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パンドゥーラ

作者:柚ノ月香

 

[9] エバンジェリン 2

「それで、お前さんはここに来たのか」
 一通りナツの話を聞き、神南は言った。
 ナツが頷いた。さらり、とその前髪が揺れる。
 涼しげな目元と癖のない黒髪は、どこか沢村に共通するものがある。
 少年は霧原夏緒と名乗った。ついでに、普段はナツと呼ばれているらしい。落ち着いた雰囲気の、なかなかの美少年だ。
 一方の神南は心なしか声にハリがない。疲れているというよりは、眠いのだろうと二宮は思った。 あの後、神南と沢村が二人がかりで例の倒れていた男をベッドに横たえた。
それから、神南と沢村はベッドに腰を下ろし、ナツと水野冴はテーブル前の椅子、二宮は壁際に立つという形でナツの話を聞くことになった。
 何より神南をひと目で刑事と看破し、なおかつ鍵を持っていることまで知っていたナツは、ただ者ではないことだけは確かだった。しかも、その説明はそれに輪をかけて信じ難いものだった。
 ナツは、パンドゥーラなる今回の事件の発端となった生き物のことを話し、それを追いかけていた鳴海継人と水野博士の姪・月ノ瀬瑞希と少なからず関わりを持っていたこと、そして彼らがアメリカ人らしき数名の男に連れ去られたことを語った。
 そして、何より驚かされたのは、ナツ自身が他人の頭の中を覗き見ることができるということだった。彼はその能力で、鳴海と瑞希の二人を連れ去る男の頭の中を覗き、その記憶に焼きついた映像をたどってここまで来たと言う。それならば、ひと目で神南のことを刑事と見破り、なおかつ鍵を持っていたことも神南の頭の中を覗き見ることで知ったと思えば納得もいく。
 それでも、にわかには信じ難い話ではあることに変わりはなかった。
とはいえ、今のところそれについて反論できる者はこの場にはいない。
「ナツ君と言ったね」
 それまで無言だった沢村が口を開いた。特にこれといって動揺している風ではない。
生来の性質なのか、どんな時でも冷静な男ではある。
「はい」
 ナツはまっすぐ沢村を見つめた。
「彼の中、覗けるかな?」
 沢村はベッドに横たえられた男を指差した。
「おい、何を言ってんだ」
 さすがに、神南は渋い面持ちで沢村を見た。
「今はどんなことでもいい。手掛かりがほしい。彼の能力なら、何かわかるかもしれない」
「それにしたって…」
「神南さんも聞いただろ。ナツ君の話には、嘘や作り話では到底補いきれない情報がごまんと詰まっていた。欠落したものを補ったのは彼の能力だ。俺は信用していいと思う」 
 言って、沢村はナツを見た。ナツも沢村の視線をしっかりと受け止めた。その目は水のように澄んでいた。
 ふうっとため息をつくと、神南はぼりぼりと頭を掻いた。
「お前がそう言うなら、まあ」
 言って、「俺のガラじゃねぇな」と付け足した。
「頼むよ」
「はい」
 沢村の言葉にナツは立ち上がると、ベッドに近づいた。
 ふと、二宮は水野冴に視線を移した。
 冴は自分の身体を抱き締めるようにして、じっと椅子に座っている。
 目は床に向けたままだ。今までの会話にも何ひとつ反応しなかったし、ナツが立ち上がった時も身じろぎひとつしなかった。
 完全に自分の内に閉じこもっているように見えたが、それが彼女の常態なのか、それともアメリカ人と思しき男同様ショックを受けたからなのか、二宮には判別のしようがなかった。
 けれど、何故か二宮には冴がひどく怯えているように思えてならなかった。
 視線を戻すと、ナツがベッドの脇に立ったところだった。
 すうっと息を吸い込む気配があった。
 ナツはじっと横たわった男の顔を見つめた。
 ぴぃんと辺りの気配が張りつめていく。室内の空気が心なしか澄んでいくように感じられた。ヒーターはついているはずなのに、ざわざわと寒気がしてきた。
 二宮は辺りの雰囲気に呑まれて、ただごくりと唾を飲みこんだ。


