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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[6] 思惑 2

 相手の一言に、金田は緊張した。
 まさか、パンドゥーラの被害者の死体がここにあることがバレたのだろうか?二階から前庭の植え込みにある死体を誰かが見つけて…。
「もしもし?」
 金田が黙り込んだことを、不審に思ったらしい。相手の語尾がわずかに上がった。
「あ、すみません。どのようなご用件でしょうか」
 金田は、慌てて言った。
「私、真庭署の神南と言います。あのですね、今からそちらに伺って、二・三お聞きしたいことがあるんですが…研究所にはどのくらいの人が残ってますかね」
「はあ…残ってるのは三分の一くらいだと思います。それで、お聞きしたいというのはどのようなことでしょう?」
「水野慎一郎氏は、そちらの所長さんですよね」
 相手の言葉に、金田は胃の辺りがぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
 まさか、水野博士に何かあったのか?
「そうです。でも、それが何か?」
 おずおずと聞いてみる。
 嫌な予感がした。
「今日、水野慎一郎氏の住宅でちょっとした事件がありましてね。聞けば、水野氏は数日前からお留守とか…そちらに今日の午後、別の者がお聞きしたところ、九日からお休みだそうで。…何か所長さんから聞いてませんか。どこか旅行に行くとか、出かけるとかそういったことは?」
「い、いえ。聞いてません。所長の行方を捜してるんですか?」
「うーん」
 と、相手が唸った。何か考えているようだ。
「そればかりじゃないんですがね。とりあえず、これからそちらに伺います。失礼ですが、あなたのお名前は?」
「金田です」
「金田さん…ね。では、一応守衛さんに話通しておいてくれませんか。そこ、チェック厳しいでしょうから」
「あ…」
 守衛。
 そこで、金田は思い出した。
 緊張したまま、相手の話のペースになすがままでいたが、前庭には今も守衛の死体が転がっているのだ。
「す、すみません。あの…!」
「はい?」
「守衛が…その、死んでいるんです」
 ゆっくりと深呼吸すると、金田は息とともに言葉を吐き出した。
「死んでるぅ?」 
 相手の声が、わずかに低くなった。
 言ってしまってから、金田は後悔し始めている。
 これでよかったのだろうか。
 鳴海と瑞希は、警察には知らせたくないようだった。けれど、もう遅い。遠からず警察が水野慎一郎の失踪に気づき、その行方を追い始めたなら、必ずここに行き着く。守衛の死体とて、そこにある以上誰か彼かが気づくのだ。どちらにせよ、警察が動き出すのは時間の問題だった。 それが、少し早まっただけのことだ。
 必死にそう自分に言い聞かせながら、金田はさっきよりもはっきりとこう言った。
「研究所の前庭で、守衛が二人死んでいます」
「…間違いありませんね。確かに死んでいると?」
 相手の声質が、微妙に変化していた。一層低くなった声で、念を押すように聞いてくる。
「間違いありません。危険な生物がいて…その、早く来てください」
「わかりました。いいですか、落ち着いて待っていてください。それより、先ほど電話に出られた時に、何故最初におっしゃってくれなかったんですかね?」
「すみません、動揺して…その…あ」
 金田は、窓の外に目を奪われた。
 窓の外、ぼんやりとライトに照らされた植え込みの辺りに、人影が動いている。
 ひとつ、二つ…全部で五人。
 ライトに照らされた五人の人影は、暗いせいもあって真っ黒な影絵に見える。しかし、よく目を凝らして見ると、背が高くがっしりとした輪郭から、どうやら男であるらしい。
 ふと、影のひとつが止まった。
