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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[3] 行方 2

 そこにいたのは、二十代の若い白衣の男だった。
 まだ学生だと言われても信じてしまいそうなほど、童顔でどこか頼りなげな風貌だった。色素の薄い茶色の髪が、窓から差し込む日に透けて金髪に見える。
 白衣を着てなければ、渋谷のセンター街辺りを歩いているのが似合いそうだと、鳴海は勝手に想像した。
 しかし、今の彼の顔色は蒼白だった。表情も暗く、じっと俯いている。
 ラットを飼育するこの部屋には、今は鳴海と彼しかいない。
『博士がどこにいるか、ご存知ないですか金田さん』
 鳴海がそう博士の所在を尋ねてから、数分が過ぎていた。
 室内には、強制換気ダクトの微かな唸りと、衛生のために外気を遮断したプラスチックケースの中で動き回る、ラットの立てるカサカサという音だけが響いている。
 実験用のネズミだというラットは、白い姿こそハツカネズミにそっくりだったが、大きさは倍以上だった。ネズミが苦手だという瑞希はそのラットを見るのを嫌がり、部屋の外で待っている。
「何か、知っているんですか?」
 鳴海の問いに、金田は唾を飲み込んだ。
 ごくりという音が、必要以上に大きく聞こえた。
「どうして…」
「え?」
「どうして、水野を捜しているんですか?」
 金田は、顔を上げて鳴海を見た。
 不安そうな面持ちが、迷子の子供のように見える。その様子に、鳴海はますます金田が何か知っているのでは、という思いが強くなった。
 鳴海が答えられずにいると、金田はラットのケースが並ぶ棚に目を向け、おもむろに口を開いた。
「さっきも、アメリカ本社の人が来て水野のことをあれこれ聞きまわってました。そ、それに所長室に勝手に入ったり…何がどうなってるんだか…僕にはさっぱり…」
 声が震えている。怒りによるものか、それとも不安によるものか。
「僕は博士の安全を確認したいんです。それに娘さんも…何か知っているなら教えてください」
「娘さん…冴ちゃんもいなくなったんですか?」
「そうです」
 冴ちゃん、と呼ぶからには金田は娘と面識もあり、博士とも親しいのではないかと鳴海は思った。
「博士は今、非常に危険な状態にあります。娘さんが一緒なら、娘さんにも危険が及ぶかもしれない。それに、持ち出した『例の物』についても…とにかく僕は博士と娘さんを助けたいんです」
 とにかく思いつくまま、鳴海はまくしたてた。もうひと押し、なんとか金田から手掛かりになる情報を引き出したかった。
 金田は『例の物』という単語に反応した。その言葉を聞いた瞬間、大きく目を見開いたのだ。
「金田さん」
 もうひと押し。
 金田は、じっと鳴海の顔を見つめた。
 やがて、金田が息を吐いた。
「…わかりました。知っていることを話します」
 場所を変えようという金田とともに、ラットの飼育室を出た。
 しかし、そこにいるはずの瑞希の姿はなかった。
 鳴海は廊下を見回したが、それらしい人影はどこにも見えない。
「どうかしたんですか?」
 金田が怪訝そうに訊く。
「連れがここで待ってるはず…駄目だ、いないな」
「捜しますか?」
「いや…先に話を」
 金田は頷くと、鳴海の先に立って歩きだした。
 廊下の突き当たりまで来ると、金田は立ち止まった。
 ドア脇のプラスチックのプレートは、不在となっている。その上には、所長室の文字。
「ここで?」
 鳴海の言葉に、金田は「そうです」と答えた。
「ここなら、他の研究員は来ませんから」
 と、金田はドアを開けた。
 しかし、部屋に入る前に二人はその場に立ち尽くした。
 応接室を思わせる広くゆったりとした部屋は、左側に木製のキャビネットがあり、右側にはガラステーブルを挟んで一人掛けのソファーが向かい合わせに四脚置かれている。入ってすぐ正面には、重厚な造りの木のデスクがあり、その脇には観葉植物の鉢植えが並んでいる。
