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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[20] 帰還 2

 辺りには、大勢の人間がひしめいていた。
 多くが、薄手のウインドブレーカーに手袋という扮装だ。手に横断幕、あるいは拡声器を手にし、中にはマスクやサングラスで顔を隠した者までいる。
 個体識別が難しく、何より数が多い。
 ぞろぞろと辺りを歩く人々を眺めながら、ユージン・Kは脳裏に虫の群れを思い描いていた。一匹では無害な虫も、数が増せば有害にも感じるものだ。
 そして今、紛れもなく辺りの無名の虫の群れはユージン・Kには有害以外の何者でもなかった。鳴海達を追った部下の足止め、そしてその手にした銃を使えないという点では、これ以上の害はない。
「君がこの場所を指定したのは、このためか」
 ユージン・Kは低く言った。
 辺りの人間は、ユージン・Kと沢村に目を止めるものの、見なかったふりを決め込む者がほとんどだった。
 トムの姿もユージン・Kの姿もアメリカ人に見えるだろうが、デモ隊の意識は別のものに向けられているらしい。たまたま本流からそれた別働隊が、偶然この場所に流れ込んだ…そんなところだろう。
 しかし、奇妙な違和感がある。
 ランカスターは、ここよりわずかに離れた場所に停泊したはずだ。デモの本隊なら、そちらに向かうだろう。それが、何故か彼らはこちらに向かって流れてきた。
 何者かが誘導したように思えなくもなかった。
 しかし、それはいい。
 ユージン・Kは改めて、横に立つ沢村に目を向けた。
 無表情な整った顔立ち、長めの前髪がかかる切れ長の冷めた目で、脇を行き過ぎる人の群れを眺めている。
 鳴海達は、待機させていた部下が始末に向かっている。この分では銃は使えないだろうが、身柄を押さえてどこかに移動させることぐらいはできるだろう。後は、沢村の口からゆっくりとアクセスキーを聞き出せばいいのだ。
「沢村、約束だ」
 その言葉に、沢村がユージン・Kを振り返った。
「アクセスキーを言いたまえ」
「…まだだ」
 その言葉に、ユージン・Kは片眉をつり上げた。
「鳴海さん達の安全が保証されてからだ」
 沢村は静かに言った。
 ユージン・Kは鼻を鳴らした。
「彼らがフェリーターミナルに行くまで待つとでも?」
 沢村は、無表情のまま頷いて続ける。
「鳴海さん達がフェリーでこの島を離れた時点で、アクセスキーを教える」
「気の長い話だな」
 その一言に、沢村の口元に笑みが浮いた。
「時間はたっぷりある」
 沢村がそう呟いた瞬間、低いエンジンの唸りが聞こえてきた。
 見ると、こちらにまっすぐ向かってくる白い車が見えた。
 部下の車ではなく、ワンボックスカーだ。
 しかし、ユージン・Kが考えたのはそこまでだった。
 突然の車の乱入に叫び声を上げながら右往左往する人々の間をすり抜け、白いワンボックスカーはこちらにむかって突っ込んできた。
「…!」
 とっさに飛びのいた瞬間、沢村の黒いジャケットが白い車体に隠れて見えなくなった。
 急ブレーキとタイヤの悲鳴が辺りに響き、わずかに後輪を滑らせながら車が止まった。
 しかし、それも一瞬だった。
 すぐさま、タイヤを軋ませて車が急発進した。
 白い車体が、再び人々の間を抜けながら駐車場のスペースから飛び出していく。
 ユージン・Kが再び目を向けたそこには、沢村の姿はすでになかった。 
 苦い思いに、ユージン・Kは唇を噛む。しかし、それは次の瞬間には笑みに変わっていた。
 面白い。
 これほどとは思っていなかった。
 ヘリをここに降ろすようにという沢村の条件を飲んだ時、この状況まではユージン・Kには予想できなかった。
 そして、手錠だ。
 ヘリの中で交わされた言葉通り、自分の手から手錠を外した瞬間に、この勝負はついていたのだろう。まんまと、仲間が操る車ともども大群衆に紛れて逃げたのだから。
 ユージン・Kは、遠ざかる車のリアウインドゥを見つめていた。
 ほんの一瞬、沢村らしき人影がこちらを見ていたように見えたが、確認しようにも車体はすでに豆粒のように小さくなっている。
 地図で示されていない、普段は使われていないその狭い車道は、港湾警備と港湾管理センターの職員だけが使用するものだ。
 ユージン・Kの知らないところで、それらの道路を熟知した者が彼らの味方についていたのだろう。
 逃げた二宮や金田、冴をユージン・Kは思い出した。しかし、すでに遅い。
 不意に、辺りに携帯電話の呼び出し音が響いた。
 ユージン・Kは、ポケットから携帯を取り出して開くと耳に当てた。
「すみません、鳴海達の追跡に失敗しました」
「状況は」
 部下の言葉は予想していたものだった。