 途端に、金田の心臓が跳ね上がる。
 こっちを見ている…。
 金田がそう感じた途端、その考えに呼応するように影がこちらに向かって動き出した。
 見る間に、影が大きくなる。
 やがて、影はガラス戸を開けて金田のいるロビーに入ってきた。
 一目で外国人とわかる男達は、いずれも堂々たる巨漢だ。中でも、先頭に立って歩いている男は、その容貌も雰囲気も異彩を放っていた。
 ぴったりとオールバックにした黒髪に。浅黒い肌の精悍な顔立ちに鋭い灰色の眼。岩のようなそのごつい風貌が、屈強そうな体格とあいまって平凡なビジネスマンには見えない。ダークグレーのスーツを着込み、悠然と歩く姿はどこか獰猛な熊を連想させる。
 昼間に彼らが来た時に、男がユージン・Kと名乗っていたのを金田は思い出した。
 ユージン・KのKはKleinのK。つまり、アメリカ本社は経営者の血族なのだと、金田は誰かに聞かされていた。
 そのユージン・Kは入ってくると、カウンターの金田に目を向けた。視線には、感情が一切感じられない。
 不意に、ユージン・Kの右手がスーツの内側に滑り込み、銀色の物を掴み出した。
 ユージン・Kが手にしたもの見た途端、金田は凍りついたように動けなくなった。 
「もしもし?金田さん?」
 受話器の向こうで、相手が語気を強める。しかし、答えられない。
「受話器を置くんだ、金田」
 ユージン・Kの口から、流暢な日本語が漏れた。口調は静かだが、人間が話しているような温かみがまるでない。
「もしもし?もしもし?」
 耳から受話器を離すと、相手の声が遠くなった。金田はゆっくりと、受話器を電話に戻した。
 ユージン・Kが満足そうに頷いた。
「君には昼も会ったな。…さて、どうしようか」
 言いながら、ユージン・Kはにやりと笑った。
 酷薄そうなその笑みに、金田は後悔した。
 やはり、鳴海達と一緒に行くべきだった、と。


 海は、まるで黒い油のようにてらてらと粘着質な輝きを見せている。
 港に設置されたライトは、ことごとく霧雨にぼんやりと煙っていた。
 しっとりと包み込むような霧雨は、傘を差しても意味がない。そのくせ、この時期の雨特有の気温が一気に下がるという点だけは同じだから、雨に濡れればそのまま風邪をひきかねない。
 やっかいだよなぁ。
 時折、目の前を行き来するワイパーと、その向こうの雨に濡れたターミナルビルを眺めながら、二宮は心の中で呟いた。
 派出所に戻り、もう一人の駐在勤務の同僚に事情を説明した後、二宮は大急ぎで着替え、自分の車を運転して神南から渡されたメモに記された住所に向かった。
 ほとんど足を運んだことのない第六区に、何故行かなければならないのかと疑問を抱えたまま着いた先は、何のことはない。神南の部屋だった。
『おっ、普通の格好だな。誰かと思ったぜ』
 開口一番、二宮の姿を見て神南はそう言った。
 二宮の格好は、薄手の長袖Tシャツにジーパン姿だが、確かに警察官の制服に比べれば普通ではある。それをことさら言われたことに、二宮は密かに脱力する。
 そして、神南の部屋のあまりの散らかりように心底驚いた。
 結局、せんべい布団の上に座らされた二宮は、深く深くため息をついた。
 しかし、こんな仕事は嫌だと逃げ出すわけにも行かず、神南の説明をおとなしく聞くことにした。
 神南のプランでは、これからもう一人助っ人が東京から来るらしい。その人物を二宮の車でフェリーターミナルまで迎えに行き、そこから三人で研究所に行くということになった。
 警察の捜査に民間人などもってのほか、何を血迷ったことを言っているのかと神南に言うより前に、二宮はこれが警察の捜査ではないのだと気づかされた。
 私服に着替えろ、と神南が二宮に言ったのは警官に見えないようにするためだ。その時点で、神南は警察官としての捜査を捨てている。
 つまり、これから神南と二宮、まだ見ぬ助っ人が行うのは非公式な捜査なのだ。
