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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

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 微かな光が、閉めたままのカーテン越しに差し込んでいる。
 薄暗い部屋の空気は、酒と男の汗の匂いが濃く混じってはいたが、朝の静謐さを損なうほどではなかった。
 空気そのものは、冷たく澄んでいる。
 沢村はしばらくぼんやりと天井を見つめていたが、やがて上体を起こした。
 やれやれ。
 乱雑に散らかった部屋を見渡して、心の中で呟く。
 どうやったらここまで散らかせるのかと、首を傾げたくなるような部屋…神南の部屋だ。
 部屋の主は、沢村の横ですやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている。
 研究所を後にし、神南と沢村を神南のアパートまで送り届けると、二宮は神南が止めるのを何とかふりきり、逃げるように帰っていった。沢村が思うに、二宮の反応は正しい。
 散らかっている上に、ことさら狭い部屋には布団を二組敷けるわけもなく、結局神南と沢村は敷きっぱなしのせんべい布団を枕代わりに寝る羽目になった。当然のことながら、寝心地はすこぶる良くない。
 沢村はのびをひとつして、ため息をついた。
 畳の上にじかに寝ていたため、肩と首を回すと、肩やら肘やら関節があちこち痛む。
 しばらく、ぼうっとしていた沢村だったが、やがて胸ポケットからCD‐Rを取り出した。
『いつでもいい、時間の空いた時にそいつの中身を調べてくれ』
 フェリーターミナルで、神南に手渡されたものだ。
 パソコンの操作に不慣れな神南が持っていた以上、今回自分が呼ばれた理由のひとつはこれだろうと沢村は思っている。そして、今回の事件に何らかの関わりのある重要な情報が入っているに違いない。 沢村はぼんやりと朝日が差し込む部屋の中で、ブリーフケースからノートパソコンを取り出して電源を入れた。OSの起動を待ちながらCD‐Rをデスクトレイに載せる。
 読み込みが始まり…そこで、沢村は画面を一瞥してため息をついた。

 アクセスキーを入力してください。

 このCD‐Rに保存されているのは、アクセスキーで保護された情報らしい。ソフトのインストールディスクのように、半角数字とアルファベットによる何桁かのアクセスキーを入力しないと、このディスクは展開されないようにあらかじめロックされているのだ。
 やれやれ。
 再び胸の中で呟くと、沢村はキーを叩き始めた。
「何だ、何してる」
 いきなり背後で神南の声がした。
 振り返ると、寝ぼけ眼の神南がドアップで迫っていた。
「神南さん、酒臭い…」
 昨夜、眠れないからと飲んだビールのアルコールがまだ抜けていないらしい。沢村は慌てて顔をそむけた。
「うるさい。どうだ、何かわかったか」
「神南さん、アクセスキー知らない?」
「はん」
 神南が鼻から息を吐いた。
「そんなもん、知らん」
「だったら、何か手掛かりないの?アクセスキーの解読なんて俺でも無理だよ」
 神南が、その場で胡座をかいて腕を組んだ。
「うーん」と唸る。少しして顔を上げた。
「…パンドゥーラで開かないか」
 言われて、沢村がキーを叩く。
「PANDORA、と」

 エラー・正確なアクセスキーを入力してください

 警告音とともに表示された言葉に、神南がぐう、と唸った。
「他には?」
「水野慎一郎…それじゃ単純すぎるのか」
「何だ、水野慎一郎のものか」
「何だ、はないだろ。水野のもんだったらわかるのか、お前」
「誰のものかさえわかれば、何とかなる」
 妙に自信ありげな沢村の言葉に、神南がにやりと笑った。
「そうこなくっちゃな、助っ人」
「はいはい」
 数分後、沢村の入力したアクセスキーでディスクの中身が展開された。
「何だ、こりゃ?」
 神南が、画面を一瞥して眉を寄せた。
 画面には、横長のウィンドウに幾つもの波形が色分けされて波打っている。その下に、同じく横長のウィンドウの中に、青・水色・黄・オレンジ・赤のそれぞれの色の波が小さくなったり大きくなったりしながら、右から左へ行き過ぎていく。他にも、記号と数値が刻々と変化しつつウィンドウ別に表示されている。
「血圧、体温、脈拍、脳波…実験動物をリアルタイムで観察記録したデータだね」
 沢村が言った。
「実験データか」
「…あれ?」
 沢村の呟きに、神南が再び画面に視線を戻した。
 それまで一定の波を描いていた波形に、乱れが生じている。数値がめまぐるしい速さで変化していく。血圧と脈拍が急激に上昇し、脳波を示す色分けされた波が、赤とオレンジで占められた。 実験対象に、何らかの劇的な変化が起きているらしいことがわかる。
 しかし、唐突に脳波が青一色に染まり、徐々に他の数値が元に戻り始めた。
「何だ。何が起こったってんだ?」
「実験動物か人かわからないけど、その実験対象が極度の興奮状態の後、急激に鎮静化したみたいだね」
「むう」
 神南は神妙な顔で唸った。
「これ、見てみる?」
 沢村が神南に訊いた。神南は、沢村の肩越しにディスプレイに目を凝らす。
 小さなカメラ型アイコンに、マウスポインタが重なっている。映像が見られるらしい。
「おう、見せてくれ」
 神南がそう言うと同時に、沢村がアイコンをクリックした。
 動画再生ソフトが起動する。小さな画面に、二人はじっと見入った。