 ヘリから降りた後、逃げおおせたと思わせた後で始末するはずが、例の大群衆に飲まれてそれどころではなくなったのだろう。
「途中で車が捨てられてました。そこから先の足取りが…例の人の多さで」
 見失った、か。
 ユージン・Kは自嘲めいた笑みを浮かべた。
 まんまとしてやられた。しかし、怒りはない。むしろ、朝の空気に似た清々しさを感じていた。
「君達はフェリーターミナルへ向かえ。我々は一旦船に戻る」
 フェリーターミナルへ部下を向かわせたところで、沢村をはじめ鳴海達はこのまま逃げおおせるような気がしていた。それでも、ユージン・Kは指示を下していた。
「…了解」
 わずかに遅れて、部下は答えた。
 ユージン・Kは携帯の電源を切ろうとして思い直した。すぐさま、記憶にある番号を押す。
 相手はなかなか出なかった。
 やがて、ユージン・Kの記憶にある男の声が出た。
「もしもし」
「私だ」
 その一言に、相手が息を呑んだ。
「もう少し早く連絡するつもりだったが、遅れてね」
 相手は、無言でユージン・Kの言葉を聞いている。
「私と取引をしたかったようだが?」
 語尾を上げたユージン・Kに、相手は息を吐いた。長いため息だった。
「そう…私はあなたと取引するつもりだった」
「そのために、鳴海を派遣したのだろう」
 相手は「そうだ」と静かに答えた。心なしか、記憶にあるよりも男の声は落ち着いて聞こえた。
「あなたより先に水野と『例の物』を手に入れられれば、あなたを相手に取引ができると思っていた」
 相手は淡々と答えた。
「しかし、そうはならなかった。残念だったな、藤村」
 その言葉に、藤村は苦笑したらしい。
 藤村には、五年前に水野を北海道研究所の所長に迎え入れる際に手を回してもらった。当時の藤村の役職は人事部長。その藤村の働きもあって、水野は表向きはクライン北海道研究所の所長として働き、裏ではパンドゥーラ秘密の実験を続けていたのだ。
「いいんだ。あなたと取引をする気は今はもうなくなった」
「何だと?」
 ユージン・Kが低く訊き返すと、藤村は口調を変えた。
「ところで、鳴海は無事かね?」
 声が硬い、それが緊張のためらしいとユージン・Kはすぐに気がついた。
「鳴海は無事だ。今のところは、な」
 低く囁くと、藤村がほっと息を吐くのが聞こえた。
 その反応も、どこかユージン・Kの知る藤村の印象とは違って聞こえた。
「…水野は…」
「死んだよ」
「…そうか」 
 少しの沈黙の後、藤村が言った。
「私はもう、この件に関わる気はない。それを伝えようと思っていた」
 その言葉も、ユージン・Kには意外だった。
「それは今の仕事を辞めたいという意味かね」
 藤村は、支社の裏の仕事を取り仕切っている。
 ユージン・Kが知る藤村は、仕事の鬼だった。仕事だけが生き甲斐の男は、本社から派遣された殺し屋に自らの息子が消された時ですら、仕事を辞めるとは言わなかった。
 それが今回に限っては、何かが決定的に変わってしまったのか。
「仕事を辞めるとは言わない。そうではなく、今回の『例の物』に関しては、手を引くと言っているのだよ」
 ユージン・Kは頷いた。
「それが賢明だ。君とは長い付き合いだ。君の元に『使いの者』を出すのは、私としても心苦しいのでね」
 暗に脅しが込められた言葉を、藤村は「そうだな」と軽く受け流した。
「それでは、失礼します」
 不意に改まった口調で、藤村は話を切り上げた。
「次は別の商談の席で」
「ああ」
 静かに、通話が切れた。
 それを待っていたように、トムがユージン・Kに近づいてきた。
「ヘリ、離陸準備整いました」
 その言葉に頷くユージン・Kの前に、途切れた人込みの間をぬって白い車が滑り込んできた。
 ドアが次々と開き、部下がブリーフケースを手に慌しく車から降りる。その中の一人が、ジュラルミン・ケースを手に持っていた。
 それに目を止めた瞬間、ユージン・Kは笑みを浮かべた。
 彼らはエバンジェリン出港以前に、金田の話を元に『それ』を探させていた別働隊…部下達だった。
 ケースを見る限り、どうやら無駄足ではなかったらしい。
 そんなユージン・Kの考えに応えるように、部下の一人がユージン・Kにそのケースを持ち上げて見せた。
「オリジナル、回収しました」
「よし。撤収する…!」
 ユージン・Kが言い放った瞬間、ローターが勢いよく旋回し始めた。


 のろのろと続く車の列に、その白いワンボックスカーは続いていた。
 ランカスター入港に合わせて、見物客とデモ隊の一部がフェリーターミナルに流れてきてしまったらしい。混んだ車の間を、人が縫うように行き来していた。
 車は遅々として進まなかったものの、鳴海は落ち着いていた。
 何はともあれ、全員が無事にこの島を出られそうだからだ。
 ハンドルを握っているのは、鳴海達に車から降りるようにと急かした強面の男だった。男は柴と名乗り、その隣に座っている若い女は桜木と名乗った。