 デスクの向こうには、淡く色づいてきた西の空に黒い森が影絵のように張り付いた窓があった。
 どこもこれといって変わった様子はない。しかし、二人が呆然となったのは、ワイン色のカーペットを塗り替えるかのように、部屋中に散乱した大量の白い紙だった。
 鳴海はキャビネットを見た。そこに収められていたファイルが、床に投げ出されている。辺りの白い紙はファイルの中身らしい。
 なおも呆然としたままの金田の背中を押し、鳴海は部屋に入るよう促した。
 ドアを閉めると、デスクの影で微かな物音がしていることに気がついた。
 この音は…。
 何かを軽く叩くようなリズミカルな音だ。鳴海はその音に聞き覚えがあった。
「誰かいるのか?」
 声に、その物音が止んだ。
「出てこい、そこで何をしている」
 少し声を荒げる。
 誰だろうと、荒らされた部屋でこそこそしているなら怪しい人間に決まっている。
 デスクの向こう側から、人影がすうっと立ち上がった。窓から差す光に、ぼんやりと浮かび上がった長い黒髪、柔らかなラインの後ろ姿は女のものだ。
「こっちを向け」
 鳴海は低く命じた。その声に、女がゆっくりと振り向く。
「瑞希…」
 鳴海は、ほっとため息をついた。
 それと同時に、瑞希が所長室で何をしていたのかという疑念が湧く。
 瑞希は鳴海から視線をそらし、俯いている。
「何をしていたんだ?」
「何も」
 鳴海は大股で瑞希に近づいた。足元でがさがさと紙が音を立てる。
 瑞希の傍らに立つと、肩越しに床を見下ろした。
「やっぱりな」
 鳴海の予想通り、床にはノートパソコンがあった。鳴海が聞き覚えがあると思った音は、パソコンのキーボードを叩く音だったのだ。
 電源を切ったのか、画面は真っ黒だった。
「何をしてたんだ?」
 鳴海は同じ言葉を繰り返した。
 瑞希は、ため息をついて横を向いた。
「瑞希」
 鳴海は瑞希の腕を掴んだ。瑞希が鳴海を睨む。
「わかったわ。言うわよ」
 言いながら、瑞希は鳴海の手を振りほどいた。
「手掛かりがないかデータを調べていたの。でも、何もなかった。奴らが…本社の連中が消したんだわ」
 鳴海は、じっと瑞希を見た。
 胃の辺りがむかむかした。ほんの少しの間、行動を共にしてきただけだが、裏切られたような腹立たしさがあった。
 思い出してみれば、研究所に来てから瑞希はどこか様子が変だった。落ち着きがなくなり、何より鳴海の目を見て話さなくなった。
 何か隠している。
 鳴海はそう感じた。
 今の鳴海には、瑞希の言葉をそのまま信じることはできない。
「あの、連れの方って…」
 金田が、おずおずと声をかけてきた。鳴海が目だけを動かして見ると、金田はまるで殴られそうになったかのように首をすくめて黙り込んだ。
 駄目だ、また睨んでしまった。落ち着け、落ち着け…。
 鳴海は目を閉じた。眼鏡を押し上げ、ふうっと息を吐き出す。
 つい、感情が高ぶると自分の目つきに意識がまわらなくなってしまう。かつて、眼鏡をかけずに怒り狂いながら通りを歩くと、誰もが鳴海を避けて通ったのを思い出した。
「えーと…すまない。そう、彼女は俺の連れだ」
 少し気持ちが静まるのを待って、鳴海は瑞希を紹介した。
 金田は鳴海の顔をちらちらと気にしながら、瑞希を見た。瑞希は、ふてくされたように鳴海からも金田からも目をそらし、横を向いている。
 そんな瑞希の横顔を見つめ、金田は「あれ?」と首を傾げた。
 しばらくじっと瑞希の顔を見た後、金田の表情がぱっと明るくなった。
「なんだ、瑞希さんじゃないですか」
「えっ?」
 鳴海は瑞希と金田を見比べた。
 瑞希は、はーっと長いため息をついて金田を見た。そして、鳴海を見る。
「知り合い…か?」
「知り合いも何も」
 瑞希の代わりに、金田が答える。
「瑞希さんは、博士の姪ですよ」
「な…何?」
 鳴海は金田と瑞希を交互に見比べた。
 博士の姪だと? 鳴海は性質の悪い冗談を聞いた気分だった。
「瑞希、本当か?」
 瑞希は頷いた。上目使いに鳴海を見る。悪戯を見咎められた子供のような顔だ。
