見つめたまま、ナツは頷いた。
「だから、お願いに来たのよ。力を貸してほしいの。失踪した二人を捜すために」
 瑞希がそうきりだすと、ナツは露骨に嫌な顔をした。
「そんなことは、警察に頼むべきです」
 もっともな言い分だ。
「それができない色々な事情があるのよ。ね、お願い」
 瑞希は、懇願するように身を乗り出してナツを見た。
 ナツはしばらく瑞希の顔を見ていたが、やがて視線を落としてため息をついた。
「今日は先約があるので…夜なら、何とか」
 ナツは言い難そうに呟いた。
 途端に瑞希の顔がぱっと明るくなる。鳴海も内心ほっとため息をついた。
 博士と娘の捜索の手掛かりが得られるなら、何だってかまいはしない。そう思いつつ、鳴海にはナツが心を覗く能力を持っていることについてはあまり信じていなかった。未だに、あのテレビでのことはヤラセではないかという思いが拭いきれない。どちらにしても、鳴海にはナツを訪問したのは無駄足に思えなくもなかった。
 鳴海はナツの横顔を見つめながら、すっかり冷めてしまったお茶を飲み干した。
 鳴海と瑞希が外に出ると、ナツも見送りについてきた。
「ねぇ、何時頃ならいい?」
 瑞希はナツを振り返った。
「そうですね…」
 ナツは腕時計に視線を落とした。つられて鳴海も時計を見る。
 時刻は午後二時半を少し過ぎている。
「病院に行かなきゃいけないので…七時ならどうでしょう?」
「いいわ。でも、病院って…どこか悪いの?」
 瑞希の言葉に、ナツは笑みを浮かべて首を振った。
「お見舞いです。友達のお父さんがちょっと」
 瑞希はふうん、と鼻を鳴らした。
「それじゃ、七時ね」
 その場から離れようとした時、不意にナツが口を開いた。
「ところで、パンドゥーラって何です?」
 鳴海は、その一言に電撃に打たれたような気がした。
 呆然とナツを振り返る。ナツは澄んだ眼で鳴海を見ていた。
 瑞希がナツに聞かせたことには、壁に刻まれたパンドゥーラの文字のことは一言も出てこなかったはずだ。
 それを知っているということは…。
「そんな顔しないでください。ちらっと見えたから」
 ナツはそう言って、照れ臭そうに笑った。


 けたたましい音とともに、救急車が通りを走り抜けていく。
 麻衣子(まいこ)は窓に身を寄せるようにして、眼下の景色を眺めていた。
 救急車は通りを横切り、少しずつ遠ざかっていった。
 よかった。この病院じゃなかった。
 麻衣子は、ほっとため息を漏らした。
 鬼哭島、真庭市第一区の一角。この辺りは病院が数多く建っているため、救急車が日に何度もサイレンを響かせながら通りを行き来する。
 脳神経外科病院、耳鼻咽頭科病院、眼科医院、そして総合病院。中でも、ここセントマリアンヌ病院と、同じ通りにある脳神経外科医院はとりわけ救急車が多く出入りしていた。そのため、一般車輌はこの通りを避けるので車の姿は目立たない。病院に面した通りを走るのは、もっぱら宅配便の車かタクシーだった。
 麻衣子は、病院と救急車の音が苦手だった。あの音が近くを通るたびに、麻衣子は落ち着かない気分になる。
 色白の肌と細い小柄な身体つきのせいもあって、麻衣子にはどこかはかなげな雰囲気を持っていた。しかし、実際は丈夫でめったに風邪もひかないので、病院に足を踏み入れるのも本当に久しぶりのことだった。
 まさか、こんな形で毎日病院に来ることになるなんて。
 麻衣子は三日前のことを思い出した。
 夕暮れだった。
 母と麻衣子が起きる前に出かけた父は、まだ戻っていなかった。釣りの知識がない母と麻衣子は、父が何を釣って帰るのかとそれだけを楽しみにしていた。