 二人はともに港湾警備の人間だという。そんな二人が何故、鳴海達の逃亡に手を貸してくれたのか。その答えは案内されたワンボックスカーに乗り込んでみてわかった。
 そこには、先に脱出していたはずの二宮、金田、冴がいたのだ。
 無事を喜び合う暇もなく、鳴海達を乗せた後に柴が車を急発進させた。慣れたハンドルさばきで、柴は車を反転させるとアクセルを踏もうとした。
 その時、背後で口々に何かを怒鳴る大勢の人の声が聞こえてきた。
「俺の仲間がデモ隊を誘導したんだ。今にここに人がわんさかやってくる。その前に逃げるぜ」
 しかし、それを止めたのは神南とナツだった。少し遅れて、鳴海が言い添えた。
「もう一人、ヘリのところに仲間が残ってる」
 柴はそれを聞き、何故か隣に座っていた桜木に目を向けた。桜木は、怒った顔で柴の肩を拳で殴った。
 渋々といった様子で、柴は車をUターンさせた。
 後は、人込みが切れるのを待って、猛然とアクセルを踏み込んで沢村とユージン・Kの間に車を滑り込ませ、開いたスライドドアから腕を伸ばした神南が、沢村の身体を車内に引きずり込んで奪還した。沢村とユージン・Kの間にスペースがあったことが幸いした。
 そのまま、車は普段は使われていないらしい細い一車線の道を抜け、フェリーターミナルに向かう大通りに乗った。鳴海は途中何度も背後を確認したものの、尾行車は見当たらなかった。
 しかし、まだ油断はできないらしく、沢村と神南はそろって後部座席から辺りに視線を走らせている。
 鳴海はそんな沢村を見て、視線を落とした。
 沢村の両腕は、依然として手錠でつながれたままだ。
「神南さん」
 神南が、「おう」と返事をしながら振り向いた。
 鳴海が指差すと、沢村も気づいて両腕を持ち上げた。
「何とかはずせない?」
 と、沢村が神南に訊く。途端に、神南が渋面を作った。
「鍵は『ユーなんたら』が持ってんだよ。予備はねぇ」
 その時、二宮が身を乗り出して沢村に手を差し伸べた。その手には、小さな鍵が握られている。
「沢村さん、手を」
 言われて、沢村は二宮に両腕を差し出した。二宮が鍵を差し込むと、あっさりと手錠が外れた。
 鳴海はそこで思い出した。
 制服を着ていないためそうは見えないものの、普段は二宮も手錠を携帯している警察官だったのだ。
 沢村が自由になった手首をさすりながら、二宮に笑みを向けた。
「ありがとう、二宮さん」
 一方の二宮は照れたような笑みを返し、前に向き直った。その頭を、後ろから神南が軽く叩いた。
「へへ…やるじゃねぇか、兄ちゃん」
 神南は嬉しそうに笑っている。
「僕は兄ちゃんではなく、二宮です!」
 二宮は振り返って言い放った。その目が笑っている。
 ふと、目を向けると瑞希も笑みを浮かべていた。ナツも笑っている。金田も、控え目ながら笑みを浮かべている。
 車の中の空気が、和やかなものに包まれた。
 その時、微かな衣擦れの音とともに冴が立ち上がった。
「柴、さん」
 声に、柴がブレーキを踏んだ。ゆっくりとその場に停まった車をそのままに、柴が驚いた顔で冴を振り返る。
「冴?どうしたの?」
 瑞希の問いに、冴は瑞希に向き直り、口元に笑みを浮かべた。どこか悲しげな笑みは、それまでの無表情からは想像もできないほど暖かみが感じられた。
「私、ここで車を降りる」
 冴の言葉に、瑞希が眉を寄せた。
「そんな…」
 言いかけた瑞希から視線をはずし、冴はナツに目を向けた。
「あなたは、私に『同じ能力』を持ってると言ってくれたわね。そして…私が何者なのか気がついていたのね」
 冴の静かな声に、ナツは頷いた。
 冴が何者なのか。
 鳴海はその一言に、彼女について忘れていたある事実を思い出させられた。 
 水野冴こそが、パンドゥーラの…。
「君と船の中で再会した時…気がついたんだ」
 ナツが静かに言った。
 鳴海は、神南に支えられた鳴海が瑞希とともにデッキに現れるまで、ナツと冴は二人きりで待っていたことを思い出した。
 あの時、二人の間には、何かお互いに通じ合うものがあったのだろう。
「冴…」
 瑞希がそっと呼びかけた。その表情は、それまで見た瑞希のどの表情よりも悲しげに見えた。
「私の中には、お母さんがいるの…」
 その一言に、車内に沈黙が降りた。
 それが心の中にいるというような、そんな意味ではないことを鳴海は即座に理解した。
「あの時…」
 冴が、ゆっくりと話し始めた。
 雪の降る冬の寒い日に、冴と彼女の母・冴子は交通事故に遭った。多重衝突事故に巻き込まれた二人の車は、路外に転落…発見されるまでの数時間の間、雪に埋もれたままだった。
「事故に遭った時、お母さんから…あいつが出てきた」
 宿主である冴子の死を感じ取ったパンドゥーラは、次の宿主に冴を選んだ。
 そして…。
「冴…それは…」
 瑞希の声は、微かに震えていた。冴は続ける。
