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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[7] 千人浜へ 1

 降り続ける霧雨に、大気がぼんやりと霞んでいる。
 車窓の向こうには、霧雨のために幻のように形のはっきりしない黒い建物が見える。窓に明かりがあるものの、人の気配がまるで感じられない。
 車は、ゆっくりと正面玄関前に進んだ。
 ガラス張りの開放的なロビーが見える。しかし、人影は見当たらない。無数の水滴がきらめくガラスの向こうからは、無機質な蛍光灯の明かりだけが漏れてきている。
 担当者がいないのかもしれないな。
 そう思いながら車を停めると、二宮は窓の向こうに目を凝らした。
「おい」
 それまで黙っていた神南が、おもむろに口を開いた。
 一瞬、自分への呼びかけかと後部座席を振り返った二宮だったが、神南の視線の先を見てみると、どうやら今の呼びかけは隣に座っている沢村に向けたものだったらしい。
「お前、どう思う」
「正直言って変な気分かな」
 神南がぐう、と踏まれたカエルのような妙な声で唸った。
「何がどう、変な気分だってんだ」
 言われて、沢村は顎に握った拳を当てた。
「最初は、住宅の派手な車の逃走…これは複数の追う人間と少数の逃げる人間がいたと仮定する。車に乗って逃げたのが、少数の人間。そしてここでは、守衛が二人死んだと金田という人物が証言…これに基づいて考えるなら、さっきの血痕は守衛のもの。彼らがすでに死亡していると仮定して、死後三・四時間経過している。死体を移動させたのは複数の人間。けれど、最初に死体、もしくは意識を失った人間を引きずって移動させたのは、少数の人間…」
 考えながら話しているせいか、沢村の口調は独り言のようにも聞こえる。
 しかし、現場を見ていない沢村が、こうもさらさらと整理して説明するのが二宮には不思議でならない。これも、調査を仕事とするらしい彼の能力によるものなのだろうかと二宮は思う。
「だから、何が言いたい?わかりやすく頼むぜ」
「神南さんから水野慎一郎氏の住宅で起きたこと…その家の車がガレージを突き破って逃走したと聞いた時、俺も同じように銃撃から逃れるためにそうしたんだと思った。でも、ここに来てみてちょっと変な気分になった」
「何でだ」
 沢村が、わずかに首を傾げる。
「ここ…クライン北海道研究所で何が起こったのかは知らない。でも、金田という人が信用できる人物だとして、彼の証言に頼るなら守衛が死んでいたということ…彼は前庭で死んでいると言ったんでしょう?」
「おう、そう言ったな」
「それがないってことは、誰かが移動させたということになる。でも、この死体を移動させた複数の人間は…」
「あ、あの」
 二宮の声に、二人が視線を上げて二宮を見た。
 沢村はともかく、こういう時の神南の視線は恐い。しかし、二宮には沢村の言葉の中でどうしても疑問に思えてならない点があった。
「どうして、死体を移動させたのが複数の人間だとわかるんです?」
「そりゃお前、二人分の死体を移動させるには大人数の方が早いからだろ」
 沢村が答えるより先に、神南がぼりぼと頭を掻きながら言った。
 当然のことながら、納得のいく答ではない。沢村がそんな神南を横目で睨み、ため息をついた。
「…確かに大人数なら楽だろうけどね。俺が、複数の人間だと仮定しているのには理由があるんだ」
「何です?」
「何だ?」
 沢村の言葉に、神南と二宮が同時に訊いた。
「足跡だよ。芝生の上に残ってた。ちょうど死体を移動させた垣根の辺りに集中してね。靴の大きさと沈み具合…これだけ霧雨が降っていて、芝生の跡がわかり難くなっているのにも関わらず、くっきりと足跡が残っているぐらい沈んでた…結構な巨漢かな。それが、最低でも三〜四人。足跡がついたのは最低でも一時間以内だと推測される」
「一時間以内?」
 二宮の言葉に、沢村が頷いて続ける。
「それ以上だと、芝草の回復力と雨のせいで、くっきりとした足跡は残らない。だから、せいぜい一時間以内に死体の移動が行われた…」