 休みなく動くワイパーが、ガラスにつく先から雨粒を払っていく。
 二宮は運転しながら、ルームミラーでそっと後部座席を見た。
 後部座席には、相変わらず自分を抱き締めるようにして俯いた冴と、窓の外をぼんやりと眺めながら何事かを思案中の沢村が座っていた。
 神南は、助手席でつまらなさそうに車窓に過ぎ行く景色を眺めている。
 二宮は前に視線を戻した。
 絶え間なく降り注ぐ雨のせいで視界は良くないが、前方を走る車のテールランプははっきりと見えていた。
 車間距離を適度におき、前を行くナツの車についていく。
 車は、倉庫が建ち並ぶ一角を走っていた。やがて、見えてきた十字路の手前でナツはスピードを落とした。
 そのまままっすぐ進めば埠頭に出る。しかし、ナツの車は左のウインカーランプを点滅させた。
 二宮も慌ててウインカーをつける。
 左折し、少し走ったところでナツの車は再びスピードを落とした。
 倉庫の影に続いて車を進めると、フェンスで三方を囲まれた駐車場らしきスペースの一角にナツの車が停車した。
 二宮の車も後に続き、ナツの車の横に停まった。
「着いたか」
 神南がシートから身体を起こした。
「ええ。でも、ここは…」
 二宮は窓の外を見た。
 目の前のフェンスにかかった、錆びて所々ペンキのはげた看板によると、この倉庫の影に位置するスペースは月極駐車場らしい。しかし、使われなくなって久しいようだ。というのも、ナツの車と二宮の車以外にかすれた白線で区切られたスペースに停まっている車はなく、仕切られているはずのスペースの入口にはロープ一本張り渡されていなかった。
 窓の向こう、ナツが車を降りるのが見えた。
 それを見た神南も、さっさと降りてしまった。
 しかし、雨はまだ降り続いているはずだ。
 二宮が降りるか否か考えていると、沢村も降りてしまった。
 水野冴と二宮だけが車内に残ったが、結局二宮も降りることにした。二人きりになったところで、冴にかけられる言葉が思いつかなかったからだ。
 二宮の予想に反して、先刻までの雨は止んでいた。
 微かな潮の香りと波の音が聞こえる。ここから海までは歩いて行けるほど、ほんのわずかな距離なのだ。
 神南が辺りを見回し、ナツに歩み寄った。
「で?奴らのアジトはどこなんだ?」
 ナツは微塵も迷いのない動作で、すうっと右腕を持ち上げると一点を指差した。
 その方向を、二宮も見た。
 あれは。
 目にした瞬間、二宮の心臓が高鳴った。
 車を停めたスペースから、わずかに離れた闇に塗り潰された夜空に浮かび上がるように、巨大な白い影が見えた。
 船だ。しかも大きい。テレビや雑誌で見る、大型の豪華客船だ。
 白い船体には、『EVANGELIN(エバンジェリン)』と記されていた。それが船の名前らしい。
「船か。個人所有する船舶に、証拠も礼状もなしに手出しはできねぇな」
 神妙な面持ちで言いながら、神南が無精髭の顎をさすった。
 今まで散々証拠も礼状もなくやってたじゃないか。
 と、二宮は思ったものの、無論口には出さない。
 それにしても。
 こんな大型客船を用意していたとは驚きだった。
 ナツの話を信じるなら、アメリカ本社の人間はここに鳴海継人と月ノ瀬瑞希、二人を連れてきたことになる。
 ナツがその能力で覗き見た男の記憶には、この船までの道筋がはっきりと映像で残っていた。それ以外に残っていたのは、鮮明な化物の記憶らしいが、二宮はおぞましさのあまり話の途中でトイレに立ったため、詳細はわからない。
 とにかく、ナツの言葉を信じた沢村が二宮と神南の二人を引っ張る形で車に乗り込み、ナツがここまで男の記憶の映像をたどり、案内して来たのだった。
「どうするよ?」
 例によって、神南の問いは沢村に向けられていた。
「うーん」
 沢村が、俯いて顎に軽く握った拳を当てた。どうやら考える時の癖らしい。
「これを使おう」
 そう言って、沢村が取り出したのは携帯電話だ。例のアメリカ人が持っていたものだった。
 二つ折りの携帯を開いてボタンを押そうとしたところで、沢村は思い出したように目を二宮に向けた。
「何です?」
 思わず二宮は訊く。
「俺と神南さんは、これからあそこへ乗り込むけど、二宮はどうする?」
 とんでもないことを、さらりと沢村は言った。
「の、乗り込むんですか!?…証拠も礼状もナシじゃ何もできないって…」
 二宮は慌てて言った。一方の沢村は、苛々するほど落ち着き払っている。
「警察の捜査としては無理でも、あそこの中に入り込めれば何とかなる。少々危ない目に遭ったとしても、すぐに連中が殺すような真似はできないようにすることも可能だ。その上で、君に来る気があるかと訊いてるんだよ」
 淡々とした沢村の口調に、二宮は黙り込んだ。
 何なんだ、その自信は。
「僕は…」
 ふと、二宮の目の隅に白いものがふわりと揺れた。
 見ると、冴がいつのまにか二宮の横に立っている。
「冴…さん」
 二宮は思わず呼んでいた。
 しかし、冴は無表情に前を向いたままその場に立ち尽くしている。視線の先には、巨大な白い船体があった。
「君も行く?」