「そう、私は水野慎一郎の姪よ」
 言って、瑞希は金田を見た。
「お久しぶりね、金田クン」
 金田は嬉しそうに「はい」と元気よく返事をした。
「春先に、ジンギスカンを食べに行って以来ですよね」
 心なしか弾んでいる金田の声に、鳴海は頭に片手を当てた。
 呑気な研究員と話していた時と、同じような脱力感を感じる。
「騙したな」
 鳴海の一言に、瑞希は露骨に顔をしかめた。
「人聞きの悪い。言わなかっただけよ」
「どうして」
「信用できなかったの」
 一度はおさまった腹の虫が、再びむかむかと立ってきた。
「怖い顔しないで。ちゃんと話すわ」
 今度は、鳴海の目をまっすぐ見て瑞希は言った。


 バシン、という鋭い音ともに、細い身体が不自然にはね上がる。
 先刻から、辺りにはピーという電子音が鳴り響いていた。
 白衣の医師数人と、早口で何か言い合いながら看護婦が忙しく動き回る。
 バシン。
 パッドを押しつけられるたびに、ビクンとはね上がる身体。しかし、ベッドに沈んだ身体は人形のように生気のかけらもない。
 ナツは、じっとその様子を眺めていた。
 倒れた加藤邦弘は、そのまま危篤状態に陥った。すぐさま駆けつけた看護婦によって処置室に運ばれたが、その後間もなく心臓が停止、医師達が蘇生を試みて数分が過ぎた。
 心停止を示す電子音は、なおも鳴り続けている。
 ナツの傍らには呆然とした武彦と、ハンカチを手に泣きじゃくる満代の姿があった。
 廊下から見守る三人の前で、痩せ細った加藤の身体が白衣の間に見え隠れする。
 その時、ナツは奇妙なものを見た。
 加藤の身体に、二重写しのように何かの姿が重なって見えた。半透明の黒いベールのようなそれが、医師が電流を流すパッドを加藤の身体に押しつけるたびに、苦しげにのたうちまわる。
 何だろう、あれは。
 ナツが目を凝らすと、それはゆらゆらと形を崩して煙のように消えてしまった。
 気がつくと、電子音が止んでいた。
 しばらくして、医師の一人が満代の前にやってきた。
 何事かを話している。聞き終えるか終えないうちに、満代は崩れるようにその場に座り込んだ。
 武彦が、満代の肩を抱いてそっと立ち上がらせる。
 その様子にいたたまれない気持ちになりながら、ナツは再び加藤に目を向けた。
 看護婦達が、取り付けられた様々な機器から加藤を解放していく。最後にモニターから、直線のまま二度と波形を描くことはなくなったグリーンのラインが消えた。
 再び、加藤の身体に異変が起きた。しかし、片付けに忙しい看護婦は気づかない。
 加藤の耳から、黒いものが出てきた。
 ナツは目を見開いた。
 虫…?
 背筋に悪寒が走った。耳から動くものが出てくるなど、気味が悪い以外の何物でもない。しかも、加藤はすでに死んでいるのだ。
 くねくねと身をよじらせた漆黒のそれは、すぐにぐったりと耳の穴から垂れ下がった。そして、ゆるゆると形を崩すと、枕に黒いシミを作った。
 死んだ…。
 ナツは呆然とそのシミを見つめていた。
 窓の外は、燃えるように鮮やかな夕焼けだった。ナツには、それが何故か血の色に空を染め上げながら落ちていく、夕陽の断末魔に感じられた。


 香ばしい香りが辺りに漂っている。
 鳴海は、所長室のソファーに腰を下ろしてコーヒーをすすっていた。
 コーヒーは、床に散らかった紙…ほとんどはハーブに関する資料 …を片付けてから、所長室に隣接する給湯室で金田が入れてきたものだ。
 鳴海はコーヒーを飲みながら、窓の外に目を向けた。
 夕陽が、空を赤く染めて西の森へ姿を隠そうとしている。
 鳴海の向かいには、同じくコーヒーを飲みながら金田が居心地悪そうに座っていた。ちらちらとこちらの顔色を窺っているのは、鳴海の目つきがまた鋭くなっているせいかもしれない。
「黙っていたのは、あなたが信用できなかったからよ」
 鳴海は隣に座った瑞希を見た。
 瑞希は俯いて、手にしたコーヒーカップをじっと見つめている。