「ふむ。ちょうど俺とあの金田って奴との会話が途切れた辺りなんじゃないか?奴は、何かにあっけにとられて、その後誰かと話しているうちに…電話を切った」
「複数の人が死体を移動させるのを見て、驚いている間に入ってきたその内の誰かに口止めされちゃったんでしょうか」
 思いついたことを適当に言ってみたが、二宮の予想に反して二人は反論しなかった。それどころか、神南は二宮をじっと見つめている。
 だから、その目つきは恐いよ。
 二宮が慌てて視線をそらすと、神南がぽんと二宮の肩を叩いた。
「うん、兄ちゃん。なかなかいいこと言うじゃねぇか」
「え?」
 どうやら、神南は感心しているらしい。二宮は適当に言っただけの言葉が評価されて、複雑な気分になった。
「で、お前さんの変な気分ってなんだ?」
 神南は話を戻した。
 沢村が死体があると仮定した上で、それを移動させたと思われる複数の人間について話している途中で、二宮が話の腰を折ってしまったのだった。
 最初は嫌々だったはずのこの仕事に、今ではどっぷりはまってしまっている自分に、二宮はまたしても複雑なものを感じながら聞き耳を立てる。
「…あくまで仮定だけど、死体を移動させた複数の人間は死体を隠したかっただけのように思える。でも、死体を引きずって最初にあの垣根の辺りに置いた人物は…どうして移動させたんだろう。しかも、水野慎一郎宅で銃撃から逃げた小数の人間がここに来ていたとしたら…彼らも死体と遭遇しているか、それとも彼らが殺したのか…」
「何?逃げた連中…いやちょっと待て。何で、こっちも一人じゃなく少数なんだ?」
「足跡…というほどはっきり残ってないけど、サイズと靴の型の違う二種類の足跡が最初に見つけた引きずった跡の辺りについてた。あの辺りは、道路に接しているせいか芝生が痩せて地面が覗いているから、足跡が偶々残ってたんだろうね。だから、最低でも二人」
「で、お前さんは水野慎一郎宅から逃げた二人か?そいつらがここに来て守衛を殺したか、死体を発見するかして垣根の辺りまで引きずって隠したものを、後から追ってきた複数の人間がさらに死体を移動させて隠したと思っているわけだ」
「変な気分なのはそれだけじゃない。実は…」
 突然、車内が暗くなった。
 窓ガラスに立ちはだかるように、黒い影が二つ立っている。
 一瞬、二宮は今の沢村の話から、守衛を殺した犯人か死体を移動させた犯人かと思った。
 その黒い影がコンコン、と窓をノックした。途端に、窓から強烈な光が差し込んだ。
 どうやら、手に持ったライトで車内を照らしているらしい。
 二宮が慌てて窓ガラスを下げると、屈んだ相手の白い手袋と独特の形の帽子が目にとまった。
「ちょっと、おたくらここで何してんの?」
 口調がのんびりしているせいか緊張感がないが、その服装と態度から警備員であることは間違いない。
「ここの警備の人ですか?」
 呆然としているに二宮の代わりに、沢村が訊いた。
「そうですよ。ここの警備担当のもんです。はいはい、ちょっと降りて」
 三人は、言われるまま揃って車を降りた。
 車の外は、相変わらずしっとりと身体を包み込むような霧雨が降り続いている。
 二宮が降りてみると、白っぽい半透明の薄いビニール合羽を着た警備員が二人、それぞれ手にライトを持って立っていた。彼らの脇には、二宮の車同様アイドリングしたままの車が停まっている。
 それを見た二宮の感想は『警備員はちゃんと生きているじゃないか』ということだった。
 ただ、彼らは巡回していただけなのだ。それを金田という研究員が勘違いか何かしたのだろう。
「身分証明書持ってる?何でこんな時間にこんな場所に車停めてるの?」
 先刻の警備員が、神南に訊いている。神南は面倒臭そうに警察手帳を取り出して見せた。
「ほう、警察の人ね。でも、何でこんな時間に来るかなぁ。就業時間内に来てくれないと困りますでしょ。それに、誰かに話通してます?」