「あいつは、私の中に入った。だから、私は車の運転ができたの。お母さんの記憶が、そのまま私の記憶になったから。そして…人の心の中が見える…でも」
 言って、冴はナツを見つめた。その眼差しは優しく、そしてどこか悲しげに感じられる。
 鳴海の胸には、水野博士とともに見た光景が脳裏に蘇っていた。
 あの時、鳴海は冴が完全に変えられたのだと思っていた。だが、見る限り、目の前の冴があのおぞましいパンドゥーラをその身に宿しているとは思えなかった。
 話す言葉も表情も、大人びて見えるもののどこから見ても普通の少女のものだった。
「でも、私はあなたと同じじゃない…」
「冴、やめて」
 どこか悲痛に聞こえる声に、冴は瑞希に視線を戻した。
「私、ずっと混乱して…怖くて仕方なかった。自分のことばかり考えてた。でも、金田さんが怪我をして…」
 言って、冴が金田に目を向ける。金田は、見る限り怪我をしている様子はない。が、鳴海と目が合うと、金田は何故か悲しげに目を伏せた。
「金田さんを助けなきゃ…そう思った時…お母さんや、瑞希姉さん、金田さんのことを思い出したの」
 冴は瑞希に目を向けた。
「ごめんね、瑞希姉さん」
 その一言に、瑞希は唇を噛んだ。その目に、見る間に涙が溢れる。
「冴…」
 消え入りそうな呼びかけに、冴は優しく微笑んだだけだった。そして、一同を見渡すとぺこりと行儀良く一礼した。
「ありがとうございました」
 鳴海は口を開きかけ、かけるべき言葉が出てこないことに気がついた。
 パンドゥーラをその身に宿し、一人どこへ行こうというのか。
 その時、金田が立ち上がった。
「僕もここで降ります」
 静かな声には、どこか強い決意が込められているように感じた。
「瑞希さん、僕が冴ちゃんと一緒に行きます。だから…頼りなくて安心してとは言えませんけど…行かせてください」
「金田クン…」
 涙に濡れたままの目で、瑞希が金田を見つめた。
 金田は鳴海を振り返ると、笑みを見せた。その笑みは、鳴海がいつでも携帯にかけてくれといった時に見せたものと同じ笑みだった。
「鳴海さん、瑞希さんを頼みます」
 鳴海はどう答えていいかわからずに、ただ頷いただけだった。
 二人が降りようとした時、今度は二宮が席を立った。
「おい、まさかお前まで降りるってんじゃねぇだろうな」
 神南の声に、二宮は照れたような笑みを見せた。
「そのまさかですよ。僕がお二人を安全な場所までお連れします」
「二宮さん…」
 珍しく表情を曇らせた沢村に、二宮は頷いて見せた。
「大丈夫です。どのみち、まとまっていればそれだけ危険ですし、僕は鬼哭島に残るつもりでしたから」
「おい…」
 神南がぼそりと言う。その声に、二宮は神南を振り返った。
「神南警部補、後を頼みます」
 その一言に、神南が顔を歪めて舌打ちした。が、目には優しい光が揺れていた。
「気をつけろよ、二宮」
「はい」
 力強い返事とともに、二宮はスライドドアを開いた。
「皆さんもお元気で」
 ドアを閉める寸前、二宮がそう呼びかけているのが聞こえた。
 鳴海が見る間に、三人は人込みに紛れて見えなくなった。
 視線を戻すと、瑞希が俯いているのが見えた。
「瑞希…」
 呼びかけに、瑞希は涙を拭って前を見た。その目には、いつもの気丈な光が戻っていた。
「行きましょう」
「よし」
 運転席でハンドルを握っていた柴が、前を睨んだまま言った。その隣で、桜木が同じように「行け行け」と繰り返している。
 気がつくと、前方にフェリーの巨大な口が開いているのが見えた。
 その時、鳴海は気がついた。
 フェリーの開いた船体後部の開放部から、緑色に色分けされた船内駐車場が見える。そこに、白い車が一台停車していた。
「駄目だ!」
 鳴海の声に、柴が驚いてブレーキを踏む。元々スピードはそれほどではなかった車は、気の抜けたようなエンストを起こしてそのまま停まってしまった。
「何だ、どうした?」
 その時、沢村が身を乗りだした。
「このまま乗り込んだら…彼らの思う壺だな」
 落ち着いた声に、神南が眉を寄せてその視線の先をたどる。
「あの白い車は…」
 と、柴。
「待ち伏せだよ。フェリーには、すでにユージン・Kの部下が乗り込んでいたんだ」
 淡々とした沢村の言葉に、瑞希が振り返った。
 このまま乗り込めば、まさしく彼らの思う壺だ。鳴海達は捕まって、元通り船に連れて行かれるか、最悪殺されてしまうかもしれない。
「どうするの?この島から出るには、フェリーを使うしか…」
 そう言いかけた瑞希の言葉を、電子音が遮った。
 柴が、慌ててポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。
 鳴海はそれを尻目に、じっと白い車を見つめたまま考えていた。