 二宮は時計を見た。
 午後三時。
 運転席から通りの向こうに目を向けると、平屋建ての古い住宅の前で神南が主婦と思しきエプロン姿の女と立ち話をしている。
 二宮は、再び神南に呼び出された。
 昼食後に、車で来るように言われて神南のアパートまで行くと、神南と沢村の二人がアパートの前で待っていた。それから、二人を乗せ…着いたのはここ、第三区の住宅街だ。
 辺りは、新旧入り乱れて住宅が密集している。いわゆる低層住宅地で、高い建物はない代わりに通りにはそれなりに車も人通りもあった。
 少しして、神南は女に頭を下げ、車に戻ってきた。
「どうでした?」
 二宮は訊いてみた。
「どうもこうもねぇよ。山根は昨夜から戻ってないし、入院したって話も聞いてねぇとさ」
「山根さんに家族は?」
「女房に半年前先立たれてから一人暮らし。一人娘は五年前に病死。…天涯孤独だよ」
「そうでしたか」
 言いながら、二宮は車を出した。
 少し先の通りで、見慣れた黒髪の男がこちらに気づいて軽く手を上げた。
「さて、あっちはどうかな」
 神南がつまらなそうに言う。
 車を目の前に停めると、沢村が後部座席に乗り込んできた。
「どうだった?」
「思った通り、中沢は戻ってないよ」
「やっぱりな」
 そう言って、神南は黙り込んだ。腕を組んで長考の体勢に入る。
 山根と中沢は、昨夜警備員から住所を聞いた、急病で急遽交代したことになっている警備員だ。
 神南が山根の住宅を、沢村が中沢のアパートを訪ねてみたが、結果はどちらも不在のままだった。
 今も病院に収容されているかもしれない山根はともかく、中沢が自宅アパートに戻っていないのは不自然だ。
 しかし、現に二人は戻っていない。
「ところでよ」
 神南が、思い出したように沢村を振り返った。
「お前、昨夜気になること言ってやがったな。気持ち悪いとか何とか」
 言われて、「ああ」と沢村が頷く。
「…今回の件、初めからつながっているような気がしたんだ」
「つながってるぅ?」
 沢村が頷く。
「水野慎一郎…彼の家で起こったこと、彼が所長を勤める研究所で起こったこと、この二つが」
 神南がふむ、と言って顎をさすった。
「すべては水野慎一郎に関係しているって言いたいんだな」
「彼本人を探し出せたらいいんだけどね」
「どこにいるやら、誰も所在を知らん。唯一、知ってそうな金田という研究員は、あの通りさっさと帰っちまったしな」
 言いながら、神南は煙草を取り出して火をつけた。ふう、と紫煙を吐く。
 少しして、沢村が言った。
「…本当にそうかな?」
「何がだ?」
「金田は本当に退社したのかな?」
「…何だよ。あの警備員が退社したって言ったよ。言ったよな。確かに言っただろ」
 同意を求めて、神南が二宮を見た。思わず二宮は頷く。それを見て、沢村も頷いた。
「そう。でも、あれはIDの記録照合で確認されただけで、実際に彼らは金田が帰るのを見て言っているわけじゃない。記録はどうにでも改竄できる。それに、急病で運ばれたという警備員と、彼を連れて病院に行ったという警備員…この二人にしても、彼らはその目で事実確認したわけじゃない。つまり、極めて受動的情報を彼らは素直に信じ込み、それを俺達に話したにすぎないということになる。現に、二人の警備員はどちらも不在…」
「つまり何か?後から来た警備員の話は信用できないってことか?」
「…話が整いすぎてる。警備員の死体と、それを見たという金田が消えて、そこに取ってつけたような…急病に退社というきちんとした言い訳が用意されている。誰かが巧妙に、死体とその目撃者を隠してしまったように思えてならない」
 神南が「むう」と唸った。
「なら…金田は、どこだ」 
「急病だというなら、警備員は今も病院かもしれない。とりあえず、金田の自宅と真庭市すべての病院にあたってみよう。とにかく急いだ方がいい」
「何だ、急にどうしたってんだ」
 沢村の深刻そうな表情に、神南が思わず訊く。沢村は静かに答えた。
「時間がない…そんな気がするんだ」