 沢村が訊くと、冴はコクンと頷いた。
 途端に、二宮は慌てた。
「何を言ってるんですか、そんな危ないかもしれない所に冴さんを連れて行くなんて!」
 二宮は神南を見たが、神南はすべて了解しているらしく何も言わなかった。
「神南警部…」
「正直に言うとね。彼女を連れて行くことが大前提なんだ。連中にとって、必要な切り札のひとつが水野博士の娘である彼女なんだよ」
 沢村の淡々とした口調。
「そんな!この娘を道具みたいに!」
 二宮は沢村に掴みかかろうとした。頭にカーッと血が昇り、めったにないことだが二宮は強烈な怒りを感じていた。
 しかし、二宮の手が沢村に届く寸前、神南が目の前に立ちふさがった。
 素早い神南の動きに、二宮はその胸に抱きとめられる形で止まった。
「落ち着け兄ちゃん。俺達だって、好きでこの娘を連れて行くんじゃねぇんだ。考えてもみろ。水野博士だかパンドゥーラだか知らないが、それに関わった何の罪もない二人の人間が連れ去られているんだぞ?消えた警備員の死体に、行方不明の金田のこともそうだ。何が起こってるかわからないが、俺達が何もしなけりゃこのままそれらのごちやごちゃ丸ごと闇の中だ。それでいいわけねぇだろ。いいわけないよな。ないんだよ」
 二宮は呆然と、神南の顔を見上げた。
 思いのほか、優しい眼差しがそこにあった。無精髭が少し伸びている。眠そうだったが、しっかりとした意思の強さを感じさせる光が神南の眼にはあった。
「兄ちゃん。あんたはいい警官だ。けど、それ以前にいい人間でもある。この場で何をすべきか、一人の人間として、俺に命じられてではなく、自分自身で決めろと奴は言っているのさ」
 神南は背後を顎で示して言った。そちらを見ると、沢村が二宮を見ていた。目が合うと、沢村は静かに頷いて見せた。
「行くか?二宮」
 神南が、初めて二宮の名を呼んだ。
「はい」
 二宮は力強く頷いた。
「では、僕も行きます」
 ナツが沢村の横に立つと、そう言った。
 二宮は思わず口を開いた。
「しかし、君は…」
「二人を助けたいんです。それに僕の…」
 言いかけて、ナツは微かに言うのが嫌そうな顔をした。そして、「能力も、役に立てれば」と付け足した。
 神南がぽんぽんと二宮の肩を叩き、沢村を振り返った。
「よし、じゃあ早いとこ予約入れろ、沢村」
「はいはい」
 言いながら、沢村が携帯のボタンを押す。画面を見ながらボタンを操作し、やがて目当ての相手を発見したのか、沢村は携帯を耳に当てた。
「もしもし」
 相手はアメリカ人だというのに、沢村は日本語で話している。
「名前は沢村。サ・ワ・ム・ラ。そう…警察?違う。雇われ調査員だよ。あなたがボス?」
 沢村は、どうやら相手と日本語で会話が成立しているらしい。
「すぐそこまで来ているんだ。ここから船が見える。迎えに来てくれないか」
 船を眺めながら、沢村がのんびりと言った。
 その口調は、親しい友達に迎えに来てほしいと言っているような気軽さだ。
「ふうん。別に無理にとは言わないよ。そっちも忙しいだろうからね」
 相手はどうやら沢村の提案…迎えに来いというのを断ろうとしているようだ。しかし、沢村はたっぷり間を置いてこう続けた。
「…でもいいのかなぁ。こっちには彼女がいるんだけど」
 と言って、沢村は視線を冴に向けた。そして、すぐに船の方に顔を向ける。
 しばしの沈黙。
「そう、それが俺達だ。武器は持ってない」
 二宮は、じっと沢村を見ていた。
 携帯電話片手に話す様子は、冷静そのものだ。少しの動揺も感じられない。むしろ、余裕すら感じさせる。
 こうあるべきなのか? この状況下で誰かが助かるのだとしたら、それは沈着冷静な沢村なのではないか。
 そんなことを考えながら、二宮は沢村を見ていた。
 どのような状況下でも、的確かつ冷静な判断を要求されるのが、警察の仕事だと二宮は思っている。しかし、そんな仕事を選んだ自分が、果たしてそれに見合う人材であったかと自らに問えば、答は出せそうにない。少なくとも、沢村のような冷静さも持ち合わせていなければ、神南のような強引さも自分にはない。
 それでも。
『僕の能力も役立てれば』
 そう言ったナツのように、自分でも何かの役に立てるのではないかという淡い期待めいた気持ちがあった。それは、今回の神南の仕事に嫌々ながら付き合いながらも、ずっと感じていたことではあったのだが。
 やがて、沢村は耳から離して携帯を閉じた。
「交渉成立。…予約取れたよ。これから五分後に迎えが来るらしい」
「連中は、俺達がここにいることを知っているのか」
 神南が訊いた。
 交わされた会話から、相手がこちらの様子を見ているらしいことがそれとなく伝わってきた。そのことを神南は言っているらしい。
「船の監視員がこっちを見ている。電話してくると思っていたと言っていた。もっとも、例のホテルでショック状態の彼からこの場所を聞きだしたと思っているようだけど」
「どっちにしろ、全員行くことになっていたわけだな」
 言いながら、神南はため息とともに天を仰ぎ見た。
 再び、ぽつぽつと雨が降り始めていた。