 停まったままの車を不審に思ったらしい後続車が、クラクションを鳴らしている。何事か怒鳴っているようだったが、鳴海はそれよりも別のことを考えていた。
 ここまで来て、彼らに捕まるのか。
 簡単に逃げられるはすがないとは思っていた。そして、今も簡単には逃げられないと思わされている。
 ユージン・Kの笑い声が聞こえたような気がした。
 しかし。
 柴が、通話を切って背後を振り返った。
「乗り心地は保証できないが、こっちで貸切を用意できそうだぞ」
「貸切?」
 と桜木が首を傾げる。それには答えず、柴は続けた。
「問題は用意までに時間がかかかることだ。その間、隠れる場所がないとな…」
 その言葉に「じゃあ」と、指を立てたのは沢村だった。
 沢村は、相変わらずの冷めた淡々とした口調で説明し始めた。


 その部屋に入った時、鳴海はあまりの散らかりように驚いた。
 足の踏み場もないほどのゴミが、狭い六畳の和室を埋め尽くしている。
 沢村が提案した待ち時間の間、隠れる場所は神南の部屋だった。
「すごいわね…」
 言って、瑞希が呆れたようなため息をついた。
「適当にゴミを退けて座ってくれ」
 神南はぶっきらぼうに言いながら、すでにその場にどっかりと座っていた。
 ナツが控えめに近くのゴミを脇に退け、鳴海を振り返った。
「鳴海さん、どうぞ」
 言われるまま、ナツが作ったわずかばかりのスペースに腰を下ろす。
 沢村はといえば、部屋に入るなり辺りに散乱したゴミをかき分けて何やら探しているようだった。
 柴と桜木は鳴海達五人をここまで送り届けた後、例の貸切の準備のために慌しくいずこかへ走り去った。鳴海としてはお礼の一言も言いたかったのだが、お互いにそんな余裕がなかった。今度余裕がある時には、しっかりお礼を言わねばと鳴海は考えていた。
 それにしても。
 鳴海はあらためて辺りを見回し、そのごみの量に密かにため息をついた。
「とりあえず…助かったと思っていいんだよな?」
 誰にともなく呟いた鳴海の言葉に、沢村が顔を上げた。
「そうだね…今のところは助かったと思っていいと思うよ」
 言いながら、沢村は手にしたビニール袋に包まれたものを神南に手渡した。どうやら、それを沢村は探していたらしい。
「おう。やっぱりあったか…」
 言って、神南はにやりと笑った。
「それ、何です?」
 と、鳴海の横でナツが訊いた。神南は答えずに、それをそのまま瑞希に差し出した。
「ほらよ、お前さんのもんだ」
 瑞希は、言われるまま差し出されたそれを受け取った。
「これは…」
 瑞希が目を見開いた。そのまま、神南に目を向ける。
「水野博士の実験データ一式、プラスあんた宛の手紙だ」
 神南が言って、口元を歪めた。
 水野博士が、瑞希に託した実験データ一式…。
 鳴海はそこで、あることを思い出した。
「ユージン・Kが手に入れてたんじゃなかったのか?」
 船の中で、ユージン・Kが沢村に在処を聞き出すよう命じ、それを知らせた結果、ユージン・Kの手にそれらが渡っていたはずだった。
「あれは、コピーだよ」
 沢村がさらりと言って、瑞希が手にしたものに目を向ける。
「オリジナルはこっちなんだ。いざという時のために、袋に入れたままその辺に置いておいたんだ」
 言いながら、沢村が辺りのゴミを眺めて苦笑した。
「見つからないと思ったけど、本当に見つからなかったね」
 それに対して、神南は、ふんと鼻を鳴らした。
「散らかってる部屋もたまには役に立つってこったな」
「全然褒められた話じゃないけどね」
 沢村の一言に、鳴海は思わず笑ってしまった。それを見て、瑞希も笑った。ナツも控えめに笑っている。一人、苦虫を噛み潰したような神南だけが、不機嫌そうに顔を歪めた。
 それにしても、実験データを収めたCD‐Rとフロッピーディスクの在処を教えたその同じ室内に、そのオリジナルがゴミに埋もれて放置されているとは、さすがのユージン・Kの部下も気づかなかったのだろう。このゴミでは無理もないが、それにしても大胆ではある。
「とにかく、それが瑞希さんの保険だ」
「保険?」
 鳴海の言葉に、沢村が頷く。
「ユージン・Kにアクセスキーを教えていない以上、この先確実に狙われるのは俺だと思う。それに、ユージン・Kもいずれ手元に残ったCD‐Rとフロッピーディスクがコピーだと気づくはずだ。そうなった場合、瑞希さんがオリジナルを持っている限り、彼らは下手に手出しできない。だから、保険なんだ」
 こんな説明をしていても、沢村は淡々としていた。
「けど…アクセスキーは?」
 鳴海が訊くと、沢村は内ポケットから紙片を取り出して瑞希に手渡した。見る限り、名刺のようだ。
 瑞希の肩越しに鳴海が覗き込むと、白い紙の表面に流麗な文字が並んでいた。
「瑞希よ」
 呼びかけに、瑞希が顔を上げて神南を見た。
「後は、あんたが決めな。もうこれ以上、自分を責めて一人で背負い込むなよ。あんたの昔の恋人も博士も、あんたのことは責めちゃいねぇと思うぞ」