 やっかいだよなぁ。
 二宮は再び呟いた。
 今頃、神南は助っ人をフェリーの乗客降り口付近で待ってるはずだ。
 ここでエンジンをかけたまま待つように指示されて、三十分が過ぎようとしている。
 二宮がいくらフロントガラスの向こうの闇に目を凝らしても、てらてらとライトの光に鈍く光る真っ黒い海の向こうに、フェリーの姿は見えなかった。その脇の三階建てのターミナルビル沿いの護岸には、すでにフェリーは着いているのだろうか。
 二宮が腕時計を見ると、九時二十分をいくらか過ぎている。
 外に出た途端に全身を包み込む霧雨もやっかいだが、非公式捜査を自分が手伝わなければならないのは、もっとやっかいだと二宮は思う。
 真面目に交番勤務していれば、いずれ本署に異動、刑事になるのも夢ではないと思っていた二宮だったが、こんな形で刑事の捜査を手伝う羽目になるとは予想外もはなはだしい。
 しかも、その刑事が優秀らしいがどうにも型破りな男で、二宮の理想とはかけ離れているときている。これからその型破りな神南と、そんな神南の手伝いをするのだからたぶん型破りに決まっている助っ人と行動をともにすることを思うと、二宮は気が重い。
 はーっとため息をついたその時、後部ドアが勢いよく開いた。
 湿った冷たい夜気とともに、聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。
「おう、早く乗れ」
 神南に背中を押されて、誰かが乗り込んできた。
 二宮が首をひねって見ると、若い男と目が合った。
 さらりとした癖のない黒髪、その下の切れ長の眼。すっと伸びた鼻筋と、形の良い唇。年の頃は二十六・七。思わず見とれてしまうほどの整った顔立ちなのだが、色男というほどの甘さがまったく感じられない。むしろ触れれば切れるような凄み…危険な気配をまとった男だ。
 白いシャツに黒のジャケットと黒のスラックスのモノトーンがよく似合っている。荷物は膝に乗せたブリーフケースだけ。東京からはるばる遠出してきたにしては、ずいぶん軽装ではある。
 しかし、てっきり神南同様、良くも悪くも型破りな人物だろうと思っていた二宮には、男の整った容姿は意外だった。
「コイツが助っ人の沢村だ。沢村、コイツが巡査の…えーと」
 二宮が呆然としていると、のそりと乗り込んでドアを閉めた神南が、男…沢村の横でぶっきらぼうに紹介する。 
 それにしても、いい加減名前ぐらい覚えてもらえないだろうか。
「僕は二宮です」
 内心、ため息をついて二宮は言う。
「おう、そうだ二宮だ」
 神南がポンと膝を打った。
「沢村といいます。よろしく」
 言いながら、沢村が頭を下げた。
「あ、こちらこそ」
 慌てて二宮も頭を下げる。
「よし、兄ちゃん。研究所に向かってくれ」
 神南が、二人の挨拶をさっさと切り上げた。
 兄ちゃんじゃないって言ってるのに。
 二宮はむっとしつつも、前を向くとサイドブレーキを戻した。
 ゆっくりと車を出す。
 ここに来る時は助手席に乗っていた神南が、後部座席に沢村とともに乗り込んだということは、彼と何か話すつもりなのだろう。
 二宮はそう思いつつ、時折ルームミラー越しに二人の様子を観察した。
「…それで、これから研究所へ?」
「そう。さっき言ったように、水野は三日前から所在不明なんだ。研究所の所員に、それについていくつか聞いてみたいしな」
「家が荒らされ、壁には銃痕。それに加え、シャッターを突き破って逃走した車…確かに事件性はありそうだ」
 沢村は淡々と言った。落ち着いた声には、何の感情も含まれていない。
 神南は沢村を車まで案内する間に、水野失踪について説明していたらしい。
「ところで、神南さん。これから我々が行くこと、研究所には連絡してあるんですか?」
「いや。してない」
 沢村の問いに、神南が首を振る。