 こんな経験はそうあるものじゃないな。
 二宮はぼんやりとそう思った。
 五分後、彼らは沢村が言った通り迎えに来た。しかも、ヘリに乗って。
 かつては駐車場だった空き地の上空にヘリが現れ、ゆっくりと降下してくるのを、てっきり車で迎えに来ると思っていた二宮は信じられない思いで眺めていた。
 ローターが巻き上げる風に、辺りに淡い砂煙が立つ。
 やがて、ヘリが着地すると同時に、スライド式のドアが内側から開けられた。
 そこにいたのは、そばかすの散った赤みがかった白い肌が、ひと目で白人と知れる赤毛の若い男だった。ヘッドホンをつけたその男が、こちらに手招きをしている。何やら叫んでいるが、ローターの音にかき消されてまるで聞こえなかった。
 沢村が先に乗り込み、次に神南に支えられるようにして冴、そしてナツが乗り、神南が手で二宮に乗るように促した。二宮が乗り込むと、続いて神南が乗り込んできた。
 中は、向かい合わせの座席に三人ずつ座れるようになっている。
 沢村の隣に冴、その横にナツが座った。向かいの席に二宮、神南が座り、その横に先ほどの男が座る。
 男は全員が座席につくのを確認してから、「GO!」と叫んだ。
 エレベーターが止まる瞬間のような奇妙な浮遊感とともに、ヘリは上昇を開始した。
 男は全員を見渡しながら、早口で何やら言った。英語らしいが、聞き取れない。
「急上昇するから、シートベルトを締めろと言ってる」
 言いながら、沢村がシートベルトを締めた。
 二宮も、慌ててシートベルトを締めた。飛行機の座席にあるような、金具をはめ込むタイプのものだ。神南も横で金具をカチャカチャやっている。
 やがて、ヘリは沢村の言うように急上昇を開始した。
 機体が斜めになり、二宮と神南は座席の背もたれに身体を押しつけられた。逆に前の三人はベルトに支えられて前のめりになる。
 すぐに機体は水平に戻った。
 そして、唐突に空の旅は終わった。
 ゆっくりとヘリの機体が垂直に下降し始め、窓の外にライトに照らされた丸いヘリポートが見えた。近づくにつれ、グリーンのヘリポートがどこに設置されているか二宮は気がついた。
 船の上だ…。
 駐車場を飛び立ってから、時間にしてほんの数分。
 二宮は先ほどまで眺めているだけだった、白い船の上に降り立っていた。