 研究所に着く頃には、雨足は一層激しくなった。
 ナツは、ゆっくりとゲートに車を近づけた。
 守衛詰所には、守衛が二人いた。しかし、昨日鳴海と瑞希が研究所を訪れた時の二人と交代したらしく、今日の守衛はどちらも初めて見る顔だった。
 閉じたゲートの前にゆっくりと車を停め、ナツが鳴海を振り返った。
「どうします?」
 鳴海は少し考え、
「俺が行ってくる」
 と車を降りた。
 降り注ぐ冷たい雨に首をすくめながら、小走りに守衛詰所の前に向かう。
 窓の向こうから、守衛の一人が頷きかけて窓を開けた。
「来訪時間は過ぎていますが…」 
 事務的な口調だったが、迷惑そうだった。困ったような顔で守衛は言った。
「すみません。急ぎの用で金田さんに会いたいんです」
 鳴海がそう言うと、二人の守衛は不思議そうに顔を見合わせた。
 途端に、鳴海の胃の辺りが微かにざわつく。
 何かあったんだろうか?
「金田さんなら、昨夜退社後…今日は欠勤です」
 もう一人の守衛が、奥から鳴海に言った。
「退社?何時頃ですか」
 鳴海の様子に、何かただならぬ気配でも感じ取ったのか、守衛の一人が携帯電話を取り出してボタンを押した。画面を確認すると、鳴海に目を向ける。
「退社したのは昨夜九時四十分頃…ところで、あなたは鳴海さん?」
 突然の呼びかけに、鳴海は思わず緊張した。
 一面識もない守衛に名前を覚えられるほど、鳴海は有名ではないはずだ。
「…そ、そうですが…どうして名前を?」
「金田さんより伝言です。真庭埠頭B‐412」
 言いながら、守衛は机に置かれたメモ帳から一枚破り、鳴海にその紙片を差し出した。
「確かに伝えましたよ」
 言って、窓を閉めようとする守衛の手を、鳴海が止めた。
「待ってください。伝言って…今日ここに来ることがどうして?」
 どうして知っていたのか。
 ずっと誰かに監視されていたような薄気味悪さが、寒気となってじわじわと背筋を這い上ってくる。
「そう言われてもねぇ」
 守衛の眉が困り果てたように寄った。
「あなたが、いつここに来るかなんて知らされてませんよ。我々はただ、鳴海という人が来たら伝言を伝えるよう指示されただけですから」
「誰に?」
「金田さんにですよ」
「…金田…」
 鳴海が独り言のように呟くと、守衛が窓にかけた手に力を込めた。
「確かに伝えましたからね。今度来る時は、来訪時間内にお願いしますよ」
 守衛は、ぴしゃりと窓を閉めた。
 鳴海は手の中のメモを確認し、足早に車に戻った。
 車に乗り込むと、待ちかねたように瑞希が鳴海を振り返った。
「どうだったの?金田クンは無事?」
「金田は昨夜九時四十分に退社している。それで、金田から俺に伝言があった」
 言いながら、鳴海は瑞希にメモを手渡した。
「真庭埠頭B‐412…何これ」
「わからない…でも、何か変だ」
 パンドゥーラが庭にいるかもしれなかった昨夜の状況下で、自ら研究所に残ると言った金田が退社するとは思えない。
「金田クンが家に帰ったって言うの?車もないのに」
 そう、車は別荘で何者かが乗り、走り去っている。つまり、金田がこの広い敷地内から出て行くための足がないのだ。真庭市内から程遠いここから、歩いて帰ったとは考え難い。仮に同僚の車で送ってもらったにしても、金田自身が『残る』と言っていたのだ。そんな金田が、研究所から自分の意思で出て行くとは思えなかった。
 考えられることはひとつ…何かがあったのだ。
「出しますよ」
 ナツが断って、車を発進させた。
 ゆっくりとゲート前をターンし、車線に車を戻す。
「これから、どうします?そこに行くんですか」
 ナツはメモを一瞥すると、再び前を向いた。
 フロントガラスの向こうは、黒々とした森のキャンバスに雨が無数の銀色のラインを描いている。
「これは倉庫番号よね。これってあからさまに罠って気がしない?」
「俺もそう思う。金田は…誰かに捕まっている」
「アメリカ本社…」 
 瑞希が呟いて、唇を噛んだ。
 車内に重苦しい空気が流れた。
 金田の身に何かが起きたことは間違いない。そして、メモは瑞希が言うように鳴海をおびき出すための罠かもしれない。
 そんなことを考えながら、鳴海は窓の外に視線を向けた。 