「しないとマズイんじゃないかな。ああいった企業の研究所は、たとえ警察が相手でもセキュリティ・チェックが厳しいから。一応、話ぐらいは通した方が無難だ」
「チッ、面倒だなぁ」
 言いながら、神南が携帯電話を取り出した。
 やがて、神南が電話の向こうの人物と話し始めると、沢村が身を乗り出して二宮が座っているシートに手をかけた。
「今、走っているのはどの辺り?」
「あ、えーと…真庭市の南ですね」
 肩の辺りに沢村の気配を感じつつ、二宮は辺りを確認して答えた。
「南…北へ行くと中心街、西へ行くと研究所、だったかな」
「よくご存知ですね。以前もこちらに?」
「いや、地図見て地名と位置を覚えてきただけ。実際に来るのは初めてだよ」
 沢村は、二宮の肩越しにフロントガラスの向こうを眺めているらしい。
 霧雨で煙った夜の闇に、ぽつぽつと倉庫の漆黒の影が並んでいる。
 この辺りは、倉庫と会社関係の資材置き場が集中している区画だ。フェリーの発着時には一時的に車が行き交うものの、夜間になるとまったく人気がなくなる場所でもある。
「残念だな。景色が見れないのは」
 ぽつりと、沢村が呟いた。見かけによらず柔らかな物言い…意外と人当たりが良いらしい。
「でも、この辺りは何もないですよ。何ていうか、観光には向かない所ですし…」
「死んでるぅ?」
 二宮の言葉を遮った神南の声は、先刻よりわずかに低くなっていた。にも関わらず、二宮にははっきりとその一言が聞こえた。
 沢村も、緊張した神南の声に何かを感じ取ったらしい。二宮の肩の辺りから、その気配がすっと遠のいた。
 神南が、電話の向こうの相手に確認している。
 どうやら研究所で死人が出たらしい。
 しかし、神南が話している途中で、相手は急に話すのをやめたようだ。神南が何度か呼びかけたが、反応がなくなったらしく、やがて渋い顔で携帯を切った。
「どうしたんです?」
 沢村が訊く。
「わからねぇ。金田という研究所の人間なんだが、話している途中で突然前庭で守衛が二人死んでると言ったかと思ったら、急に黙り込んじまって…いや、違うな。誰か入ってきたみたいだった。何か話してたんだが、結局切れちまった」
「何かあったんでしょうか?」
 たまらず、二宮が訊いた。しかし、返ってきたのはにべもない一言だった。
「だから、わからねぇよ」
 神南がぼりぼと頭を掻きながら、携帯を内ポケットにしまった。
「行ってみればわかるよ。その金田って人の言うように死体か何かあれば、神南さんと二宮さんの出番だ」
 沢村が、落ち着いた声で静かに言った。そのさらりとした言い方は、暗に何かあっても自分は何もしないと言っているようにも聞こえる。そんな沢村の口調に、神南がすかさず反応した。
「馬鹿、何かあったらお前も働くんだよ。そのために呼んだんだから」
「わかってますよ。俺も仕事だからね。必要とあれば何でもする。でも、死体が出たなら、とりあえず警察の出番だろうから」
「捜査は警察の本領、調査はお前さんの本分だぞ。やることはどっちも似たようなもんだろうに」
「はいはい」
 沢村は軽く神南の言葉を受け流している。
 そんな二人の様子を見ていると、死体の話をしているというのに二宮には緊張感がまったく感じられなかった。 
 それに、沢村は『仕事』と言った。ならば、彼はこういった非公式捜査…あるいは調査を仕事にしているということになる。だとすれば、二宮の予想通り神南のような型破りな人種に違いない。
 それでも。
 二宮の気分は、先刻よりもいくらか軽くなっていた。
 神南よりはマトモに思える沢村のせいなのか、それとも非公式捜査が死体の出現によって公式捜査に変わるという期待によるものか…その両方かもしれない。
 闇をにじませる霧雨に濡れながら、車は一路、南西は第二開発地域・亘理へ向かってひた走っていた。


 不意に、ヤカンがカタカタと揺れ、白い蒸気を吹いた。