 何ともとぼけた話し方の警備員だが、こういう手合いほど扱い難いことを、職業柄二宮も知っている。暴力的でいわゆるキレやすい人間の方が、ある意味単純で扱いやすいが、一見して穏やかで人当たりが柔らかそうでいて、その実何を考えているかわからない人間ほど扱い難いものはないのだ。現に、警察の捜査で容疑者に話を聞く際、一番手を焼くのが何を考えているかわからない、表情の掴み難い人間とされる。
 この警備員は、間違いなく後者に属するタイプだと二宮は思った。
「金田さんに来ることは話してありますし、了解も得ていますよ」
「ふーん」
 神南の言葉に警備員が目配せすると、それを受けてもう一人が手にした携帯電話を操作した。少しして、その警備員が言った。
「…金田陽一さん、退社してますね」
「退社?そんなまさか」
 神南が、さすがに表情を変えた。
「間違いないですよ。研究所の人の出入りは、IDですべて管理されているんです。その記録によれば、退社時間は九時四十分。行き違いになったんじゃないですか」
 その警備員の言葉を受けて、もう一人が口を開いた。
「そういうわけだから、何か用件があるなら後日出直してくださいよ。もう少し早い時間に」
 さりげなく釘を刺して、その場から離れようと背を向けた警備員に、沢村が近づいた。
「ちょっと訊いていいですか」
「何です?」
「あなた方、今来たばかりですよね。その前の警備の人…ゲートが開いたままになってたけど、守衛はどうしたんです?」
 二宮は、それを聞いて気がついた。
 自分の車のすぐ後ろに停まったこの車は、巡回に使われていたものではない。敷地内の巡回なら、車ですることはありえないのだ。だとすると、この車はたった今、二宮達と同様ゲートの外から来たということになる。つまり、行方の知れない、あるいは死んでいる可能性もある守衛とは別の警備員ということだ。
「…急病だよ」
 言い難そうに、その警備員は答えた。
「急病の連絡が入ったんですか?何時頃?」
 警備員は、胡散臭そうに沢村を睨むと、ごほんと咳払いをした。
「こんなこと、あんたらに教える義務はないんだけどね。九時半頃、急病で山さん… ここの警備員の古株で山根というんだが、倒れたと連絡が入ってね。一緒に警備していた中沢が、車に乗せて病院に運ぶから急遽代わりにと我々が来たというわけなんだよ」
「その中沢さんから連絡が?」
 いや、と警備員は初めて不可解な表情を見せた。宙に視線を漂わせ、何かを思い出しているらしい。
「違うな。中沢の声じゃない。…なんか聞き覚えあるような、ないような。とにかくこれから急いで山根を運ぶから、そっちも大急ぎで来てくれとね」
 中沢本人ではないのなら、一体誰が連絡したのだろう?
「警備員は山根さんと中沢さん以外には?」
 警備員は、今度は渋い顔をした。どうやら、一番訊かれたくないことを訊いてしまったらしい。二宮が神南を見ると、笑いをこらえるような妙な表情で沢村と警備員のやり取りを見ている。この場は、彼に任せるつもりのようだ。
「…まあ、その…今日に限って予備の警備が詰めてなかったんだよ。ゲート脇の守衛事務所に二人、研究棟の警備員室に二人が常駐する決まりだったんだが」
「では、誰があなた方に連絡を?」
「さあね。研究員には違いない。若い男の声だ」
 いつのまにか、すっかり沢村のペースにはまっていることに警備員は気づいていないらしい。先刻まで扱い難そうに見えた警備員が、すらすらと素直に沢村の問いかけに答えているのが、何となく見ていておかしい。
 沢村は少し考えて、再び警備員を見た。
「あの、ちょっとお願いが」
「は?な、何です?」
 突然の申し出に、警備員が慌てている。
 沢村が、こそこそと小声で警備員に何か囁いた。
「は?いや、そういうのは困るな。え?うーん、そう言われちゃこっちも困るし…仕方ないな」
 言いながら沢村から離れた警備員は、少し離れた場所に立つ、もう一人の警備員に近づいた。
 少しして戻った警備員が、小さなメモを沢村に手渡した。
「すみません。感謝します」
「いいから、もう行っていいよ」
 警備員が沢村に手で示した。
 彼の手が示す先には、開いたままのゲートがある。 
「行きましょうか」