『お父さんは釣りを始めたばかりのビギナーだから、全然釣れないかも。釣れなかったら、途中で魚のパックを買ってきたりして』
 母親にそんな冗談を言いながら、麻衣子は笑っていた。けれど一方で、魚を釣って帰ったら思いきり持ち上げてあげよう、とも思っていた。
 最近は朝に起こしてあげる以外、洗濯物はお父さんと別にしてだの、お風呂はお父さんより先に入るだのと、あからさまに父に対して冷たく振る舞い、ちっとも優しくしてあげなかったからだ。
 その父が戻って来た時、麻衣子と母の食事は終っていた。
 気がつくと、西日の差すリビングに父が立っていた。何も言わず、ただぼうっと。
 麻衣子は、ぶるっと身体を震わせた。
 あの顔。
 真っ青で、目が充血して驚いたように見開かれていた。
 その顔は、麻衣子の記憶にある父のどんな顔にもなかったものだ。麻衣子の知る父は、家では物静かで優しい人だったから。
 父は今、この病院のベッドに横になっている。
 帰って以来、父は飲まず食わずで喋ることもなく、魂が抜けてしまったようにぼうっと座っていた。
 母は父の肩を揺さぶり、涙で訴えた。
 一体何があったのか、と。
 そんな母にも、周囲のどんなことにも父は無反応だった。ただ、うわ言のように同じ言葉を繰り返していただけだ。
 ぴかぴか光る箱。千人浜。
 その二つだけを、ぼそぼそとかすれた声で呟いていた。
 父は千人浜に行ったのだろう。けれど、ぴかぴか光る箱のことは見当もつかなかった。
 母は明らかに様子のおかしい父を見かねて、救急車を呼んだ。
 それが一昨日のことだった。
 以来、母は毎日、麻衣子とともに病院に通っている。病院は完全看護で、来たところで特にすることがあるわけではない。せいぜい父の姿を見ながら、病室で時間を潰す以外ない。
 それでも、家にいるよりは遥かにマシだった。父がいない家は麻衣子にとっても母にとっても落ち着かない場所になってしまっていたからだ。
 今も母は病室の父の側についている。
『どこにも異常は見当たらないんですがねぇ』
 あらゆる検査に父をかけた後、担当医が困り果ててそう言ったのを麻衣子は思い出していた。

 落ち窪んだ生気のない目元、肋骨の浮き出た胸。ほんの二、三日で、父は以前の見る影もなく痩せ細ってしまっていた。まるで、何日も絶食したかのように。
 お父さんはどんどん痩せていくんだわ。まるでミイラみたいに。
 そう思うと、麻衣子は涙が出そうだった。
 ぶるっ。
 麻衣子は、急に寒気を感じて自分の腕で身体を抱き締めた。薄い白の長袖Tシャツにデニムのスカートだけでは、少し薄着だったかもしれない。
 突然、カラカラと乾いた音が聞こえてきた。
 ふと音の聞こえた左手を見ると、ストレッチャーを押して歩いて行く看護婦の背中が見えた。
 どくん、と麻衣子の心臓が高鳴った。
 あることが、麻衣子の脳裏に蘇った。クラスメイトとの会話だ。
『あの病院ってさぁ、出るんだって』
 確か、あの娘はここの名前を言ってなかった?
『看護婦さんの幽霊でさぁ、すんごく怖いって話だよ』
 あの娘、何階に出るって言ってたっけ。ううん、馬鹿ね。そんなの嘘に決まってるじゃない。
 麻衣子は自問自答しながら、看護婦の後ろ姿から目が離せなかった。
 病院なんだから、看護婦さんがいるのは当り前よ。
 後ろ姿の看護婦を見つめたまま、麻衣子はそう自分を納得させようとした。
 だったら、何でこんなにビビッてんのよ、あたし。
 突然、気がついた。
 この看護婦はどこから来たんだろう?