 いつしか考え事をしていたナツは、慌ててガスを止めた。
 ヤカンの蒸気が少し収まるのを待ち、ポットに熱湯を移す。それが済むと、急須に茶葉を入れ、湯飲みにお湯を注いだ。
 湯飲みが温まるのを待ってから、今度はその湯を急須に注ぐ。そうして入れたお茶は、適度な温度で美味しく飲める。
 ナツにお茶の入れ方を教え、一緒に飲んでいた祖母は、今はいない。
 去年の秋に風邪をこじらせ、あっけなく肺炎でこの世を去ってしまっていた。
 その祖母がいなくなっても、一度身についた習慣はなかなか抜けないものらしい。ナツは一人になっても、祖母がいた頃と同じように、日に何度かお茶を入れ、飲む癖がついてしまっていた。
 居間に戻って一人お茶を飲みながら、ナツはふと祖母を思い出した。
 穏やかな微笑み、どことなくナツの母に似ている、柔らかな卵形の顔と優しい眼差し。季節に関係なく小さな背中を丸め、寒そうにお茶をすする姿を見るたびに、ナツは優しい気持ちになれた。
 祖母は茶の入れ方だけでなく、立ち振る舞い、挨拶の仕方、物言い…生活の習慣すべてにおいて、ナツの手本だった。しかし、祖母がナツにああしろこうしろとうるさく指図したことは一度もない。祖母は、ただ暖かくナツを見守ってくれていた。
 そんな祖母だからこそ、ナツは一番身近な大人である彼女を信頼し、彼女のやり方にならって生活してきた。 
 人の頭の中を覗いて迷った時、助けを必要としている時、いつでも彼女はナツを正しい方向に導いてくれた。
 しかし、そんな祖母はもういない。
 これからは、人の頭の中を覗いて迷った時は、自分で考え、判断を下さねばならない。
 ナツは、迷っていた。
 加藤邦弘の記憶に焼きついた、腐乱死体の映像が頭から離れない。
 一体何が、彼の脳裏に鮮明なありえない記憶を焼きつけたのか。
 そして、加藤が死ぬちょうどその時に、耳から出てきた虫のようなものは何だったのか。
 あれが、加藤に現実にはありえない記憶をもたらした原因?
 湯飲みを置いて、ナツは座卓に肘をついて手を組むと、その上に顎を載せた。
 加藤の脳に、新種の寄生虫か何かが入り込み、それが実際に見たと思い込むような記憶を宿主に見せているのだとしたら…?
 しかし。
 そこでナツは、もう一人のありえないものを鮮明に記憶している少女…麻衣子を思い出す。
 彼女が見たのは、凄まじい形相で自分を見下ろす女…看護婦の亡霊だ。
 加藤の見たものが寄生虫によるものだとするなら、同じようなものを見た麻衣子にも寄生虫がついていることになる。
 そんなこと、あるんだろうか。
 専門家ではないナツに、脳に寄生する昆虫の類に関しての知識はない。地球上で最も繁栄している昆虫類だが、未だ発見されていないものも多い。毎年新種が発見されているような種族なのだから、その中に脳に寄生し、幻覚を見せる虫が存在していても不思議ではない。
 実際に、回虫・蟯虫・肺吸虫、条虫など、人間の体内に寄生する内部寄生虫が多く存在する。
 仮に、加藤の幻覚が寄生虫によるものだとして、それが体内に侵入したのはいつなのか。
「千人浜、か」
 ぽつりと呟いた。
 千人浜は、亘理からさらに西に進んだ第八開発地域の外れに位置する。
 辺りの民家はまばらで、通常なら地元の人間以外が好んで行くような場所ではない。おそらく、加藤のように釣りに行くという名目でもない限りは、それほど多くの人が行き交うことはないだろう。
 彼はそこに釣りに出かけ…それから心身ともに変調をきたしたのだ。
 千人浜、ぴかぴか光る箱。
 加藤が繰り返していた言葉の意味は、あの腐乱死体の映像のラスト…加藤が意識を失う寸前に見た、太陽の光を反射して輝く箱と砂浜に関係があるのだろう。
 加藤の目を通して見た記憶の砂浜、そこに砂に半ば埋もれるようにして光っていた箱に、新種の寄生虫が入っていた…?