「今朝、伯父の家に行った時には、家はもうあの有り様だった。伯父も、冴もいなかった。伯父に言われていた通り…私は連絡した」
「誰に?」
 瑞希は顔を上げて鳴海を見た。
「藤村よ。伯父には、何かあったら藤村に連絡するようにといつも言われていたから。連絡すると、藤村は伯父を捜すために社員を一人派遣するから、そこで待つようにと私に言ったわ。…そしてあなたが来た」
 鳴海はなるほど、と頷いた。
 瑞希から連絡を受けた藤村は、会社に出勤後、すぐに派遣する社員に鳴海を選んだというわけだ。
「藤村に伯父の家の惨状を伝えたら、とにかく警察には通報せずに待てと言ったわ。私はそんな藤村を信用してないの。だから、その藤村が派遣したあなたのことも信用できなかった…だから黙ってた」
「本当のことは、か?」
 鳴海の言葉に、瑞希は頷いた。
「どこまでが本当なんだ?」
 苛立ちを押さえつつ、鳴海は低く訊いた。
「伯父がアメリカ本社の人間に脅されていたのは本当よ。そして、『例の物』を渡すよう迫られていたのも。『例の物』に関する実験データ、それに彼らとのやりとりを録音したテープを新聞社に送ろうとしていたのも本当だし、それを私が預かっているのも本当よ」
「新聞記者だというのは?」
「二年前まで新聞社で働いていたから、全く嘘ってわけじゃない。今は、冴の食事の支度や掃除に洗濯…伯父の家の家政婦って所ね」
 鳴海は、博士の家で瑞希に出会った時のことを思い出す。
 あの時、瑞希は勝手知ったる我が家も同然の家で、まんまと鳴海を騙したのだ。
「博士の寝室であの文字を見た時のあんたは、女優になれる名演技だったよ」
 言ってコーヒーを飲み干した。瑞希は肩をすくめて見せる。
「米軍ってのも嘘だな。俺達を銃撃したのは、ここに来た本社の連中と同じだろう?」
「その通りよ」
 鳴海はもうひとつあることに気がついた。
 瑞希がここに来た時に様子がおかしかったのは、金田と顔見知りだったからだ。金田に一目会ったら、瑞希の嘘はバレる。だからこそ、ラットの飼育室に入ろうとしなかったのだろう。
「そこのパソコンに入っていたデータは、私がここに来た時にはすでに消されていた。それに、この部屋を荒らしたのも私じゃないわ」
 その台詞も、どこかで似たようなのを聞いたな。
 鳴海は、妙に冷めた心の中でそんなことを呟いた。
 瑞希が自分のことを信用するなと言っていたにも関わらず、彼女の言葉に何ひとつ疑いを抱かなかった自分に気づく。銃撃から二人で逃げた時、共に危機をくぐり抜けたことで鳴海は瑞希を信じてしまっていた。
 あまりに非日常的な目に遭ったせいで、その後のどんな話もすんなり受け入れてしまった…というのは、言い訳だろうか。
 そんなことを考えながら、鳴海はため息をついた。
「他にも何かあるか?」
 何か言いかけて、瑞希は言葉を飲み込んだ。
「…これで全部よ」
「それじゃ…えーと」
 鳴海は金田を見た。鳴海の言いたいことがわかったらしく、金田は頷いた。
「水野博士の行方でしたね」
「博士は九日、あんたに連絡した?」
 はい、と金田は頷いた。
「博士から連絡を受けました。そして…」
「博士は『例の物』を持っていたはずだ。車…博士の黒塗りのベンツだが、運転は博士自身がしたかもしれない。博士とあんたはそれに乗り、どこかの砂浜に行ったんじゃないかと俺は思う」
 金田の顔に、みるみる驚きの表情が浮かんできた。それは瑞希も同じらしく、じっと鳴海の横顔を見つめる視線が頬の辺りに気配で感じられた。
 鳴海はシートについた砂と、雨の中を走ったらしい車にはねた泥、そしてメモから思いついたことを言ってみた。
 金田の顔を見る限り、それは当たっているらしい。
 ごくりと唾を飲み込むと、金田は頷いた。
「そうです。博士は僕に、自宅の方に来てほしいと電話で連絡してきました。僕は言われた通り、車で博士の家に行きました。夜の八時頃だったと思います」 金田は、ゆっくりと言葉を確かめるように話し始めた。
 その日、早めに亘理の自宅アパートに戻った金田は、水野博士から自宅の方に来てほしいと電話を受けた。金田は博士に信頼されており、研究所では博士の右腕として働いていた。