 闇の中に、ぽつんと赤い光が浮かび上がった。
 空気は潮の香と湿気をたっぷりと含み、波の音と靴底に感じる微かな揺れが、ここが地上ではないことを思い出させてくれる。
 やがて、赤い点がみるみるこちらに近づき、爆音とともに黒い影が目の前に降り立った。
 雨が再び降り始めていたが、ヘリに防水シートをかける間はありそうだった。
 ユージン・Kはそんなことを考えながら、ローターの風に巻き上げられるコートの裾もそのままにヘリのスライドドアが開くのを待った。
 ヘリから最初に降り立ったのは、部下のトム・ヘイワーズだ。その後に続いて、何とも胡散臭いコート姿の男と、頼りなげな若い男が降り立った。
 しかし、その後に降りてきた少年と男には、少なからず興味が湧いた。
 少年の方は、稀に見る美形と言っていい顔立ちをしていた。白い肌と黒髪が、妖しく輝いて見える。一方の男の方は、美形なのだが甘さが感じられない。涼しげな切れ長の目元と身にまとった落ち着いた雰囲気が、どこか危険な香りを感じさせた。電話をしてきたのは、おそらくこの黒髪の男だろう。
 異物だな。
 ユージン・Kは心の中で呟いた。
 最後に降り立ったのは、白いワンピース姿のままの水野冴だった。
 それを確認して、ユージン・Kは満足そうに頷いた。
 それにしても。
 ユージン・Kは、一同を見回した。
 胡散臭いコート姿の男、頼りなげな人の良さそうな青年、人形のような美少年、黒髪の美青年、そして目の大きな青白い肌の美少女。
「あんたが、ボスかい」
 コート姿の男が、ユージン・Kに気がついて言った。
「ボスか。まあ、そうとも言うかもしれない。ところで歓迎するよ。エバンジェリンにようこそ」
 ユージン・Kは笑って見せた。もちろん、本心からの笑みではない。
 その時、例の美少年がすうっと一歩、ユージン・Kに向かって足を踏みだした。
「鳴海さんと金田さんは船倉ですね。瑞希さんは客室…やはり女性には優しく、ということですか」
 少年の言葉に、ユージン・Kは微かに目を見開いた。
 何故、そんなことを知っている? しかし、すぐに思い至った。
 あいつが喋ったのか。
 あいつとは、ホテルに残してきた部下、ビリー・バークスのことだ。
 しかし。
 少年の目は、まっすぐユージン・Kに向けられていた。その目が、まるですべてを見透かすように澄んでいるのが、ユージン・Kに得体の知れない薄気味悪さを感じさせた。
 ユージン・Kは軽く顎を動かした。それに頷くと同時に、トムは少年に近づいた。
「あ!」
 若い男が叫んだ。
 しかし、その時には少年の身体はその場に倒れて伏していた。
「あああ!」
 冴のか細い悲鳴が響いた。
 慌てて倒れた少年に駆け寄ろうとした若い男も、トムに阻まれ、その場に倒れた。すぐさま、トムは冴の方を振り返った。振り向きざま、手にしたものを冴の顔の前にかざす。
 冴もあっけなく倒れた。それを途中で支えて抱き上げると、トムは何事もなかったかのようにユージン・Kの横に立った。
 トムの手には、即効性の催眠ガスのスプレーがあった。
 動かなかったコート姿の男と黒髪の若い男は、少しは利口なようだ。
 少しでも動けば、同じように昏倒させられるのが即座に理解できたと見える。
「これがあんたらの歓迎の仕方かい」
 コート姿の男が、苦々しげに言った。
「君達は少しは利口なようだから、選ばせてあげよう。この場で彼ら同様眠るか、我々におとなしくついて来るか」
「ついて行くよ。行けばいいんだろ。くそっ」
 下品な男だ。
 ユージン・Kは顔を歪めた。一方の男に目を向けると、冷めた目で倒れた少年と若い男を見つめていた。
「君が沢村か?」
「ああ」
 男、沢村は顔を上げてユージン・Kを見た。
「君はやけ落ち着いて見えるが、こちらと同意見かね?」
 ユージン・Kが目でコート姿の男を示すと、沢村は頷いた。
「おとなしくついて行くことにするよ。落ち着いて見えるのは性分で、実際はそうでもないんだけど」
 まったくそうは見えないが、さらりと沢村は答えた。
 先ほどの電話でのやり取りといい、冷静な言動といい、いかにも使えそうな男だ。
「では、こちらへどうぞ」
 ユージン・Kは二人を促して歩き始めた。

 

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