 しかし、どれをとっても憶測類推の域を出ない。
 ナツにとっての唯一の糸口は、加藤と麻衣子がその目を通して見た情報…映像の記憶だけだ。それだけで確かな結論を導き出すには、どう考えても無理があった。
 記憶は個人の思い込み、勘違いによって、実際起きたことの間にある程度の差異が生じるようにできている。十人十色というのは、決して例えだけの話ではない。十人の人間が同じ状況下に置かれ、同じものを見聞きしたとしても、それぞれが受ける情報は個人の主観を通して認識される限り、決して同一ではない。それらの個人と他人の間の記憶の差異は、たいてい似たもの、近いものとして補修修正され保存される。
 同じものを見聞きしても、決して同一ではないのに『同じもの』として都合よく補修修正して記憶しまうのが人間の脳なのだ。
 そんな記憶の不確かさを確かなものにするためには、現実の何かが必要だった。加藤や麻衣子の記憶に頼らない、実際の風景・事物・現象…どれをとっても今のナツにはない情報だ。
 千人浜に行けば、何かわかるだろうか。
 でも…。
 瑞希と鳴海に頼まれていたこともある。下手に出かけては、彼らと連絡が取れなくなってしまわないとも限らない。今時の若者にしては珍しく、ナツは携帯電話を持っていないからだ。
 しばらく考えた末、ナツはあることに思い至った。
 鳴海と瑞希が向かった別荘は、千人浜に向かう道の途中に位置しているのだ。
 ならば、明日の朝一番に真庭市を出て、別荘に寄って二人と会った後、千人浜に向かえばいい。
 うん。そうしよう。
 ナツはやっと組んでいた手をほどき、少しぬるくなったお茶を飲み干した。
「ラベルに何が書いてあっても、本当に蓋を空けるまでは、何が入っているかわからない」
 そう言って、ナツは立ち上がった。
 生前、祖母はよくそう言いながら薬壜を棚に並べていた。
 祖母が祖父とともに薬店を始めたばかりの頃、赤マムシ粉末と書かれた壜の中に、何故か干からびたマムシが丸ごと入っていたことがあったのだそうだ。仕方なく彼女はそれを乳鉢ですり潰し、粉末にしたという。
 それはともかく、物事はやってみるまでは何が起こるかわからないということなのだろう。
 結果があらかじめ決まっている場合は、何をしても無駄だという気がするものだが、決定付けられた確かな未来はそうそうあるものではない。ならば、行動とそれにともなう意思によっては、いかようにも未来は変容する可能性があるということだ。 
 とりあえず、明日千人浜に行ってみよう。
 ナツはそう思った。


 辺りはうっそうと木々が茂っている。
 霧雨にヘッドライトが反射して、白くスクリーンをかけたような有様で道路がよく見えない上に、辺りは街路灯ひとつない。見通しが悪いことこの上なかった。
 二宮は注意深く前を見据えながら、慎重に車を走らせた。
 真庭市を抜け、一時間ほどになる。その間、車の中では特に変わった会話はされなかった。
 せいぜい神南が沢村に土産はどうしたとか、最近の調子はどうだとかという程度のものだった。
 神南にどんな話を振られても、沢村は淡々と答えていた。
 そんな沢村の反応が面白くないのか、神南はあれこれ話かけた挙句、『仕事ばっかしてねぇで、女遊びぐらいしろ』とまで言った。
 それに対して沢村は『そのうちね』とさらりと返している。
 神南は二宮にとって、扱い難さの頂点にいるような人物だ。二人がどれほどの付き合いになるのか二宮には想像もつかないが、神南を相手に少しも動じない沢村に、二宮は少々感心していた。