 口調はぞんざいだが、神南の言葉には暖かいものが込められている気がした。
 瑞希は口元に笑みを浮かべると、静かに頷いた。
「ありがとう、神南警部」
 瑞希の言葉に、「警部補だっつってんだろ」と神南。
 瑞希が笑った。それを見て、鳴海とナツも笑みを浮かべた。神南と沢村も、どこか優しい穏やかな表情をしていた。
 引かれたカーテン越しに柔らかな光が差し込む室内は、ゴミだらけだというのに妙に居心地がよく感じられる。
 それもこれも、助かったという実感のためなのか。
 鳴海はそんなことを思いながら、あらためてほっと息を吐いた。
 今回のことについて話したいことはたくさんあるはずなのだが、鳴海は何から話していいかわからないままだった。それは同じなのか、誰も今回の一連の出来事について話そうとしなかった。
 それから一時間ほど、当り障りのない会話で時間を潰した。
 そうしているうちに、携帯電話が鳴ったのだった。


 薄紫の影をまとった島が、幻のように海に浮かんでいた。
 四角いビルの影が林立するのは、鬼哭島は真庭市の中心地か。緩やかな稜線を描く島の影は、見る間に遠くなっていく。
 鳴海は、甲板に立ってじっと島を眺めていた。
 冷たい風が、時折吹き抜けては鳴海のスーツの裾をはためかせる。
「やれやれってとこだな」
 ざらついた低い声に振り返ると、神南が操舵室から出てきたところだった。
 目が合うと、神南はにやりと笑って見せた。
「大丈夫ですか、傷の具合は…」
 鳴海の言葉に、神南は鼻を鳴らした。
「俺のことはいい。とにかくよ、あんたらが無事で何よりだった」
 照れたように横を向いたまま、神南はぶっきらぼうに言った。
「神南さん…」
 鳴海は言いかけて、神南の横顔を見つめたまま黙った。
 あの薄暗い船倉で、神南は言ったのだ。
『あんたらだけは助け出す…そのつもりだ』と。
「約束は守ったぜ」
 横を向いたまま、神南が言った。
 その時、その背後から瑞希が顔を出した。
「そうね。神南警部には感謝してるわ」
 明るい瑞希の声に、「警部補だ」と神南が相変わらずの調子で返す。
「ありがとう、神南警部」
 鳴海がそう言うと、神南はやっと視線を鳴海に戻した。
「警部補だっつってんだろ」
 言いながら、その目が笑っていた。
 鳴海も笑った。少しだけ、心に残る重苦しいものが薄れた気がした。
「さあ、神南警部。沢村さんが呼んでるわよ。怪我してるんだから、揺れる甲板は毒だわ。中に入って少し休んで」
 瑞希に促されて、神南は渋々と言った様子で船室に入っていった。船室はそれほど広くはないものの、乗り込んだ人数分の椅子があり、そこで一休みできるようになっていた。
 沢村やナツもそこで休んでいるはずだった。
 その時、若い男がこちらに近づいてくるのが見えた。
 男が真部と名乗っていたのを、鳴海は思い出した。
 あの時。
 柴からの連絡を受けた後、再び柴の操る車で向かったのは、地元漁船が多く停泊している真庭港の東区域だった。
 そこでエンジンを温めて待っていたのは、漁船と二人の男だった。
 一人は先刻の真部。もう一人は由井と名乗った。
 由井の紹介で、漁船が通称・親父さんなる初老の男が所有する船であることと、彼が北海道本土まで鳴海達を送り届けてくれると知らされた。
 ユージン・Kの部下の待ち伏せを考えると、どのみちフェリーでの移動は諦めるしかない。かといって、変わりの移動手段は思いつかなかった。何より、見ず知らずの鳴海達のためにあれこれ手を尽くしてくれている柴を始めとする桜木や由井、そして真部には感謝こそすれその提案を断る理由もなかった。ありがたく厚意に甘えつつ、鳴海達は漁船に乗り込んだのだった。
 後の始末があるからと鬼哭島に残った柴や桜木、由井とは違い、真部だけは鳴海達について漁船に乗ったのだった。今は、親父さんが舵を取っている。
「風が出てきましたが、この分なら夕方には本土に着くそうですよ」
 一見童顔に見える真部だが、物腰と声には落ち着きがあった。
 ふと、鳴海は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「真部さんは、どうして俺達のことを?」
 聞かれて、真部はにこやかに笑った。
「あなた方が悪い人には見えませんでしたからね」
 答えになっていない。それに自分でも気がついたのか、真部は頭を掻きながら続けた。「二宮さんの話を聞いているうちに、色々思うところがありました。我々も組織に身を置く人間ですが、基本はやはり自分で考える頭を持っているわけですから」
 言って、真部は彼方へと視線を向ける。
 吹き抜ける風は冷たいままだったが、鳴海には心地良く感じられた。それは、真部の言葉のせいもあるかもしれない。