 窓ガラスの向こうは、漆黒の闇が煙っている。
 車は、まるで暗いトンネルの中を走っているようだった。
 ガクン、と身体が傾き、男は慌てて体勢を立て直した。
 目の前には、左右に行き来するワイパーと、降り続ける雨が見える。その向こうには、ライトに照らされた濡れた路面。
 居眠りでもしていたのだろうか。
 メーターに目を向けると、時速は六十をいくらか過ぎている。
 男は一瞬、背筋にひやりとしたものを感じたものの、ハンドルにかけた手に力を込め、わずかにスピードを落とした。
 おかしい。
 男がそう思ったのは、車をいくらも走らせないうちにだった。
 男が操る十一トンの巨体に十本のタイヤを持つダンプカーは、男の記憶では第六区を過ぎた辺りを、順調に亘理に向かって走っていたはずなのだ。ところが、今しがた通り過ぎた標識は、まぎれもなく亘理のものだった。
 第六区から亘理まで、居眠りをして走ったのか…?
 まさか。
 しかし、現に第六区から亘理に至るまでの距離を運転した記憶が、男からすっぽりと抜け落ちている。
「お-い、ウラさん」
 無線機から、聞き慣れた運転手仲間の陽気な声が飛んだ。
 呼ばれて男…田浦は、慌てて無線機のフックからマイクを手に取った。
 ボタンを押しながら答える。
「はい、こちらウラです」
「ウラさん、何やってんのさ?第六区に荷物下ろしたら、今朝は真庭の現場に行くはずだったっしょ?」
 田浦は呆然となった。 
 今朝、だって?
 辺りは、昨夜と同じように暗い。そのため、雨こそ降ってはいるが、彼はそんなに時間が経過しているとは思っていなかった。と、いうことは、今は彼にとっての翌日の夕方ということになる。咋日、午後十時過ぎに荷物…荷台に積んだ玉砂利を建築現場に下ろし、その後第六区と真庭の間を…。
 それから自分はどうしたんだろう?
 一切の記憶が欠落していた。
「おーい、聞いてんのかい?現場の人、怒って事務所に電話よこしたって話だよ。それに、これからどこ行くのさ?今さっき、俺の車とすれ違ったの見えたかい?」
「ああ、いや。その…聞いてる」
 ぼそぼそと答えながら、不安が脳裏で渦を巻く。
「それと、今日の昼。あんな所に車停めて何してたのさ?」
 どくん、と心臓が高鳴る。そのまま、鼓動は次第に早くなった。
「き、今日の昼?」
 田浦は思わず訊き直した。
 相手は田浦の記憶にない時間に、彼が何をしていたのかを見ている。
「ドライブインに車停めてさ、横に乗ってたのはお医者さんかい?」
 お医者さん…!?
 ざわざわと鳥肌が立つ。車内の気温が、急に下がったような気がした。抑えようにも、背中を這い上ってくる悪寒はどうにも止められない。
 ハンドルを握る手が、ガタガタと震えだす。
 田浦の目の端に、それまで気づかなかった白いものが揺れた。
 それは、隣の座席に座っていた。何故、今まで気づかなかったのだろう。
 白衣…、お医者さん…。違う、これは…。
 やがて、それはゆっくりとこちらを向いた。
 黒いものに包まれた真っ白い骸骨が、黒い眼窩の目玉をぎょろつかせて田浦を睨んだ。
 化物…!
「う、うわあああっ!」
 田浦は我を忘れて絶叫した。

 

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