 麻衣子がいるのは、病棟と病棟を結ぶ通路だ。廊下の一方の壁には一定間隔に窓がある。反対側の壁には、手摺りがついている以外、白い壁が続いているだけだ。
 つまり、麻衣子とすれ違って通り過ぎたのでなければ、看護婦が背中を向けて歩き去る姿が見えるはずがない。方向転換できたとしても、不自然だ。
 そして何より、ストレッチャーのカラカラという乾いた音は、唐突だった。
 看護婦さんの、幽霊。
 カラカラ。
 違う。この三日、ろくに眠れないから疲れてるだけ。だから、ちょっと神経質になってるんだわ。
 麻衣子はそう無理矢理結論づけた。そして、看護婦に背を向けた。
 カラカラ。
 駄目。振り向かずに、このまま歩いて行けばいいのよ。
 カラカラ。
 音は、心なしか大きくなってくるような気がする。麻衣子は気がつくと早足になっていた。
 カラカラ、カラカラ。
 間違いない。音はあたしを追いかけてくる。
 麻衣子は思わず背後を振り返った。
 ざわっ、と背筋が総毛立った。
 後ろ姿を見せていたはずの看護婦は、今はまっすぐ麻衣子に向かって歩いてくる。その手でストレッチャーを押しながら。
 看護婦の顔色は灰色で目の縁は赤く、上目使いに麻衣子を睨んでいる。血走って大きく見開かれた眼は、とても生きている人間には見えない。
「い、いやっ!」
 麻衣子は走りだした。
 カラカラと、音が追ってくる。
 もつれる足で必死に走った。陸上部で、走ることには自信のあったはずの麻衣子の足は、絶え間なく襲ってくる悪寒に邪魔されて思うように動かない。
 カラカラ。
 お母さん。
 カラカラ。
 お父さん。
 カラカラ。
 助けて。
 麻衣子は喘ぎながら、再び背後を見た。
 すぐ後ろに、看護婦の物凄い形相が追っていた。
「いやあああっ!」
 麻衣子は、もう走れないと思った。自分の肺が空気を吐き出すざらついた音が耳に届く。
 その時、右手のトイレが目に入った。
 あそこなら追ってこれない!
 麻衣子は歯を食いしばり、スパートをかけた。
 女性用トイレのプレートのついたドアを押し開けると、転げるようにして中に駆け込んだ。
 迷わず一番奥のトイレに入り、震える手で鍵をかける。
 肩で息をしながら、麻衣子は壁を背に必死に耳を澄ました。
 少ししてドアが軋む音ともに、ストレッチャーを押しながら看護婦が入ってきたのがわかった。
 カラカラ。
 お願い、来ないで!
 ドアを見つめ、壁を背に身を硬くしながら、麻衣子は必死に願った。
 カラカラ。
 そして…現れた時と同じく、唐突に音が止んだ。
 静寂。
 麻衣子はやっとのことで息を整えた。
 ゆっくりと深呼吸する。陸上部顧問の教師に教わった、気持ちを鎮める方法だ。何度もゆっくりと吐き、ゆっくりと吸うのを繰り返す。
 そうしているうちに、ようやく麻衣子は落ち着きを取り戻した。
 行ってしまったのだろうか?
 ドアの向こうに人の気配はない。聞こえるのは、耳で鳴っている自分の心臓がドクドクと脈打つ音だけだ。
 ほっと、麻衣子は息を吐いた。
 もう大丈夫よ。幽霊だって、トイレにまでは入って来れなかったってことね。
 麻衣子は心の中で呟いた。
 そして、ふと顔を上げた時、麻衣子は凍りついた。
 目を恐ろしいほどに見開いた看護婦が身を乗り出すようにして、ドアの上から麻衣子をじっと見下ろしていたのだった。

 

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