「僕の先輩はいつもは頭が堅い人ですが、今回は違いました。あなた方を助けるためにいっちょやってやるか、と。僕もそれに乗せられたんですよ。それも、自分から進んで」
 真部は言いながら、恥ずかしそうに笑って見せた。
「それに、上司が言いましてね」
 頭が堅い先輩とは、由井のことだろうと予想できたものの、上司については鳴海はわからなかった。
「上司?」 
 訊き返されて、真部は頷く。
「上司の倉橋が、僕らに情報を流してくれていたんですよ。デモ隊の位置と動き、そして警察側の人員配置まで細かく流してくれたお陰で、柴にもあなた達をうまく逃がすルートを知らせることができたんです」
 倉橋、由井、真部の連携で、由井は柴に携帯電話を通じて安全確実なルートを知らせることができたのだ。結果、こうして船に乗って今は本土に着くのを待つばかりとなっている。
 そう考えるに、一度も会ったことがない人間にまで自分達は助けられていたことになる。
「その倉橋さんにも…感謝しなくては」
 鳴海が呟くと、真部は大げさに首を振った。
「そんな堅苦しく考えないでください。僕らは港湾管理センターの人間で、柴と桜木は港湾警備の人間。ともに港で困った人を助けるのも仕事の内ですからね。倉橋が言ってたのは、それとは別のことでしたが…」
 問いかけるようにじっと見つめると、真部が続けた。
「倉橋が言うには、『自分で考えて行動しろ。人間は思考する生き物だ』…だそうです。僕も由井先輩も、自分で考えて行動しました。そして、それは柴と桜木も同じはずです。それが偶々、あなた方を助けることだったと…そういうことにしておいてください」
 真部は言って、笑顔を見せた。どこか誇らしげな笑顔だった。その笑顔に、鳴海も笑みを浮かべて頷いた。
 思考する生き物、か。
 鳴海は彼方に視線を向けた。
 初めは、自分の意思ではなかった。だが、いつしか自分の意思で行動していた。自分で考えて行動したという真部と同じく、今回の件に関わった者はそれぞれが自分で考え、それに基づいて行動した結果、今に至っているのだ。
 見つめる先に、小さくなった鬼哭島の影がおぼろに霞んだ水平線の向こうに溶けていた。
 やがて、鳴海は船室に足を向けていた。
 船室の椅子には、見慣れた顔ぶれが揃っていた。
 神南の横に沢村、ナツ、瑞希の順に座っている。瑞希の横に鳴海が腰を下ろすと、それを待っていたかのように神南が口を開いた。
「これから、どうするよ」
 問いの相手は、例によって沢村だ。
「北海道本土に着いた後は、全員別行動を取った方が無難だ」
 その言葉に、ナツが沢村に目を向ける。
「全員まとまっていた方が、安全ではないですか?」
 沢村が「いや」と首を振る。
「追っ手が来ることも考えられる。まとまっていればそれだけ目立つ。ここは何人かで別れた方がいい」
 神南は腕を組んで「うーん」と唸っている。
「船が北海道本土に着いたら、そのまま空港に行きましょう」
 言ったのは瑞希だ。
「まとまっていて危険なのはわかるわ。でも、空港に着けばなんとかなるわよ。全員、飛行機に乗ってしまえば…」
 瑞希がそう言いかけた時、不意に神南が顔を歪めた。見ると、額には汗が浮いている。
 沢村が落ち着いた様子で、神南の肩に手をかけると足に視線を落として目を細めた。そのまま沢村は傍らに屈み込み、神南の足の傷を調べ始めた。
 少しして、沢村が口を開いた。
「傷が開きかけている…無理したからだ」
 沢村が淡々と言った。その落ち着いた口調は、沢村が医者のように思えなくもなかった。
「このまま、神南さんを長時間移動させるのは良くないな…」
 言いながらも、沢村はポケットから錠剤のシートを取り出した。シートから二錠取り出し、神南の口に近づける。
「水なしだと苦いけど、我慢して」
 言って、沢村は強引に神南の口に錠剤を押し込んだ。
「苦い」
「苦いよ。そう言ったじゃないか」
 沢村と神南のやりとりを眺めるうちに、鳴海は思いついた。
「じゃあ、こういうのはどうかな」
 その言葉に、その場の視線が鳴海に集中した。
 鳴海はゆっくりと説明を始めた。


 ポン、と軽い音ともに禁煙のサインが消えた。
 飛行機は水平飛行に移り、微かなエンジンの唸りを除けば空の旅とは思えないほどに静かだった。
 鳴海は窓の外を眺めた。
 目が覚めるような鮮やかな青空に、白い雲海が見渡す限りどこまでも続いている。
 今頃、神南は沢村とナツにともなわれて札幌の病院にいるはずだった。結局、思ったよりも傷の具合が良くない神南はすぐには移動は難しい状況だった。沢村がその付き添いに残ると言い、鬼哭島からあまり離れたくないというナツもそこに残ることになった。
 そして、鳴海と瑞希が最終的に同じ飛行機でひとまず東京に逃れることになったのだった。
 提案した時、あっさり却下されると覚悟していたが、意外にも沢村が鳴海の案を支持した。瑞希もそれに従い、それぞれが自分の意思で決めることで今の形に落ち着いたのだった。