 あんな風に軽く神南の話をかわせるようになれれば、『兄ちゃん』と呼ばれずに済むのかもしれない。
 などと思っているうちに、クライン北海道研究所の正面ゲートが見えてきた。
 高いフェンスの向こうに、濡れた木々と、ぼんやりと霧雨に煙った建物の影が見える。
 神南が、身を乗り出して二宮のシート脇から顔を出した。
「おい、あれを見ろ」
 神南が顎で示した。
 ゲートが全開している。その上、ゲート脇の守衛詰所の建物には明かりが煌々と灯っているのに、窓の向こうにあるべき守衛の姿がなかった。
「守衛がいない」
 沢村の声。
「どうしますか?」
 二宮が振り返って神南を見た。
「そのままゆっくり進め。建物の前まで行くんだ」
 神南が、ゲートを見つめたまま答えた。
 徐行しながら、二宮が慎重に車を進めていく。
「二宮さん。ちょっと止まってくれ」
 沢村の声に、二宮はブレーキを踏んだ。
「何だ?」
 神南が訊く声に答えず、沢村は車を降りた。
「おいおい」
 言いながら、神南が後に続いて降りていく。
 二宮が見ていると、ふっと二人の姿が消えた。
 一瞬ドキっとしたが、どうやら二人は屈み込んだらしい。
 まさか、そこに死体があったわけではあるまい。
 前しか見てなかった二宮には、ドライブウェイ脇の芝生に何があったのかまったく気づかなかった。
 少し待ってみたが、二人は屈んだままだ。
 仕方なく、二宮はサイドブレーキを引き、ギアをニュートラルに入れると車を降りた。
 冷たい湿気を含んだ空気に、全身が包まれる。首筋をひんやりと撫でた冷たい霧雨に思わず肩をすぼめると、少し離れた芝生の上に、沢村と神南が屈み込んで食い入るように何かを見ていた。
 しかし、そこに死体があったわけではなさそうだ。
「あの…何ですか?」
 訊くと、沢村が顔を上げた。
「草が倒れているんだ。ほら、ここ」
 言いながら、沢村が示した先に目をやると、確かに芝の草が綺麗に寝ている。
「これが、どうかしたんですか?」
 二宮にはわけがわからない。
 芝草が倒れていたから何だというのだろう。そんなことでわざわざ車を停め、しかも雨の中、大の男二人がこんな所に屈み込んで何をしているのか。
「馬鹿。さっきの俺の話聞いてなかったのかよ。前庭に守衛の死体があるって言ってたじゃないか」
 神南は、むっつりした顔で二宮に言う。雨に濡れた神南は、余計目つきが胡乱に見える。
「ああ。なるほど」
 言いながら、二人と同じように屈み込んでみたものの、二宮には芝生の倒れている草と守衛の死体にどんな関連性があるのか見当もつかない。
「向こうに続いてる」
 沢村の視線の先は、芝生が綺麗に倒れ、それが前庭の中心に位置する植え込みへと続いている。
「死体を引きずって歩いたか」
 言いながら、神南は立ち上がって植え込みに近づいた。
 その神南の言葉に、やっと二宮は芝生の草が倒れている意味に気づいた。
 ということは、沢村はそのことに気がついて車を停めたということか。
 見ると、沢村も立ち上がり、神南の後について歩きだした。二宮も慌ててついて行く。
 三人並んで、植え込みの向こうを覗き込んだ。
「何もねぇな」
 円形の植え込みの中心には、芝生とライトがあるだけで何もなかった。
 しかし、沢村は植え込みをまたぐと、ライトの下に再び屈み込んだ。ライトに照らされた沢村の髪が、霧雨にしっとりと濡れ光っている。ジャケットの肩や背中についた細かな水滴が、光を受けてキラキラときらめいて見えた。
「神南さん、これを」
 沢村が芝生の一点を示した。
 二宮には、何か赤黒いものが点々と散っているように見えた。
「…血だな」