 神南と二宮を振り返り、沢村はにっこりと微笑んだ。屈託のない笑みは、どこまでも爽やかだ。
 どうやら、沢村は何かしらの収穫を得たようだ。
 そんな沢村の笑みを受けて、神南がのっそりと車に乗り込む。
 二宮も慌てて車に乗り込むと、ゆっくりと車を発進させた。
「で?奴から何をせしめてきた?」
 しばらく車を走らせたところで、神南がにやにやしながら口を開いた。
「人聞きの悪い…これですよ」
 沢村が神南に、先ほど警備員から受け取った小さなメモを手渡す。
「ほう」 
 それを眺めて、神南が目を細めた。獲物を目の前にした猟犬のような目だ、と二宮は思った。
 しかし、いつまでたってもその内容について言おうとしない。そのメモの内容が気になって仕方ない二宮は、我慢できなくなってつい訊いてしまった。
「それ、何です?何か重要なことが書いてあるんですか?」
 神南がルームミラー越しに二宮を見た。
「知りたいか、兄ちゃん」
 神南の目が輝いている。
 とっておきの秘密を知った子供のような目だ。
 内心ムっとしつつも、二宮はメモの内容の方が気になる。
「教えてくださいよ」
「へっへっへっ」
 にや〜っと笑った顔の憎らしいことと言ったらない。
 子供か、あんたは。
 だんだん苛々してくるが、それでも二宮は聞かせてくれるまで粘ろうと思っている。
「…まったく、人が悪い。教えてあげればいいのに」
 沢村が見かねて、神南の手からメモを取った。
「これはね、二宮さん。警備員二人の住所だよ」
「何だ」
 二宮は拍子抜けした。
 そんなことを、さも重要なことが書かれているかのように思ってしまった自分に腹が立つ。もっとも、そう思わされたのは神南の態度のせいでもあるのだが。
「何だ、はないだろ。これは結構な収穫だぞ兄ちゃん」
 だから、兄ちゃんじゃないと…ああ、もう。
 内心ため息をつきつつ、二宮は霧雨のスクリーンの向こうに目を凝らした。
 神南の言動にいちいち腹を立てていたら、そのうち事故を起こしてしまいそうだ。そうなったら、ローンの返済がまだまだ残ってる自分の車が台無しになってしまう。
 集中、集中。
「今夜はまあ、こんなとこだな」
 しかし、どんなに集中していても、悲しいかな神南独特のざらついた低い声は二宮の耳に入ってくるのだった。声まで遠慮がないのかと、さらにムカムカしてくるのを抑えて二宮はハンドルを握っている。
「そういえば…俺、今夜の宿予約し忘れた」
 ぽつりと沢村が呟いた。
「何だ、そんなことか。俺のトコに泊まればいいだろ。どうせ夜通し作戦会議だ」
「うっ」
 と、沢村と二宮は同時に言葉につまった。
「何だよ、その『うっ』てのは」
 神南が半眼で二人を睨む。
「あ…いや、そういえば神南さん。饅頭買ってきましたよ」
 沢村が言いながら、ブリーフケースの中から渋い色合いの和紙に包まれた小さな箱を取り出した。
「おっ、すまねぇ。こいつが食いたかったんだよ」
 神南の機嫌が直ったようだ。ついでに、今の話も忘れたらしい。沢村が手渡すや、嬉々とした表情でばりばりと包装紙を破って箱を開けている。
 やっぱり子供…。
 二宮は、深くため息をついた。


 鳴海は金属が軋むような音で目が覚めた。
 はっと身を起こすと、瑞希も身体を起こしたところだった。
 さあっと辺りに光が差し込む。
 眩しさに、鳴海は思わず手をかざした。目を細めながら階段に目を向けると、誰かが身を屈めて覗き込んでいる。一瞬、パンドゥーラかと緊張したが、すぐに違うと気づいた。
 その逆光に浮かび上がった姿は影になっているものの、きちんと衣服を身につけている。
「そこにいるのは、鳴海さん?」
 聞き覚えのある声だった。
「ナツ」
 瑞希が立ち上がった。鳴海も慌てて立ち上がり、辺りを見回す。
 入口から差し込む光に照らされた、ワインが収められた木製の棚が並ぶ辺りの様子は、暗闇の中で思っていたよりも幾分狭く感じられた。
 歩きだすと、身体のあちこちがぎしぎしと痛んだ。いつ眠ったのか記憶になかったが、相当長い間硬いコンクリートの床に横になっていたらしい。