 北海道本土の港に漁船を乗り入れて鳴海達を降ろした後、真部は親父さんとともに鬼哭島に引き返していった。
 彼らにも危険が及ぶことも考えたが、結局は沢村がその危険は低いと判断したことで、その場は別れた。
 何とか、無事に全員が逃げおおせられればいいのだが。
 まだ完全に安全とはいえない。
 それでも、鳴海はとりあえずは逃げられたという安堵にほっとしていた。
 ふと、隣の瑞希に目を向けた。
「瑞希…」
「何?どうしたの?」
 瑞希の口調も、落ち着いたものに変わっている。
「ひとつ思い出したんだ。その…博士のテープとレポート…」
 言い難そうに口ごもると、瑞希は一旦視線を外して俯いた。怒ったのかと鳴海は一瞬思ったが、次に聞こえてきた声は意外にも穏やかなものだった。
「…変なところで記憶力がいいのよねぇ」
 どこか困ったような口調だが、瑞希の口元には笑みが浮いていた。
「そうね…今なら話してもいいわね…」
 自分に言い聞かせるように呟くと、瑞希は鳴海を見た。
「テープとレポートは、今のところは無事よ。見つからないように隠しておいたの」
「どこに?」
 鳴海の問いに、瑞希は辺りを見回した。
 座席には空席も目立つ上に、他の乗客は近くには座っていない。というのも、航空券を買う時に、自動発券機の画面で乗客が少ない座席を選んだからでもあるのだが。
 いずれ、二人の会話に聞き耳を立てられるような至近距離には、誰も座っていなかった。
 それらを確かめて、瑞希は鳴海に視線を戻した。
「座布団の間よ」
「は?」
 思わず、鳴海は間抜けな声を出していた。
「ナツの家の座布団。忘れちゃった?一緒に行った時、座布団出してあげたじゃない」
 瑞希の言葉に、鳴海は記憶をたどった。
 瑞希と銃撃から逃げ、その後に訪問したナツの家…そこで、瑞希は鳴海に座布団を出してくれたのだ。その時に、瑞希はテープとレポートを茶箪笥の脇に重ねて置かれていた座布団の間に忍ばせたのだという。
「ナツには、後で携帯で知らせておいたの。ほら、研究所で…」
 鳴海はそこで頷いた。
 研究所の廊下に出た時、鳴海に背を向けて携帯片手に話していた瑞希の電話の相手はナツだった。その時に、瑞希はナツに知らせていたのだろう。
「人が悪いな…教えてくれてもいいじゃないか」
「あら。あなたが聞いたらいつだって教えてたわよ。でも、訊かなかったじゃない」
 それもそうだった。というよりも、そうした余裕がなかったからなのだが…。
「今のところは、無事…か。俺達の身元が割れているなら、近い将来それぞれの家もしらみ潰しに荒らされるかもな…」
「その前に、ナツが一旦鬼哭島に戻って私に送ってくれればなんとかなるわよ。それに…」
 思わせぶりに言葉を切った瑞希の顔に、鳴海は視線を戻した。
「それに?」
「…ユージン・Kに脅されたのよ。テープとレポートが隠し棚の中に入ってなかったのは、私が元々入れなかったからだとバレていたの。で、私はある場所を教えるのと引き換えに条件を出したってわけ」
「瑞希…」
 鳴海の顔を見つめ、瑞希は笑って見せた。
「そんな深刻そうな顔しないで。教えたけど、たぶんそれほど私の情報を信用していないと思うわ。だって、『今でも私の部屋にある』って嘘を教えたんだもの」
 鳴海はほっと息を吐いた。
「じゃあ、奴らの手に渡る心配は少ないよな…ところで、条件って?」
 訊かれて、瑞希は悪戯っぽく笑った。
「ヒミツよ」
 またそれか。
 そう思いつつも、鳴海は笑っていた。
「ヒミツ、ねぇ…」
 言って、鳴海は視線を窓の外に向けた。
 いつしか雲の切れ間から、太陽が顔を出して飛行機の銀の翼をきらめかせていた。
 それを眺めながら、鳴海はふと遥を思い出した。
 遥の顔が、ぼんやりと白い雲に重なって浮かぶ。
 俺が、何とかすればいい。
 今ある蓄えだけでは足りず、借金することになろうと、時期を見て遥と一緒に渡米しよう。藤村が鳴海の仕事ぶりに落胆し、会社を辞める羽目になったなら、その時はその時だ…。
「何を笑っているの?」
 瑞希が、横から鳴海の顔を覗き込んだ。
「いや…、ひとつ思い出したんだ」
 低いエンジン唸りと眩しい太陽の光を感じながら、鳴海は久しぶりに心の底から生きているという実感を味わっていた。自然に笑みがこぼれてくる。
「どんなこと?」
 瑞希がそっと訊いた。
「パンドラの箱からあらゆる災いが解き放たれた後、パンドラは慌てて箱を閉めるんだ。そうすると、最後にちゃんと残っていたんだ」
「何が?」
 鳴海は瑞希を見た。瑞希の口元にも笑みが浮かんでいる。久しぶりに見る瑞希の笑顔は、輝いて見えた。
「希望だよ」
 鳴海の言葉に、瑞希は笑顔で頷いた。

 

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