 神南の言葉に、二宮は驚いて目を凝らした。
 頷きながら立ち上がった沢村は、二宮を振り返ると静かに言った。
「どうやら、ここにあった死体が消えたみたいだ」
「ええっ?」
 二宮は思わず声を上げた。
「し、死体が消えたって…どういうことですか?」
「何者かが移動させたんだろ。芝生の草が倒れているのは、死体を引きずって移動したからだ。ここにあるのは、いくらか雨に濡れてはいるものの血痕だ。けど、死体がないってことは、何者かが運び去ったって考えるのが普通だろうよ」
 神南が、面倒臭そうに言った。雨に濡れた神南の無精髭の顎を、水滴がきらめきながら滑り落ちる。
「でも、何のために…」
 二宮が言いかけると、沢村が植え込みをまたいで二人の前に立った。
「それを考える前に、早く行こう」
「え?」
 二宮が沢村の顔をぽかんと見つめていると、その横で神南が大げさに身震いした。
「まったくだ。さっさと行こうぜ。こんなトコにいつまでもいたら、いくらお前が馬鹿でも風邪ひいちまうぞ、二宮」
 言いながら、神南はさっさと車に向かって歩きだした。そんな神南に続いて、二宮も沢村と共に歩きだした。
「あれは…本当に血痕なんですか?」
 横に並んで歩きながら、二宮は沢村に訊いてみた。
「間違いない」
 沢村の答えに淀みはない。
「雨と湿気があるから断定はできないけど、血液の凝固状態から死後三・四時間ほど経過していると思う。神南さんが話した金田という人の話と、守衛詰所に守衛の姿がないことを合わせて考えると、消えたのは守衛の死体と見て間違いないと思うよ」
 こんな話をしていても、沢村の話し方は相変わらず淡々としていた。
 血液の凝固がどうとか言われても、二宮には反論するだけの知識も経験もない。それらの二宮が持ち得ない知識・経験を、この沢村は持ち合わせているということなのだ。
「…死体が、消えた…」
 二宮は呆然と呟いた。
 車に乗り込んた途端に寒気を感じて、二宮はすぐにヒーターを入れた。ガラスが曇らないように調節しながら、後部座席の二人をルームミラーで確認する。
 神南と沢村は、むっつりと押し黙ってしまった。それぞれたった今見た、倒れた芝生の草と血痕について考えをめぐらせているのだろう。 それにしても。
 やっぱりやっかいだよ。
 二宮は、密かにため息をついた。 


 薄い闇に包まれた部屋には、影のような人影が五つ、身じろぎもせずに立っている。
 身にまとったスーツも靴も上等なのだが、その身体から発散される気配は獣のように油断がなく殺気立っていた。
 観葉植物と布張りのソファー、そして壁側のベッド。部屋は、ごくシンプルなホテルの一室のようだった。
「これからどうされますか」
 部屋の唯一の椅子に悠然と座る男に、影のひとつが訊いた。歌うように滑らかな英語だ。
「待つんだよ。獲物が網にかかるのを」
 低い声が、楽しそうに答えた。
 男の視線の先に、床にボロ雑巾のようにわだかまった白い影があった。
 白衣を着た若い男は、うつ伏せのため顔は見えない。その男は、生きているのか死んでいるのかピクリとも動かなかった。
「ナルミと、ミズキか」
 軽い金属音とともに、炎が闇を照らし出した。ライターの炎に浮かび上がったのは、冷たい酷薄そうな笑みを浮かべたユージン・Kの顔だった。
「楽しい宴の始まりだな」
 クックック、と喉の奥でしぼりだすようにユージン・Kが笑った。
 その視線の先の白い影は、やはり動かないままだった。

 

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