 階段を上りきると、廊下でナツが待っていた。開襟シャツにチノパンは会った時と変わらない。
 そのナツの背後に、テーブルが見えた。入口から入ってすぐのホールにあった、木の切り株を使った重厚な造りのテーブルだ。パンドゥーラがはねあげ戸に載せたのは、どうやらそのテーブルらしい。
 その細い腕に似合わず、ナツはその重そうなテーブルをどうにかして脇に動かし、はねあげ戸を開けてくれたのだ。
「大丈夫ですか?」
 ナツは、鳴海と瑞希を交互に見ながら訊いた。
「どうして君がここに?」
「何度かここに電話してみたんですが、一向につながらないので何かあったんじゃないかと思って…。それに、僕もこちらの方面に用があったので寄ってみたんですよ」
「助かったわ」
 瑞希はほっと息をついた。鳴海もため息をついた。
 電話が鳴っていたのには、まったく気づかなかった。それほどぐっすり眠り込んでいたということなのだろう。
 それにしても、あのまま閉じ込められたまま誰にも気づかれなかったら…あるいはパンドゥーラがそこに保存食があると思い出したら…考えただけでもゾッとする。
「君が来てくれてよかったよ」
 言いながら、ナツがここに来てくれたことに、鳴海は素直に感謝した。
 ナツは、口を開けたままのワインセラーの入口と鳴海を見比べると、しみじみ呟いた。
「何だか、大変な目に遭ったみたいですねぇ」
 鳴海は、頷いて辺りを見向した。
 廊下の壁には、パンドゥーラの触手が飛び散った時のまま、黒いシミになっている。
 じっと見つめたが、それらが動きだすようなことはなかった。
「そうだ」
 鳴海はあることを思い出した。廊下を歩きながら、時折身を屈める。
「何を探してるの?」
 瑞希が背後から訊いた。
「確か、この辺りに…」
 あの時、パンドゥーラの一部とともに飛び散り、硬い音を立てて廊下を転がる小さなものが見えたのだ。
「もしかして、これですか?」
 ナツが鳴海の横から手を差し出した。手の平の上に、小さな長方形の物体が載っている。
「ここに来た時、そこに落ちてたんです」
 ナツは、廊下の隅を指した。鳴海はそれを受け取り、しげしげと眺めた。
 やはり、そうか。
 鳴海は心の中で呟いた。その小さなプラスチックの物体は、鳴海がワインセラーに閉じ込められた時に思いついた仮説を裏付けるには充分だった。
「それは何?それがどうかしたの?」
 鳴海は、それを瑞希に見せた。
 途端に、瑞希の目が大きく見開かれる。
「そんな、まさか…」
「そのまさかだ、瑞希」
 鳴海は静かに言った。
「あれは…あの怪物は博士だ」
 その小さなプラスチックの物体…ネームプレートには、『水野』と記されていた。


 かりかりに焼いたベーコンとパン、目玉焼き、トマトとレタスを添えたポテトサラダ、それにコーンスープ。
 テーブルに並んだ料理と食欲をそそる匂いに、思わず腹がぐうぐう鳴りだす。
 鳴海は、久しくまともに食事を取ってなかったことを思い出した。
 朝食は、瑞希とナツが用意したものだ。ナツはここに来る途中に、食材をいくらか買い込んできたらしい。それもこれも、別荘に食料がない場合に鳴海と瑞希が困るだろうという彼の配慮だが、これにも二人は深く感謝した。
 キッチンには、明るい日差しと朝の清々しい空気が満ちている。窓の外には木々が日に透けて輝いていた。ワインセラーに閉じ込められ、いつしか眠っているうちに夜は明けていたのだ。
 やがて、テーブルを囲んで全員が席についた。
 鳴海は、しばらく夢中で用意された料理を味わった。ろくに食べていなかったせいか、ささやかな朝食でも格別に美味しく感じられる。
 スープを飲み終える頃には、ひと心地ついた。その頃合いを見計らって、ナツがきりだした。
「で、あれから何があったんです?どうしてあんな所に入ってたんです?」
 ナツは不思議そうな顔をした。ナツが疑問に思うのも、もっともだろう。
 鳴海は、研究所からここに至るまでの経緯、そして目にしたパンドゥーラについてのこと、それによって閉じ込められたことなどを説明した。