 公私ともに付き合いがあり、時折博士の家に食事に招かれることも多かった。亘理からは、一時間半の距離にある博士の住む真庭市の自宅に呼び出された時も、また食事か飲みに行く誘いだと思い、金田は二つ返事で車を走らせたという。
 博士の自宅に着く頃には、午後十時を過ぎていた。空には、漆黒の雲が月明かりに透けて、とぐろを巻く蛇のように蠢いていたという。
 金田が博士宅に着くや否や、すぐさま今度は博士の車に乗り、つい今しがた金田が辿った道順を逆に辿り、亘理を抜けた。
 車を走らせるうちに、フロントガラスに雨粒がぽつぽつと落ち始めた。
 博士の顔には、いつもの穏やかさはかけらもなかった。ハンドルを握りしめ、厳しい面持ちでフロントガラスの向こうを睨んでいる。
 金田は一向に停まる気配のない車に不安を覚え、博士に行き先を訊いてみた。
 しかし、博士はわからないと答えた。
「どこに行くのか、伯父は決めてなかったってことなの?」
 瑞希が不思議そうに訊いた。
「そう思います」
 金田は答える。
「博士はあてもなく車を走らせているようでした。時々、ルームミラーで背後の車を注意深く眺めたりしながら」
 アメリカ本社の人間の尾行を恐れていたのか?
 銃を乱射する金髪の大男を思い出す限り、鳴海には博士の心境も容易に理解できる気がする。
「博士は、その時どんな感じだった?」
「まるで人が変わったみたいで…そういえば、自宅にいたのに博士は白衣のままでした。博士は、週に何回かしか自宅に帰らない人なんですが、その日は早くに帰ったんです。着替えもしないで、自宅で何をしていたのかはわかりませんが、僕が行った時はひどく焦っているようでした」
 金田はひと息ついて、先を続けた。
「大雨で、対向車はほとんどありませんでした。博士はそんな雨の中を、ただひたすら…車を走らせたんです」
 やがて、博士と金田を乗せた車は、鬼哭島最南端の外れの岬に着く。博士はそれでも車を停めようとはしない。そこからさらに車を走らせた先の何もない砂浜で、博士はやっと車を停めた。
 博士は金田を車に残し、トランクを開けると中から何かを取り出した。
 雨の中、金田も車を降りた。そこで博士が持つジュラルミン製らしい、銀色の箱を見る。それは何かと聞くと、『例の物』だと博士は答えた。
 例の物。
 聞いた途端に、金田は博士がしようとしていることが飲み込めたと言う。
 博士はこの砂浜に、『例の物』を廃棄しようとしているのだ、と。
 金田が呆然としていると、博士は車のベッドライトを頼りに両手で砂に穴を掘り始めた。
 大粒の雨が、暴風に乗って弾丸のように二人の身体を叩く。ずぶ濡れになりながら、博士は素手で穴を堀り続けた。そして、金田には一人で帰るように言った。
 金田はそんなことはできないと言ったが、博士は箱を埋める作業に没頭していて耳を貸そうとはしない。手伝おうと身を屈めたら、いらないと乱暴に突き飛ばされ、金田は濡れた砂の上に尻餅をついた
。 金田は仕方なく車に戻り、震えながら博士の作業が終わるのを待つことにした。
 一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。
 しかし、いつまで経っても博士は戻らない。
 金田はシートから身を乗り出し、車の前方で屈んでいたはずの博士の姿を探した。
 博士の姿はなかった。
 慌てて車から降り、辺りを探したが博士の姿はどこにも見えない。
 金田は一人暴風雨にさらされ、遠くでうねる波が砕ける音を聞きながら、必死に辺りを捜索した。助けを求めようにも、辺りに民家は一戸もなく、車には懐中電灯があっても目が開けられないほどの風雨では話にならない。
 大声で博士を呼んでも、金田の声は雨や風、波のうねりにかき消されてしまう。
 やがて金田は渋々、博士の言葉通り先に帰る道を選んだ。