 パンドゥーラについては、なるべく大袈裟な表現を避けるようにしたが、見たものがあれではどう控えめに表現しても不気味なのは事実なのだから、ナツにパンドゥーラのことがどう伝わったかは、はなはだ疑問だった。
「君がここに来た時、その…妙なものは見なかった?」
 何も、とナツは首を振った。
「ただ、車がなくてドアも全開していたから、二人とも大急ぎでここを出て行ったのかと思いました。僕が見た限りでは、お二人が閉じ込められていたワインセラーの辺り以外に、建物の中に異常はないみたいですよ」
 ナツによると、廊下の真ん中にでんと据えられたテーブルが一番怪しかったという。
 とりあえず、奴はもうここにはいない…。
 鳴海は、ほっと胸を撫で下ろした。
「では、そのパンドゥーラはどこへ行ったんでしょう?」
 鳴海は首を振った。正直、見当もつかない。
「鳴海」
 しばらく黙ったままだった瑞希が、不意に口を開いた。鳴海を見つめる目に、不安げな光が揺れている。
「あれは伯父だって言ったわね」
「ああ。そう考えれば、あの怪物が身につけていた白衣と、ネームプレートの謎が解ける。博士はパンドゥーラに寄生された。おそらく金田とともに、それを廃棄しに行った時に…そして、寄生された状態のまま博士はトランクに隠れた。金田はそれを知らずに、博士の自宅のガレージに車を戻す。その後、パンドゥーラに寄生された博士は…理由はわからないが家中を荒らした」
「ちょっと待って、どうして家を荒らしたのが…寄生された伯父だと言いきれるの?」
 瑞希は、納得できないようだった。
「思い出してくれ、博士の寝室にあった文字…あれはパンドゥーラのことを知らない人間が悪戯半分に刻めるようなものじゃない。それにあの足跡…雨の中を歩いたのでなければ、あんな足跡を家中に残したりしない。だが、博士と金田なら雨の夜に靴に泥がつくような場所に出かけている。金田には、博士の家を荒らす理由はない。だとすれば…寄生された博士しか考えられないんだ」
 一気に話し終えると、鳴海は瑞希を見た。
 瑞希は俯き、何かを考えているようだ。その肌が青冷めて、一層白く見える。
 すべては、博士が金田とともに千人浜を訪れた夜に始まった。
 博士の家を訪れた時に目にした、徹底的に破壊された室内の惨状と寝室の謎めいたパンドゥーラの文字、そして家中の乾いた泥の足跡も、パンドゥーラに寄生された博士の仕業だとすれば説明がつく。
 博士が家中を荒らしながらも、自らの身体に寄生したものの正体を寝室の壁に刻んだのだとすれば、あの奇妙に歪んだメッセージの意味も理解できる気がする。
 その後、トランクに隠れた博士を、そうとは知らずに鳴海と瑞希は研究所に運び、守衛が餌食になった。そして…どうにかして博士の車から金田の車に移動し、そのまま別荘についてきた博士…パンドゥーラは、鳴海と瑞希を地下に閉じ込めた…。
「…あれが…あの怪物が、伯父なの」
 やがて、瑞希は独り言のように呟いた。
「怪物…?ああ、それか」
 ナツがぽつりと言った。その目はじっと瑞希に向けられている。
 見えるのか?
 鳴海は、ナツの能力を思い出した。
 ピーピング・トムと瑞希が呼んだ。そんなナツには、人の頭の中が覗けるという異能があるのだ。
 ということは…ナツは今、瑞希が思い出している、白衣を着た黒い魔物を見ているのかもしれない。その割には、口調はいたってのんびりとしている。
 パンドゥーラの姿があまりに現実離れしているせいで、その存在が信じられないのかもしれない。鳴海も実際に目にしなければ、あれが実在するものだとは到底信じられないし、信じたくもないのが正直なところだ。
 鳴海はその涼しげな横顔を眺めながら、口を開いた。
「そういえば、君は用があるとか言ってなかったかな」
「ええ」
 ナツが鳴海に向き直る。
 澄んだ眼差しは、初めて会った時と変わらない。
 ナツは鳴海を見つめたまま、さらりとこう言った。
「ちょっと、千人浜まで行こうと思って」
「千人浜だって?」
 鳴海と瑞希が顔を見合わせた。

 

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