「博士の自宅に戻る頃には、もう夜が明けようとしていました。僕は博士の車をガレージに入れ、鍵はつけたままにしておきました。そして、自分の車で亘理のアパートに戻ったんです」
「鍵をつけておいてくれて良かったわ」
 瑞希は金田を見、鳴海を見た。
「まったくだ」
 鳴海もその意見に同感だった。
 博士の車に鍵がついていなかったら、今頃二人はあの薄暗いガレージの中で撃たれて死んでいたかもしれない。
 まさに紙一重の偶然で、鳴海と瑞希は命拾いしたのだ。
「…博士はどこに行ってしまったんでしょうか」
 金田が、ぽつりと呟いた。
「俺もそれが知りたいよ」
 鳴海はため息とともに吐き出した。
 それがわかれば、こんな苦労はせずに済むのだ。
「僕は、博士の言う通り…先に戻るべきじゃなかったと後悔しています。博士の姿が見えなくなった時点で、警察に通報すれば…こんなことには…」
 言って、金田は唇を噛みしめた。
 確かに、その時点で警察が動いていれば、状況はもっと変わっていたはずだ。
 破壊し尽くされた博士の家の内部を見れば、警察はそこから犯罪の可能性を疑うだろうし、警察の捜査能力をもってすれば、博士も冴も簡単に見つけられるようにも思う。そうなると、鳴海や瑞希の出る幕ではなくなるが。
「金田クン、あなたが家に行った時に冴は見なかった?」
「そういえば…見てません。てっきり部屋にいるものだと…」
 瑞希は、顎に手を当てて考え込んでいる。
 少しして、呟いた。
「伯父が砂浜でいなくなったなら…冴はどこに行ったのかしら」
 その一言に沈黙が降りた。
 博士が九日の夜、砂浜で姿を消したのはわかった。しかし、それならば娘は一体いつ、どこに行ってしまったのだろう。
「冴は…自分からどこかに行くような娘じゃないのよ。絶対に家の外には出ないんだもの。伯父が一緒なら、家から出るかもしれないと思っていたけど…」
「絶対に外に出ない?」
 鳴海には、瑞希の言葉が妙にひっかかった。自主的に、絶対に家の外に出ないとはどういうことなのだろう。
「冴は…ちょっと事情があって」
「身体でも悪いのか?」
「そうじゃなくて…心の問題を抱えているの」
 心の問題…?
 写真に写った冴の無表情さ。それに、極端に色一彩に乏しい病室のような冴の部屋。それらを思い出して、鳴海はそれ以上瑞希に訊くのをやめた。
 そういった個人的な事情には、深く立ち入るつもりはない。冴の心の問題は、今回の件には無関係だからだ。
 しかし。
 事情はどうあれ、冴が博士同様に行方不明である事実に変わりはない。しかも、自主的に外出しない娘が家から姿を消している。だとすれば、連れ去られたと考えるのが妥当だ。
「冴ちゃんも、『例の物』のせいで行方が…?」
 瑞希は無言だ。金田は鳴海に目を向けた。
「…今は何とも言えない。ただ、その可能性は高いと思う」
 暗い面持ちで、金田は曖昧に頷いた。
「でも、どうして今頃、博士は『例の物』を廃棄する気になったんでしょうか。そのことが、関係しているんですよね?」
 鳴海が答えられずにいると、瑞希が代わりに訊いた。
「金田クンは、埋められた箱の中身は見たの?」
「いえ。けれど、箱ごと埋めるのは見ました」
「あなたは『例の物』が何なのか知っているみたいね」
 金田は瑞希の顔を見、鳴海の顔に目を向けると俯いた。
「知っています。五年前の事件からずっと」
「五年前の事件?」
 金田は頷く。
 鳴海には、五年前に起きた事件というのは初耳だった。
 藤村から渡された資料には、五年前に博士は研究所の所長になったとしか記されていない。藤村はそんな事件のことは知らなかったか…あるいは鳴海には必要ないと思ったのか。
 どちらにせよ、『例の物』を知る上では重要なことに思える。
「『例の物』って一体何なんだ?」
 鳴海の問いに、金田は息を吐いた。そうしないと落ち着けないとでもいうように、静かに深呼吸する。
 そうして、ゆっくりと金田は言った。
「博士は、それをパンドゥーラと呼んでいました」

 

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